勧誘
彼女は一度だけ息を整え、それから、少しだけ声の調子を変えた。今までよりも、わずかに低く、しかし滑らかだった。話題が核心に触れたとき、人は声を整える。
「教祖様はね、もともと普通の人だったんです」
“普通”という言葉に、彼女は軽く指で印をつけるようにテーブルを叩いた。
「むしろ、私たちよりもずっと壊れていた。だからこそ、最初に気づいたんです」
壊れていた、という言い方に、ためらいはない。むしろ誇らしげですらある。
「その人も、鏡から始めたんですよ。最初は、自分の顔が分からなかったって」
分からない、というのは見えないということではなく、意味を持たないということだろう、と私は考えるが、確かめる気は起きない。
「目がね、どこを見ているのか分からなかったって。だから、ずっと見続けた。何時間も、何日も」
彼女は両手を重ねて、動かさない。まるで、その時間の長さを身体で示しているようだった。
「そして、ある日、順番が揃ったんです」
揃う、という言葉は、彼女の中で何度も使われているらしい。違う説明をしているはずなのに、同じ場所に戻ってくる。
「その瞬間、教祖様は、自分の目の奥に、もう一人の自分を見たって言うんです」
もう一人、という表現に、私はほんのわずかに引っかかる。だが、それ以上考えない。
「それが“本来の自分”で、それまでの自分は、ただの順番違いの影だった」
彼女は、影という言葉のところで、少しだけ声を落とした。
「そこからなんです。全部をやり直した。生活も、人間関係も、考え方も」
やり直し。便利な言葉だ、と私は思う。だが、実際にやる人間はほとんどいない。
「でね、教祖様は気づいたんです。これは自分だけの問題じゃないって」
彼女の声に、わずかな熱が戻る。
「みんな、順番を間違えてる。同じように、焦点が合っていないまま生きてる」
私は無意識に、また鏡を見ていた。そこにいる私は、相変わらず、どこにもピントを結ばない。
「だから、教え始めたんです。順番の戻し方を」
彼女はゆっくりと指を一本立てる。
「まず、自分を固定する」
二本目。
「次に、他人を正しく配置する」
三本目。
「最後に、世界を受け入れる」
その動作は、どこか儀式めいていた。
「それだけなんです。でも、それだけで全部が変わる」
全部、という言葉が軽く響く。何もかもを含む言葉は、たいてい何も具体的に指していない。
「私もね、最初は半信半疑でした。でも、教祖様の目を見たとき、分かったんです」
彼女は少しだけ前に身を乗り出す。
「焦点が、ずれてないんですよ。まっすぐで、揺れない」
揺れない、という言葉に、彼女はわずかに息を重ねた。
「だから、この人についていけば、大丈夫だって思った」
大丈夫、という根拠のない言葉が、なぜかこの場では自然に聞こえる。
「実際、大丈夫だったんです。少なくとも、前よりはずっと」
比較の仕方としては、曖昧すぎるが、彼女は満足しているらしい。
「あなたも、会えば分かりますよ」
彼女はそう言って、少しだけ微笑んだ。
「教祖様に」
その言葉のあと、彼女はようやく沈黙した。店内の音が戻ってくる。食器の触れ合う小さな音、遠くの会話、コーヒーの匂い。
私は、しばらく何も言わなかった。鏡の中の自分は、相変わらず曖昧で、こちらを見ているのかどうかも分からない。
喉の奥に、何かが引っかかっているような感覚があった。
それを押し出すようにして、私は口を開いた。
「今度は、私の番だ」




