表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結→黒幕との話を順次追加】断罪された伯爵令嬢、地獄で咲いた黒薔薇は王都を裁く  作者: なみゆき
第三章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/24

灰海を渡る黒薔薇ー4

塔の外で、鴉が一声鳴いた。男の顔から、初めて余裕が消えた。窓辺へ近付き、夜空を見上げる。一羽の鴉が塔の周囲を大きく旋回し、そのまま港の方角へ飛び去っていく。ただの鳥に見えた。だが、男は明らかにそれを合図として受け取っていた。


「もう行ってください。」


「まだ話は終わっていません。」


「終わらせなければならない。」

彼は羊皮紙を素早く畳み、エリスの手へ押し込んだ。

「これを持って、今すぐ塔を出るのです。」


「あなたは。」


「私は別の道から出ます。」


アランは階段の方へ目を向けた。まだ何も聞こえない。


それでも男は焦っている。

「誰が来る。」

「この街で、鐘の音より先に来る者たちです。」

意味を尋ねるより早く、塔の下から小さな物音がした。扉の開く音。続いて、石段へ靴底が触れる。一人ではない。いくつもの足音が、互いに乱れることなく重なっている。急いではいない。


逃げ道がないことを知っている者たちの歩き方だった。男は蝋燭の火を吹き消した。部屋が闇へ沈む。窓から差し込む月明かりだけが、彼の横顔を青白く浮かび上がらせた。

「西側の歯車の裏に、古い保守通路があります。」

声は低く、もう迷いがなかった。

「そこから隣の家の屋根へ出られる。」


「あなたも一緒に。」

エリスが言うと、男は首を横へ振った。


「全員が同じ道を使えば、気付かれます。」


「残れば捕まるわ。」


「捕まるとは限りません。」

その言葉には、ひどく静かな諦めがあった。

長い間、この瞬間を待っていた者の声だった。

足音が二階へ達する。

古い石段を踏むたび、鈍い響きが塔の内部を上ってくる。


アランが男の腕を掴んだ。

「名前を聞いていない。」


男は一瞬だけ目を見開き、それから僅かに笑った。

「名前を知れば、あなた方は私を助けようとする。」


「それが何だ。」


「それでは困るのです。」

男はアランの手を静かに外した。

「今夜ここへ来たのは、私を救うためではないでしょう。」


足音は止まらない。

二階から三階へ。

一段ずつ、確実に近付いてくる。


男は最後にエリスを見た。

「この街を救おうとは思わないでください。」


「なぜ。」


「街は、人ではありません。」

その言葉だけを残し、彼は部屋の奥にある細い扉へ向かった。


エリスは呼び止めようとした。


だが、その前に男は振り返り、静かに言った。

「港を見てはいけない。」

「港の下だけを見なさい。」

扉が閉まる。


ほぼ同時に、階段の足音が三階の踊り場へ達した。

アランは西側の巨大な歯車へ駆け寄り、壁との隙間を探る。

錆びた鉄枠の奥に、人一人がようやく通れるほどの狭い通路が隠されていた。


「先に行け。」

セシリア、ユリウス、ダニエル、エミールが順に身体を滑り込ませる。

扉の向こうで、誰かが取っ手へ手を掛けた。

古い金具が低く鳴る。

エリスは最後まで、男が消えた扉を見つめていた。

助けられるかもしれない。

戻れば、少なくとも一人にはしないで済む。

その迷いを見抜いたように、アランが腕を掴んだ。


「今は行くぞ。」

低い声だった。


エリスは唇を噛み、通路へ入る。

アランが続き、歯車の裏にある鉄板を元へ戻した直後、部屋の扉が開いた。


 隙間の向こうに、黒い外套をまとった男たちの影が見えた。誰も声を上げない。剣を抜く音さえしない。ただ静かに部屋へ入り、蝋燭の消えた机と、開いた窓を見回している。

その中の一人が、足元へ落ちた小さな紙片を拾い上げた。

「遅かったか。」

初めて聞こえた声は、驚くほど穏やかだった。


「いいえ。」

別の男が答える。

「予定どおりです。」


エリスは息を止めた。予定どおり……。

その言葉の意味を考える間もなく、アランが肩を押す。通路は塔の外壁に沿って細く続き、やがて隣家の崩れた屋根裏へ繋がっていた。六人は音を立てぬよう瓦の上へ降りる。眼下には、夜のヴェルナが広がっていた。

海沿いの灯は変わらず美しく、酒場からは遅い歌声が流れてくる。時計塔で何が起きているのか、誰も知らない。

あるいは、知っていても、誰も見上げないだけなのかもしれなかった。

エリスは胸元へ入れた羊皮紙を押さえ、屋根の向こうに立つ塔を振り返った。三階の窓に、ひとつの灯がともる。人影が動いた。


先ほどの男なのか、追手なのかは分からない。

やがて窓の灯は消え、時計塔は再び暗闇へ沈んだ。

その瞬間、港の方角から低い鐘が鳴った。

一度。

二度。

三度。

街の灯が、まるで息を合わせたように幾つも消えていく。酒場の歌声が止まり、路地を歩いていた人々は足を速め、窓辺から外を見ていた女は静かに鎧戸を閉じた。美しかった夜の港が、鐘の余韻とともに少しずつ闇へ沈んでいく。

誰も騒がない。誰も理由を尋ねない。

それは毎夜繰り返されてきた、ごく当たり前の出来事のようだった。


エリスはその光景を見下ろしながら、胸の奥へ冷たいものが広がるのを感じていた。

この街では、誰かが人々を支配しているのではない。人々自身が、長い年月をかけて沈黙の一部になっている。


ヴェルナという港町そのものが、巨大な秘密を守るために息を潜めているのだ。

海から吹き上げた夜風が、屋根の上に立つ六人の外套を大きく揺らした。

遠くでは、霧の向こうへ荷馬車が消えていく。

その先にある第十三倉庫は、相変わらず灯一つともさず、黒い影となって港の最奥に佇んでいた。

けれど今のエリスには、もう分かっていた。

あの倉庫だけがおかしいのではない。

この港のどこを見ても、美しい景色の下に同じ沈黙が流れている。

石畳の下。

市場の下。

人々の暮らしの下。

目に見えない何かが、街全体を静かに繋いでいる。

エリスは海を見つめた。

夜の海は黒く、その果てには何も見えない。

それでも波だけは変わらず岸へ寄せ、遠い国の匂いを運び続けていた。


「戻りましょう。」

彼女は静かに言った。

今夜、答えを得たわけではない。むしろ分からないことは増えた。それでも一つだけ、はっきりしたことがある。ヴェルナは、ただ秘密を抱えている街ではない。秘密を抱えたまま生きることを、あまりにも長く続けてきた街だった。

六人は屋根を伝い、暗い路地へ降りていく。

背後では、止まった時計塔が月明かりの中に立っていた。文字盤の針は、今も同じ時刻を指したまま動かない。けれどその夜、エリスには思えた。止まっているのは時計ではない。

この街の方なのだと。海は動き続けている。

船も、人も、富も、日々この港を通り過ぎていく。

それなのにヴェルナだけが、遠い過去のある瞬間へ縫い止められたまま、誰にも気付かれぬよう静かに息をしていた。

そしてその深い眠りの底で、何かが彼女たちの到着を待っている。

そんな予感だけが、冷たい潮風とともに、いつまでも胸の内へ残っていた。

お読みいただきありがとうございます。

よろしければ、下の☆☆☆☆☆から評価を入れていただけると大変励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ