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安宿(やすやど)  作者: ウィリアム輝夫
安宿 (ノート5)
14/63

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 彼女は一度だけ息を整え、それから、少しだけ声の調子を変えた。今までよりも、わずかに低く、しかし滑らかだった。話題が核心に触れたとき、人は声を整える。


「教祖様はね、もともと普通の人だったんです」


 “普通”という言葉に、彼女は軽く指で印をつけるようにテーブルを叩いた。


「むしろ、私たちよりもずっと壊れていた。だからこそ、最初に気づいたんです」


 壊れていた、という言い方に、ためらいはない。むしろ誇らしげですらある。


「その人も、鏡から始めたんですよ。最初は、自分の顔が分からなかったって」


 分からない、というのは見えないということではなく、意味を持たないということだろう、と私は考えるが、確かめる気は起きない。


「目がね、どこを見ているのか分からなかったって。だから、ずっと見続けた。何時間も、何日も」


 彼女は両手を重ねて、動かさない。まるで、その時間の長さを身体で示しているようだった。


「そして、ある日、順番が揃ったんです」


 揃う、という言葉は、彼女の中で何度も使われているらしい。違う説明をしているはずなのに、同じ場所に戻ってくる。


「その瞬間、教祖様は、自分の目の奥に、もう一人の自分を見たって言うんです」


 もう一人、という表現に、私はほんのわずかに引っかかる。だが、それ以上考えない。


「それが“本来の自分”で、それまでの自分は、ただの順番違いの影だった」


 彼女は、影という言葉のところで、少しだけ声を落とした。


「そこからなんです。全部をやり直した。生活も、人間関係も、考え方も」


 やり直し。便利な言葉だ、と私は思う。だが、実際にやる人間はほとんどいない。


「でね、教祖様は気づいたんです。これは自分だけの問題じゃないって」


 彼女の声に、わずかな熱が戻る。


「みんな、順番を間違えてる。同じように、焦点が合っていないまま生きてる」


 私は無意識に、また鏡を見ていた。そこにいる私は、相変わらず、どこにもピントを結ばない。


「だから、教え始めたんです。順番の戻し方を」


 彼女はゆっくりと指を一本立てる。


「まず、自分を固定する」


 二本目。


「次に、他人を正しく配置する」


 三本目。


「最後に、世界を受け入れる」


 その動作は、どこか儀式めいていた。


「それだけなんです。でも、それだけで全部が変わる」


 全部、という言葉が軽く響く。何もかもを含む言葉は、たいてい何も具体的に指していない。


「私もね、最初は半信半疑でした。でも、教祖様の目を見たとき、分かったんです」


 彼女は少しだけ前に身を乗り出す。


「焦点が、ずれてないんですよ。まっすぐで、揺れない」


 揺れない、という言葉に、彼女はわずかに息を重ねた。


「だから、この人についていけば、大丈夫だって思った」


 大丈夫、という根拠のない言葉が、なぜかこの場では自然に聞こえる。


「実際、大丈夫だったんです。少なくとも、前よりはずっと」


 比較の仕方としては、曖昧すぎるが、彼女は満足しているらしい。


「あなたも、会えば分かりますよ」


 彼女はそう言って、少しだけ微笑んだ。


「教祖様に」


 その言葉のあと、彼女はようやく沈黙した。店内の音が戻ってくる。食器の触れ合う小さな音、遠くの会話、コーヒーの匂い。


 私は、しばらく何も言わなかった。鏡の中の自分は、相変わらず曖昧で、こちらを見ているのかどうかも分からない。


 喉の奥に、何かが引っかかっているような感覚があった。


 それを押し出すようにして、私は口を開いた。


「今度は、私の番だ」


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