黒い恋
私は、道端で大学ノートを拾った。薄汚れた表紙は雨に濡れたのか、波打っていて、角はふやけていた。誰かが途中で投げ出したような、あるいは意図的に捨てたような、そんな曖昧な存在感だった。何気なくページをめくると、そこには文字がびっしりと詰まっていた。黒いインクが、余白を許さないほどに並んでいる。几帳面なのか、あるいは切羽詰まっていたのか、どの行にも妙な熱がこもっているように見えた。
私はしばらくその場に立ち尽くして、読み進めた。内容は断片的で、日記のようでもあり、小説の草稿のようでもあった。登場人物の名前が途中で変わったり、同じ場面が何度も書き直されていたりする。だが、それでもなお、何かを必死に掴もうとしている気配があった。言葉で世界を囲い込もうとする、あの感じだ。
不意に、胸の奥がざわついた。これを書いた誰かは、どこに行ったのだろう。これを捨てたのか、それとも落としたのか。どちらにせよ、ここにある言葉は、今や私の手の中にある。
そのとき、ふと思ったのだ。いつか、これを越えるようなものを書いてみたい、と。いや、越えるというよりも、せめて同じくらいに、何かにしがみつくような文章を、自分でも書けたらいい。そうして私は、「小説家になろう」に投稿することを、ひとつの目標として心の中で定めた。
ノートを閉じて歩き出すと、見慣れた道に出た。しばらく進むと、かつて通っていた学校の門が見えてくる。そこは、もうすぐ廃校になると聞いていた。鉄製の門は錆びつき、校舎の窓もいくつか割れている。人の気配はなく、風が通り抜けるだけだ。
私は門の前で立ち止まった。中に入ることはできないが、かつての日々が、ぼんやりと輪郭を持って浮かび上がる。その中に、ひとりの女の子がいた。
彼女は、教室の窓際の席に座っていた。いつも静かで、本を読んでいることが多かった。私は特別に親しかったわけではない。ただ、何度か言葉を交わしたことがあるだけだ。それでも、なぜか強く印象に残っている。
ある日の放課後、私は忘れ物を取りに教室へ戻った。夕暮れの光が差し込む中で、彼女はひとり、ノートに何かを書いていた。声をかけると、彼女は少し驚いたように顔を上げ、それから、少しだけ笑った。その笑い方が、妙にぎこちなくて、それでいて、確かな温度を持っていた。
「何書いてるの」と、私は聞いた。
「たいしたものじゃないよ」と彼女は言ったが、ノートを閉じる手はどこか名残惜しそうだった。
そのとき、私は踏み込めなかった。何を書いているのか、見せてほしいと言うこともできたはずなのに、なぜか言葉が続かなかった。ただ、沈みかけた光の中で、彼女の横顔を見ていた。
門の前で立ち尽くしながら、私は思う。あのノートの文字と、彼女の書いていたものは、どこかで繋がっているのではないかと。もちろん、そんなはずはないのだが、それでも、言葉というものは、どこかで誰かの中に引き継がれていくのかもしれない。
私は大学ノートを抱え直し、ゆっくりと歩き出した。もう振り返ることはしなかった。書くしかないのだと思った。あのとき踏み込めなかった分まで、言葉にしていくしかないのだと。




