灰海を渡る黒薔薇ー4
塔の外で、鴉が一声鳴いた。男の顔から、初めて余裕が消えた。窓辺へ近付き、夜空を見上げる。一羽の鴉が塔の周囲を大きく旋回し、そのまま港の方角へ飛び去っていく。ただの鳥に見えた。だが、男は明らかにそれを合図として受け取っていた。
「もう行ってください。」
「まだ話は終わっていません。」
「終わらせなければならない。」
彼は羊皮紙を素早く畳み、エリスの手へ押し込んだ。
「これを持って、今すぐ塔を出るのです。」
「あなたは。」
「私は別の道から出ます。」
アランは階段の方へ目を向けた。まだ何も聞こえない。
それでも男は焦っている。
「誰が来る。」
「この街で、鐘の音より先に来る者たちです。」
意味を尋ねるより早く、塔の下から小さな物音がした。扉の開く音。続いて、石段へ靴底が触れる。一人ではない。いくつもの足音が、互いに乱れることなく重なっている。急いではいない。
逃げ道がないことを知っている者たちの歩き方だった。男は蝋燭の火を吹き消した。部屋が闇へ沈む。窓から差し込む月明かりだけが、彼の横顔を青白く浮かび上がらせた。
「西側の歯車の裏に、古い保守通路があります。」
声は低く、もう迷いがなかった。
「そこから隣の家の屋根へ出られる。」
「あなたも一緒に。」
エリスが言うと、男は首を横へ振った。
「全員が同じ道を使えば、気付かれます。」
「残れば捕まるわ。」
「捕まるとは限りません。」
その言葉には、ひどく静かな諦めがあった。
長い間、この瞬間を待っていた者の声だった。
足音が二階へ達する。
古い石段を踏むたび、鈍い響きが塔の内部を上ってくる。
アランが男の腕を掴んだ。
「名前を聞いていない。」
男は一瞬だけ目を見開き、それから僅かに笑った。
「名前を知れば、あなた方は私を助けようとする。」
「それが何だ。」
「それでは困るのです。」
男はアランの手を静かに外した。
「今夜ここへ来たのは、私を救うためではないでしょう。」
足音は止まらない。
二階から三階へ。
一段ずつ、確実に近付いてくる。
男は最後にエリスを見た。
「この街を救おうとは思わないでください。」
「なぜ。」
「街は、人ではありません。」
その言葉だけを残し、彼は部屋の奥にある細い扉へ向かった。
エリスは呼び止めようとした。
だが、その前に男は振り返り、静かに言った。
「港を見てはいけない。」
「港の下だけを見なさい。」
扉が閉まる。
ほぼ同時に、階段の足音が三階の踊り場へ達した。
アランは西側の巨大な歯車へ駆け寄り、壁との隙間を探る。
錆びた鉄枠の奥に、人一人がようやく通れるほどの狭い通路が隠されていた。
「先に行け。」
セシリア、ユリウス、ダニエル、エミールが順に身体を滑り込ませる。
扉の向こうで、誰かが取っ手へ手を掛けた。
古い金具が低く鳴る。
エリスは最後まで、男が消えた扉を見つめていた。
助けられるかもしれない。
戻れば、少なくとも一人にはしないで済む。
その迷いを見抜いたように、アランが腕を掴んだ。
「今は行くぞ。」
低い声だった。
エリスは唇を噛み、通路へ入る。
アランが続き、歯車の裏にある鉄板を元へ戻した直後、部屋の扉が開いた。
隙間の向こうに、黒い外套をまとった男たちの影が見えた。誰も声を上げない。剣を抜く音さえしない。ただ静かに部屋へ入り、蝋燭の消えた机と、開いた窓を見回している。
その中の一人が、足元へ落ちた小さな紙片を拾い上げた。
「遅かったか。」
初めて聞こえた声は、驚くほど穏やかだった。
「いいえ。」
別の男が答える。
「予定どおりです。」
エリスは息を止めた。予定どおり……。
その言葉の意味を考える間もなく、アランが肩を押す。通路は塔の外壁に沿って細く続き、やがて隣家の崩れた屋根裏へ繋がっていた。六人は音を立てぬよう瓦の上へ降りる。眼下には、夜のヴェルナが広がっていた。
海沿いの灯は変わらず美しく、酒場からは遅い歌声が流れてくる。時計塔で何が起きているのか、誰も知らない。
あるいは、知っていても、誰も見上げないだけなのかもしれなかった。
エリスは胸元へ入れた羊皮紙を押さえ、屋根の向こうに立つ塔を振り返った。三階の窓に、ひとつの灯がともる。人影が動いた。
先ほどの男なのか、追手なのかは分からない。
やがて窓の灯は消え、時計塔は再び暗闇へ沈んだ。
その瞬間、港の方角から低い鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
街の灯が、まるで息を合わせたように幾つも消えていく。酒場の歌声が止まり、路地を歩いていた人々は足を速め、窓辺から外を見ていた女は静かに鎧戸を閉じた。美しかった夜の港が、鐘の余韻とともに少しずつ闇へ沈んでいく。
誰も騒がない。誰も理由を尋ねない。
それは毎夜繰り返されてきた、ごく当たり前の出来事のようだった。
エリスはその光景を見下ろしながら、胸の奥へ冷たいものが広がるのを感じていた。
この街では、誰かが人々を支配しているのではない。人々自身が、長い年月をかけて沈黙の一部になっている。
ヴェルナという港町そのものが、巨大な秘密を守るために息を潜めているのだ。
海から吹き上げた夜風が、屋根の上に立つ六人の外套を大きく揺らした。
遠くでは、霧の向こうへ荷馬車が消えていく。
その先にある第十三倉庫は、相変わらず灯一つともさず、黒い影となって港の最奥に佇んでいた。
けれど今のエリスには、もう分かっていた。
あの倉庫だけがおかしいのではない。
この港のどこを見ても、美しい景色の下に同じ沈黙が流れている。
石畳の下。
市場の下。
人々の暮らしの下。
目に見えない何かが、街全体を静かに繋いでいる。
エリスは海を見つめた。
夜の海は黒く、その果てには何も見えない。
それでも波だけは変わらず岸へ寄せ、遠い国の匂いを運び続けていた。
「戻りましょう。」
彼女は静かに言った。
今夜、答えを得たわけではない。むしろ分からないことは増えた。それでも一つだけ、はっきりしたことがある。ヴェルナは、ただ秘密を抱えている街ではない。秘密を抱えたまま生きることを、あまりにも長く続けてきた街だった。
六人は屋根を伝い、暗い路地へ降りていく。
背後では、止まった時計塔が月明かりの中に立っていた。文字盤の針は、今も同じ時刻を指したまま動かない。けれどその夜、エリスには思えた。止まっているのは時計ではない。
この街の方なのだと。海は動き続けている。
船も、人も、富も、日々この港を通り過ぎていく。
それなのにヴェルナだけが、遠い過去のある瞬間へ縫い止められたまま、誰にも気付かれぬよう静かに息をしていた。
そしてその深い眠りの底で、何かが彼女たちの到着を待っている。
そんな予感だけが、冷たい潮風とともに、いつまでも胸の内へ残っていた。
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