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安宿(やすやど)  作者: ウィリアム輝夫
安宿 (ノート5)
20/83

あなた


 私は、洗面台の前に立っている。


 狭いユニットの白は、もはや白ではなく、何度も塗り重ねられた忘却の色だ。鏡は、角が欠けている。その欠け目から、こちら側とあちら側の境界が、ほんのわずかに滲んでいるように見える。


 そこに映っているのは、私の顔だ。


 だが、それは顔の形をした何かであって、私そのものではない。目は、こちらを向いている。だが、見ていない。見ようとしている気配だけが、表面に貼りついている。


 手の中のナイフは、重い。


 サバイバルナイフ、という名称がふさわしいのかどうかは分からない。ただ、それは用途を持ちすぎている形をしていた。切るためだけに作られたのではなく、切ることを含めた、いくつかの可能性の総体として、そこにある。


 血が、刃から滴っている。


 ぽたり、という音。それが洗面台に落ち、広がる前に止まる。まるで、流れることを拒否しているかのように、そこに留まる。重力は働いているはずなのに、結果が中途半端だ。


 背後に気配がある。呼吸の乱れ。言葉にならない震え。だが、それらはもはや音として認識されない。ただ、空間の密度が不均一になっている、という感覚だけが残る。


 私は、ゆっくりと顔を上げる。鏡の中のそれも、同じ動きをする。ずれていない。ほんの一瞬だけ、完全に一致する。焦点が、合う。


 その瞬間、何かが決定される。あるいは、すでに決定されていたものが、遅れて追いつく。だから、声が出る。


「これを読んでいる、あなた!」


 言葉は、鏡の表面で一度反射し、それからこちら側に戻ってくる。どちらが発信源なのか、区別がつかない。


「今度はあなたの番だぜ!」


 “番”という語が、妙に重く落ちる。順番。配列。配置。ずれていたものが、ここで一つ、嵌る。口が開く。笑いが出る。


「アヒャヒャヒャ!」


 それは笑いではなく、音の連なりだ。意味を持たないはずの音が、意味そのもののように響く。――切り替わる。あなたは、そこでページをめくる手を止める。


 視線が、紙の上から剥がれない。インクの黒が、妙に深い。単なる文字のはずなのに、そこに奥行きがあるように見える。あなたは、それを閉じる。


 ノートの表紙が、わずかに湿っている気がする。気のせいかもしれないし、そうでないかもしれない。あなたは立ち上がる。部屋の空気は、さっきまでと変わっていないはずなのに、どこか一箇所だけ、濃度が違う。ゴミ箱がある。そこに投げ入れる。軽い音。それで、完了するはずだった。


 だが、あなたは動かない。視線が、ゴミ箱の中に吸い込まれる。見えているのは、ただのノートだ。閉じられている。何も起きていない。それでも、どこかで、まだ続いている。あなたは顔を上げる。カレンダーがある。


 明日。ゴミ収集の日。その事実が、妙に強い意味を帯びる。順番。回収。処理。消去。あなたは、ゆっくりと頷く。責任を持って、始末しよう、と。何を、という問いは浮かばない。浮かぶ前に、すでに決まっている。


 部屋は静かだ。だが、その静けさは、空白ではない。何かが、配置され終えたあとの、過不足のない状態だ。あなたは、ふと、近くの鏡を見る。そこに映る自分の目が、ほんの一瞬だけ、どこにも焦点を結んでいないように見えた。



(作者よりのお知らせ。


 このノートは、あなたによって無事に投棄されました。よって、ここに書いてある文章は、ノート5とします。これから、このノートの内容が1から紹介されますので、楽しんでご覧くださいませ。ただし、偶数章で、です。奇数章は、私の小説になります。どっちもダークです。しんどい人は読むのはやめましょう)

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