勧誘
喫茶店は、昼を少し過ぎたあたりから、妙に静かになる。客は減り、コーヒーの匂いだけが居座る。私は窓際の席で、冷めかけたブレンドを前にしていた。書きかけの原稿は、さっきから一文字も増えていない。
彼女は向かいに座ると、間もなく話し始めた。こちらが何かを問う前に、すでに結論を持っている人間の話し方だった。
「人ってね、自分が自由だと思ってるでしょ。でもそれ、ほとんど思い込みなんですよ」
彼女はそう言って、砂糖を入れてもいないコーヒーを一口だけ飲んだ。苦いはずだが、顔は変わらない。
「私もそうでした。全部、自分で選んでるつもりだった。でも違った。見えないものに、ずっと引っ張られてたんです」
私は頷きもしなかった。頷く理由が見当たらないし、否定する気力もない。彼女の声は、店内の静けさに対して少しだけ浮いていた。
「気づいたのは偶然じゃないんです。導きなんです。ちゃんと、順番があって」
順番、という言葉が妙に耳に残る。私はその言葉を頭の中で転がしてみるが、形はすぐに崩れる。
「最初は怖かったですよ。でも、今は違う。全部意味があるって分かると、怖くなくなるんです」
彼女はそこで少し笑った。笑い方が、説明の一部みたいに整っている。
窓の外では、誰かが信号を待っていた。特に急いでいる様子もなく、ただ立っている。ああいう人間が一番信用できるのかもしれない、と一瞬思うが、すぐにどうでもよくなる。
「あなたも、きっと分かりますよ」
彼女はそう言って、初めて私の目をまっすぐ見た。
「作家なんですよね?言葉を扱う人は、近いんです。あと一歩で」
近い、というのがどこを指すのか、私は聞かなかった。聞けば、説明が続くだけだと分かっていたからだ。
「私たちのところでは、“目覚め”って呼ぶんですけど」
彼女は指でテーブルを軽く叩いた。リズムは一定で、どこか機械的だった。
「簡単なんです。正しい順番で、自分を見ていくだけ。そうすると、全部つながる。過去も、今も、これからも」
つながる、という言葉は便利だ。何とでも結びつけられるし、何も結びつけていないとも言える。
私は冷めたコーヒーを飲んだ。味はほとんどしなかった。
「無駄なことなんて、ひとつもないんですよ」
彼女はそう言って、少しだけ身を乗り出した。
「こうして会ったのも」
その言葉のあとに、何か続くのだろうと思ったが、彼女は一度言葉を切った。間が生まれる。意図されたものなのか、単なる癖なのかは分からない。
私は、その間の中にいた。彼女の言葉でも、自分の考えでもない、空白のような場所に。
彼女は、再び口を開こうとしている。
私は、まだ何も言っていない。




