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安宿(やすやど)  作者: ウィリアム輝夫
安宿 (ノート5)
19/70


 やがて、水音ではなく、短く裂けたような声がした。


 続いて、はっきりとした絶叫。


 狭い部屋の空気が、その音で一度ひっくり返る。私は立ち上がらず、ただドアの方を見た。次に何が起きるかは、だいたい分かっている種類の時間だった。


 ドアが勢いよく開く。


 彼女は後ずさりながら部屋に戻ってきて、壁にぶつかるようにして止まった。呼吸が乱れている。言葉にならない音が、喉の奥で引っかかっている。


 私はようやく立ち上がり、ゆっくりとドアのところまで歩いた。


 中を覗く。


 ユニットバスの狭い空間に、逆さまの身体が一つ、吊られている。足首を縛られ、天井の配管に引っかけられているらしい。髪は重力に従って垂れ、濡れているのか、あるいは別の理由か、塊になっている。


 血は、床に溜まっているというより、途中で止まっている。流れきらず、途中で考えをやめたみたいに。


 私はそれを少しだけ見て、ドアを半分閉めた。


 彼女はまだ壁に張り付いている。視線は、こちらと、ドアと、その間を行き来している。


「……なに、あれ」


 ようやく言葉になった声は、掠れていた。


 私は肩を少しだけすくめた。


「それは」


 彼女の目が、こちらに固定される。


「あんたの教団の、女教祖だよ」


 言葉は、思っていたよりも軽く出た。


 彼女の顔から、色が一段階抜ける。


「……違う」


 即座に否定が返るが、力はない。


「そんなはず、ない」


 彼女は首を振る。だが、その動きは小さく、どこか途中で止まっている。


「だって、教祖様は……」


 その先が続かない。


 “生きている”のか、“あそこにはいない”のか、あるいは別の何かか。言葉が見つからないようだった。


 私はベッドの縁に腰を下ろした。


「顔、見たか?」


 彼女は答えない。答えられないのか、見ていないのか、分からない。


「見れば分かる」


 私はそう言ったが、確信があるわけではない。分かる、というのが何を指すのか、自分でも曖昧だった。


「……違う」


 彼女はもう一度だけ言う。今度はさっきよりも小さい。


「教祖様は、あんなふうには……」


 “あんなふう”という言葉が、宙に浮く。どんなふうであれば正しいのか、定義されていない。


 私はしばらく黙っていた。


 部屋の中には、彼女の荒い呼吸と、外の廊下を誰かが歩く足音が、かすかに混ざっている。


「順番の話」


 私はぽつりと言った。


 彼女の肩が、わずかに反応する。


「自分を見て、それから他人を見て、最後に世界を見る、って言ってたな」


 彼女は何も言わない。ただ、聞いている。


「今、どこだと思う?」


 質問は、そのまま落ちる。


 彼女の目が、また少しだけ揺れる。焦点が、合いきらない。


 ドアの向こうからは、相変わらず、水音は聞こえない。


 ただ、そこにあるはずのものの気配だけが、消えずに残っている。

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