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【完結→黒幕との話を順次追加】断罪された伯爵令嬢、地獄で咲いた黒薔薇は王都を裁く  作者: なみゆき
第三章

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灰海を渡る黒薔薇ー3

 扉の向こうには、ひんやりとした空気が溜まっていた。古い石と湿った木の匂いが混ざり、足を踏み入れた瞬間だけ、外の潮の気配が遠のく。内部は思っていたより広い。中央に太い石柱が立ち、その周囲を螺旋階段が上へと巻いている。壁には時計を動かしていた歯車や鎖が残され、錆びた金属が朝の光を鈍く反射していた。止まったはずの塔なのに、どこかで鎖が揺れたような気がする。小さく、規則のない音だった。それは、今もなお時計が動こうとしている残響のようにも聞こえた。


「行ける。」

アランが低く言う。先頭に立ち、剣の柄へ手を添えたまま、ゆっくりと階段へ足を掛ける。エリスたちも後に続いた。

石段は狭く、一歩ごとに靴音が高く響く。壁へ手を添えると、夜露を吸った石がひどく冷たかった。途中にはいくつか扉があったが、どれも壊れ、暗い部屋の奥には使われなくなった家具や古い縄が積まれている。人が出入りしていた痕跡だけが、年月を越えてそこに残っていた。二階を過ぎた頃、海からの風が強くなった。割れた窓の向こうに、夜のヴェルナが見える。下から眺めた時よりも港は広く、海岸線に沿って灯が弧を描いていた。第十三倉庫も、ここからならはっきりと見える。


周囲の建物より大きく、灯りの海の中でそこだけが暗い。屋根にも窓にも一つの火さえない。それなのに、倉庫へ続く道には幾台もの荷馬車が並び、黒い影となってゆっくりと奥へ進んでいた。

エリスは一瞬だけ足を止めた。昼間はあれほど人の気配がなかった場所が、夜になると静かに動き始めている。誰も声を上げない。御者も、荷を運ぶ者も、まるで決められた儀式を繰り返すように一定の間隔で進んでいる。


「見えますか。」

ユリウスが囁いた。


「ええ。」

エリスは目を細めた。


荷馬車は第十三倉庫の正門へ向かっているように見える。だが、門の少し手前で霧へ入ると、その姿が消えた。倉庫へ入ったのではない。正門は閉ざされたままだった。霧が流れた後にも、馬車の影はどこにも見当たらない。


「ダニエルの報告どおりだな。」

アランが低く言った。

「一本道で消える。」


エリスは答えず、その場所を目へ焼き付けた。今はまだ追わない。この塔へ来た目的は別にある。三階へ続く最後の階段を上ると、薄い灯りが見えた。扉の隙間から、蝋燭の光が細く漏れている。アランは一度振り返り、全員の位置を確かめた。それから音を立てぬよう扉へ手を掛け、ゆっくりと押し開く。


部屋は、時計塔の外観から想像するよりも広かった。壁の一面を巨大な歯車が占め、止まった時計の機構が複雑に組み合わされている。中央には古い机と椅子が一つずつ置かれ、窓辺には一人の男が立っていた。年の頃は五十を少し過ぎたほどだろう。灰色の髪を首の後ろで束ね、濃紺の外套を肩へ掛けている。身なりは質素だったが、立ち姿には長い年月を人の上で過ごしてきた者だけが持つ落ち着きがあった。


彼は港を見下ろしたまま、すぐには振り返らなかった。

「来られましたか。」

穏やかな声だった。その響きには、待ち続けた者の安堵も、敵を迎える緊張もない。ただ、来ることを知っていた。それだけのように聞こえた。


「手紙を送ったのはあなたですか。」

エリスが尋ねる。


男はようやく窓辺を離れ、ゆっくりとこちらを向いた。

「ええ。」

「王都の紙を使ったのも。」

「あなた方に、拾われた紙ではないと気付いていただくためです。」


エミールの表情が僅かに変わった。紙の違いへ気付く者がいることまで見越していたらしい。男は六人を順に見渡した。


アランの剣へ向けられた手も、ダニエルが出口を背にしていることも、エミールが部屋の隅々へ視線を走らせていることも、すべて承知しているようだった。


「安心してください、と申し上げても、信用はなさらないでしょう。」

「当然でしょうね。」


エリスは男から目を逸らさない。

「この街で、その言葉ほど信用できないものはなさそうですから。」


男は僅かに笑った。

「おっしゃるとおりです。」


蝋燭の火が風に揺れ、壁の歯車へ大きな影を落とす。窓の外には、夜の港が広がっていた。美しい灯の海。その奥に沈む黒い倉庫。男は再び窓辺へ歩み寄ると、第十三倉庫を指した。


「あなた方は、あれを調べている。」

問いではなかった。


エリスは否定しない。

「第十三倉庫について、何をご存じなのですか。」


「多くは。」

男はそう答え、少し間を置いた。

「そして、多くを知ってしまった者がどうなるかも。」


夜風が部屋へ入り込み、机の上の紙を一枚揺らした。

「昼間、あの倉庫を見たでしょう。」


「ええ。」


「どう思われましたか。」


エリスは窓の向こうへ目を向ける。

「見付けてほしいように見えました。」


男の目に、初めてわずかな関心が浮かんだ。

「なぜそう思うのです。」


「本当に隠したい場所なら、あれほど目立つ建物にはしない。」

港の最奥にありながら、どこからでも見える。黒い石壁。巨大な紋章。人々が口を閉ざすことで、かえって旅人の注意を引く。


「あの倉庫は秘密を守っているのではなく、秘密があると思わせるために置かれている。」


男は静かに頷いた。

「さすがですね。」

褒め言葉には聞こえなかった。長く観察していた結果を確かめるような口調だった。

「第十三倉庫は、扉です。」

男は言った。

「ただし、向こう側へ通すための扉ではありません。」


「では、何のために。」


「人を立ち止まらせるためです。」


港から、遠い鐘の音が聞こえた。低く、重い音。昼間に三度鳴った鐘とは違い、今度は一度だけだった。窓の下を進んでいた荷馬車が、一斉に止まる。ほんの短い間。やがて再び同じ速さで動き始めた。


「秘密を探す者は、必ず第十三倉庫へ辿り着きます。」

男は港を見下ろしたまま続けた。

「あの建物は、あまりにも不自然で、あまりにも分かりやすい。だから皆、自分が真相へ近付いたと思う。」


「そして?」


「そこで終わる。」


セシリアが僅かに息を呑んだ。

「捕まるということですか。」


「捕まる者もいる。消える者もいる。何も見付けられず、自ら去る者も。」

男の声には感情がなかった。

それがかえって、長い間同じことが繰り返されてきたのだと感じさせた。

「ですが、本当に隠されているものは、あの倉庫にはありません。」


エリスは男の横顔を見つめた。

「どこにあるのですか。」


男は答えなかった。

代わりに、窓の下へ広がる港全体へ視線を巡らせる。市場。税関。船着場。倉庫街。夜の灯に浮かび上がる無数の屋根。


「この街で、誰も見ようとしない場所です。」


「地下水路。」

ユリウスが口にすると、男はゆっくりと彼へ目を向けた。


「そこまで辿り着きましたか。」


「古い地図に痕跡が残っていました。」


「ならば、なおさら急いではいけない。」

男の声が僅かに硬くなる。


「地下へ入るなという忠告も、あなたが?」


「いいえ。」

即答だった。


「北の波止場へ呼び出したのも。」


「違います。」


エリスたちの間に、静かな緊張が走る。やはり接触してきた者は一人ではない。男はその反応を見ても、驚いた様子を見せなかった。


「この街には、同じものを恐れながら、異なる方法で抗う者がいます。」

「互いに協力していないのですか。」

「協力すれば、見付かる。」

短い言葉だった。

「信じ合えば、そこから崩される。家族を持つ者は家族を使われ、金を持つ者は金で買われ、信念を持つ者はその信念を試される。」

男は窓枠へ手を置いた。

長い指には古い傷が幾つも残っている。

「この街で長く生き残る方法は、ただ一つです。」


「何も見ないこと。」

エリスが言う。


男は笑わなかった。

「そして、誰とも繋がらないことです。」

部屋の中で、止まった時計の鎖が小さく揺れた。エリスは昼間の市場を思い出していた。第十三倉庫の名を聞いた瞬間、包丁を止めた魚屋。鐘が鳴ると同時に窓を閉めた店主。何も聞こえなかったと笑った老人。あれは単なる恐怖ではなかった。沈黙を守ることで、互いを巻き込まないようにしている。この街の人々は、自分だけを守っているのではない。口を閉ざすことで、隣人を守っているのかもしれなかった。


「あなたは、なぜ私たちに会ったのですか。」

エリスの問いに、男はしばらく答えなかった。


夜の海を眺め、何か遠い記憶を探すように目を細める。

「待っていたからです。」


「私たちを?」


「いいえ。」

男は静かに首を横へ振った。


「この街の外から来て、それでも途中で目を逸らさない者を。」

その言葉には、わずかな疲れが滲んでいた。長い間、何人もの人間を見送り、何人もの失敗を見てきたのだろう。


「王都で何が起きたかは聞いています。」

「黒薔薇商会が、何をしたのかも。」


「では、私たちの素性をご存じなのですね。」


「ある程度は。」

男はエリスを見る。その視線はロゼという仮の名を越え、もっと遠い過去まで見通しているようだった。


「死んだことにされた女が王都へ戻り、自分を陥れた者たちを裁いた。」

アランの手が僅かに剣へ近付く。男はそれを見ても構わず続けた。


「ですが、私が興味を持ったのは復讐ではありません。」


「では、何に。」


「その後です。」

蝋燭の火が細く揺れる。

「復讐を終えた者が、なお他者を救おうとした。」

男の声は静かだった。

「それは、思っているよりも珍しい。」


エリスは何も答えなかった。褒められているようにも、試されているようにも聞こえた。


男は懐へ手を入れ、一枚の古びた羊皮紙を取り出した。長く折り畳まれていたらしく、端は擦れ、茶色く変色している。


「これを。」

机の上へ広げる。描かれていたのは、現在のヴェルナとは異なる港の姿だった。海岸線は今より内側にあり、倉庫街の半分はまだ海だった。そこへ幾本もの水路が引かれ、丘の下から港を通って海へ流れ出ている。


「百二十年前の設計図です。」

男の指が、一本の太い地下水路を辿る。


「ヴェルナは何度も埋め立てられました。古い水路の多くは塞がれたとされています。」

「実際は違う。」


エミールが図面へ目を凝らす。

「ええ。」

男の指が、港の中央で止まる。第十三倉庫の真下ではない。市場と税関、その間にある広場の下だった。


「水路は残されています。」

「何のために。」

「荷を運ぶためです。」

「密輸品を?」


男はすぐには答えなかった。


「品物だけではありません。」

部屋の空気が冷たくなる。エリスは夜中に見た、鉄格子を積んだ荷馬車を思い出した。

「人も。」

その言葉を口にすると、男の表情が僅かに曇った。

「この港で消えた者のすべてが、殺されたわけではありません。」


セシリアが顔を上げる。

「では、どこへ?」


「海の向こうへ送られる者もいる。」

男は図面のさらに下を指した。地下水路の下に、細い線が幾重にも描かれている。自然の洞窟のようにも見えた。

「そして水路の下には、もっと古い道があります。」

「この街が造られる前から存在したものです。」


「そこに何があるの。」

エリスが尋ねた時だった。

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