勧誘
彼女は、こちらの沈黙を肯定と受け取る種類の人間だった。あるいは、否定という概念を最初から持ち合わせていないのかもしれない。
「どうして入ったのか、ってよく聞かれるんですけど」
聞いてはいないが、彼女はそう前置きした。カップの縁に指をかけ、わずかに回す。その動きは、考えるというより、順序をなぞっているように見えた。
「単純ですよ。壊れたからです」
壊れた、という言葉は軽く発音された。割れたガラスよりも、むしろ紙が破れるときの音に近い。
「仕事も、うまくいかなくなって、人とも会わなくなって。ある日、部屋で、鏡を見たんです」
彼女は一瞬だけ言葉を止めた。私の後ろ、壁に掛けられた小さな鏡に視線をやる。
つられて、私もそちらを見る。そこには、私の顔があった。だが、目の焦点が合っていない。こちらを見ているはずなのに、どこも見ていない顔だった。
「そのとき、自分が空っぽだって分かったんです」
彼女の声は静かだったが、確信に満ちていた。
「何も入っていない容器みたいで。なのに、重さだけはある。おかしいでしょ?」
私は何も答えない。鏡の中の自分は、相変わらず自分、つまり私に興味を示さない。
「それで、外に出たんです。理由もなく。歩いていたら、声をかけられて」
声、というところで、彼女の口元がわずかに緩む。
「“あなたは、順番を間違えている”って言われたんです」
さっきの言葉だ、と私は思う。順番。彼女の中で、それは中心にあるらしい。
「最初は腹が立ちましたよ。でも、同時に、妙に納得したんです。ああ、そうかもしれない、って」
納得は、しばしば理由よりも先に来る。
「私たちの教えは、単純なんです。世界は、正しい順番でしか理解できない。逆に言えば、順番さえ戻せば、全部が意味を持つ」
彼女は指を三本立てて、順に折っていく。
「まず、自分を見る。それから、他人を見る。最後に、世界を見る。この順番が崩れると、全部おかしくなるんです」
私は鏡から目を離す。彼女の顔は、はっきりと焦点が合っている。
「普通はね、逆なんですよ。世界から見て、他人を見て、最後に自分を決める。でもそれだと、自分がどこにも残らない」
彼女は軽く笑った。さっきと同じ、整った笑い方だ。
「だから、戻すんです。順番を」
戻す、という言葉が、やけに具体的に響く。だが、何をどう戻すのかは、依然として曖昧だ。
「私、最初にやったのは、鏡を見ることでした」
彼女はまた、あの小さな鏡を見る。
「毎日、決まった時間に、自分の目を見るんです。焦点が合うまで、ずっと」
私は思わず、もう一度だけ鏡に目をやる。そこにいる私は、やはり、どこにも焦点を結んでいない。
「不思議なんですけどね、ある日、急に合うんですよ」
彼女は静かに言った。
「その瞬間、全部が始まるんです」
始まる、という言葉のあとに、終わりについての説明はなかった。
店内の時計が、小さく音を立てた。誰も気にしない音だが、なぜか耳に残る。
彼女は、まだ続けるつもりらしい。私は、相変わらず、何も言っていない。




