灰海を渡る黒薔薇ー2
宿の中は、外から見るよりもずっと静かだった。
木の床は年を経て少し沈み、歩くたびに低く鳴る。壁際には古い航海図と色褪せた額縁が掛けられ、食堂の奥では小さな暖炉が控えめに火を保っていた。潮の匂いはまだ残っているが、それは港の濃い匂いではない。乾いた木と、よく磨かれた石灰と、少しだけ古い布の匂いが混じっている。
「お部屋はこちらです。」
宿の主人はそう言って、二階へ続く階段を指した。声は穏やかだった。だが、目の奥には、旅人を迎える時の慣れた気配がある。この宿で何度も同じことを繰り返してきた人間の、それだった。
階段を上りながら、エリスは窓の外へ目をやった。港はまだ見える。けれど、ここからだと海は遠く、街の屋根の間に細い青として挟まっているだけだった。その眺めが、かえってこの街の形を際立たせていた。海へ寄り添うように建つ家々。坂に沿って重なる屋根。その中心へ、高い時計塔が空を突き抜けるように立っている。あれは街の中心でありながら、どこか触れてはいけないもののようにも見えた。
部屋へ入ると、セシリアがまず鞄を下ろし、ユリウスは荷物を机の上へ並べた。
エリスの荷物は、アランが当然のように持ったまま中へ入ってくる。
「重くはないの?」
エリスが問うと、アランは肩をすくめた。
「これくらいでなければ、護衛の意味がない。」
その言い方に、エリスは小さく息を漏らした。
ユリウスはセシリアの荷物を床へ置き、鞄の口を丁寧に閉じる。
「譜面よりは軽いです。」
真顔で言うので、セシリアが吹き出した。
旅の疲れが、その一瞬だけやわらぐ。
だが、エリスの胸の奥に残る違和感は消えなかった。窓を開けると、潮風が部屋へ流れ込んでくる。下の通りでは、夕方の買い物へ向かう人々がまだ行き交っていた。市場の呼び声。馬車の車輪。遠くの酒場から漏れる笑い声。どれも普通だった。普通すぎるほどに。
それがかえって、ここへ来る前から感じていた何かを思い出させる。この街は、美しい。だが、美しさの中にだけある硬さがあった。誰かが見ている。そう思ってしまえば、通りを行く一人ひとりの動きが、少しずつ同じ方向を向いているように見える。それは気のせいかもしれない。だが、気のせいで片付けるには、あまりに視線が静かだった。
その夜、食堂で簡単な夕食を取ったあと、エリスたちは再び部屋へ戻った。港を歩き回った疲れが、ようやく身体へ降りてくる。セシリアは早々に湯を浴び、ユリウスは机へ向かって旅の記録をつけ始めた。
アランは扉の鍵を確かめ、窓の閉まり具合を一つずつ見て回る。この男は、どこへ行っても同じだった。落ち着いていて、抜け目がない。
それなのに、エリスは彼のそういうところが、今は少しだけ頼もしかった。
「明日は市場を見るつもりですね。」
セシリアが髪を乾かしながら言う。
「ああ。」
「それから港湾局。」
アランが答える。
「第十三倉庫の周辺も、もう一度。」
エリスは頷いた。
港で感じた違和感は、見なかったことにするには重すぎた。食後の静けさは、長くは続かなかった。廊下を歩く足音が一度だけ止まり、扉の下へ細い影が差した。三人が顔を上げる。
すぐに、主人の声がした。
「失礼します。」
扉を開けると、そこには宿の主人が立っていた。
手には、細長く折り畳まれた紙片が一つ。
「先ほど、旅の方が置いていかれたようです。」
「旅の方?」
エリスが受け取る。
「はい。」
主人はそれ以上説明しない。
ただ、気の毒そうな顔をして、静かに頭を下げた。
「どなたかは分かりませんでしたが、封もない紙でしたので。」
紙は薄い。だが、手にした瞬間に分かる。この街のものではない。ヴェルナでよく使われる少し黄みがかった紙ではなく、もっと乾いた、硬い手触りがある。王都で見たものに近い。
エリスはその場で封を開けた。
中には、文章らしい文章はない。数字と記号。短い線。丸。欠けた印。並びは乱れているようでいて、どこか一定の規則があるようにも見えた。
「何これ。」
セシリアが覗き込む。
「暗号です。」
ユリウスがすぐに答えた。
「座標かもしれません。」
「分かるの?」
「記号の配列に規則があります。古い天文記法に似ている。」
ユリウスは紙を受け取り、灯へかざした。
「でも、これだけでは読めません。」
「鍵が要るのね。」
エリスは紙片を見つめた。この暗号を解くためには、別の情報がいる。古い知識か、過去の記録か、あるいは別の何か。
その時、エリスの脳裏に一つの記憶が浮かんだ。王都でロゼとして動いていた頃、ある相手から得た断片的な座標の読み方。倒した相手の持ち物にあった記号の癖。あの時に得た情報を重ねれば、今の符号が意味を持つかもしれない。
「少し貸して。」
エリスは紙片をもう一度受け取った。指先で記号をなぞる。角度。間隔。欠け方。
どれも、ただの落書きには見えない。
過去に得た情報を当てはめると、ばらばらだった線が一つの場所へ収束していく。
「……時計塔。」
エリスが呟く。
「え?」
セシリアが顔を上げる。
エリスは紙から目を離さなかった。
「これ、時計塔を指している。」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
ただ、部屋の中の空気だけが、僅かに重くなる。あの塔は、昼間からずっと見えていた。だが、そこへ自分たちを呼ぶような何かは、今の今までなかった。時計塔は、ただの古い塔ではない。この街で、何かを知る場所なのかもしれない。それを確かめる必要がある。夜風が再び窓から入り込み、紙片の端を震わせた。
「明日の朝、行こう。」
アランが静かに言う。
「ええ。」
エリスは紙を畳み、懐へしまった。
そのまま眠れる気はしなかったが、行くべき場所が定まっただけでも、胸の中の霧は少し晴れた気がした。
翌日、ヴェルナの朝は昨日と同じように美しかった。市場には魚と果物が並び、海風が乾いた布を揺らしている。だが、エリスには、その美しさの下で何かがこちらを見ているようにしか思えなかった。時計塔へ向かう坂道の前まで来ると、人々の流れは自然に左右へ割れた。立入禁止の札はない。柵もない。それでも、誰一人として塔の方へ進もうとしない。見上げると、丘の上にその影があった。止まった時計塔は、朝の光を受けてもなお、どこか湿った沈黙をまとっている。扉は半ば開いていた。まるで、来ると分かっていたように。
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