灰海を渡る黒薔薇ー1
船がヴェルナ港へ入ったのは、朝の鐘が鳴り終わる頃だった。厚い石造りの防波堤を越えると、海は急に穏やかになった。沖では灰色にうねっていた波も、港の内側へ入れば別の海のように静まり、船腹を叩く音さえどこか柔らかい。左右に連なる桟橋では、荷を積んだ小舟が忙しなく行き交い、帆柱から垂れた縄が潮風に揺れて、乾いた音を立てていた。
船が岸壁へ近づくにつれ、異国の街は遠い景色ではなく、匂いと音を持った現実へ変わっていった。焼いた魚の香ばしい匂い。積み上げられた柑橘の甘酸っぱい香り。湿った麻袋と獣毛、香辛料、石炭、酒。いくつもの匂いが潮気の中で混ざり合い、王都の市場とはまるで違う、荒々しくも豊かな空気をつくっている。
岸壁では、肌の色も服装も異なる商人たちが何種類もの言葉を飛び交わせていた。鮮やかな布を頭へ巻いた女たちが果物を籠に並べ、日に焼けた船乗りたちは樽を転がしながら笑っている。見上げるほど大きな荷役用の櫓が軋み、吊り上げられた木箱が朝の空をゆっくり横切っていった。
エリスは甲板からその光景を眺めながら、胸の内へ小さく息を吸い込んだ。
初めて見る国だった。
建物の造りも、行き交う人々の装いも、耳へ届く言葉の響きさえ違う。王都を離れてから五日間、海ばかりを見ていた目には、港を彩るすべてが鮮やかに映った。
それなのに、先ほど覚えた違和感は消えなかった。むしろ街へ近づくほど、その輪郭は少しずつ濃くなっていく。
船から降りるための渡し板が架けられると、乗客たちはそれぞれの荷を手に立ち上がった。長い航海から解放された安堵に笑う者もいれば、迎えに来た家族を見つけて手を振る者もいる。その横を、港の役人たちが無表情に行き来していた。
「荷物は私が。」
セシリアが鞄へ手を伸ばすより早く、ユリウスが二つまとめて持ち上げた。
「そんなに持てるの?」
「譜面よりは軽いです。」
真顔で答える彼に、セシリアが小さく笑う。その笑い声は潮風へ溶け、少し離れた場所にいたアランも振り返った。
王都を出た時から、四人はただの旅商人として振る舞っていた。エリスは薬草を扱う未亡人。アランは護衛を兼ねた共同経営者。セシリアは帳簿係で、ユリウスは各地の楽譜や古書を買い付ける商人という身分である。黒薔薇商会の名は使わない。王都で知られるようになった顔も、服装や髪型を変え、旅人の中へ紛れれば目立つものではなかった。
渡し板を降りた先には、入国審査を待つ者たちの長い列ができていた。エリスたちもその最後尾へ並ぶ。
港の役人は一人ずつ旅券を確かめ、荷の内容を尋ねている。仕事ぶりは丁寧で、横柄な様子もない。だが、審査を終えた者が立ち去るたび、役人は必ずその背を一度だけ見送っていた。
あまりにも自然な仕草だったため、最初は気にも留めなかった。けれど、二人、三人と続くうちに、エリスは気付いた。顔を確かめているのではない。
進む方向を見ている。
港へ降りた者が、どの通りへ向かうのか。誰と合流するのか。どの宿の客引きへ声を掛けられるのか。そのすべてを、役人たちは声も交わさず見送っていた。
「次の方。」
呼ばれ、エリスは何も気付かなかったように旅券を差し出した。
「渡航の目的は。」
「薬草の買い付けです。」
「滞在期間は。」
「まだ決めておりません。商談次第では、ひと月ほど。」
役人は旅券に目を落とし、次にエリスの顔を見た。役人の男性は、年の頃は三十を少し過ぎたほどで、几帳面に整えられた口髭がよく似合う男だった。
「ヴェルナは初めてですか。」
「ええ。とても美しい街ですね。」
エリスが微笑むと、男も礼儀正しく笑みを返した。
「海の恵みに支えられた街です。どうぞよい滞在を。」
旅券へ印が押される。乾いた音だった。ただ、それだけのやり取りだった。
エリスが礼を述べて歩き出すと、背後から視線が追ってきた。振り返ることはしなかったが、先ほどまで他の旅人へ向けられていたものと同じ、静かな視線であることは分かった。港の出口近くでは、宿の客引きたちが大声を張り上げていた。
「海の見える部屋なら青鴎亭へ!」
「朝食付きで銀貨三枚! 温かい湯もありますよ!」
「お連れの方もご一緒にどうぞ!」
帽子を振る男。色鮮やかな札を掲げる少年。愛想よく近寄ってくる女将。旅人を奪い合う声は賑やかで、どこにでもある港町の風景に見えた。
だが、エリスたちがその間を抜けようとした時、一人の客引きが声を掛けかけ、ふいに口を閉ざした。
少年だった。
まだ十五にもならないだろう。日に焼けた顔に人懐こい笑みを浮かべていたが、その視線がエリスの後方へ移った瞬間、表情がわずかに固くなった。
「お客さ――」
途中で言葉を切り、少年は何事もなかったように隣の旅人へ向き直る。
「海の見える部屋、いかがですか!」
声は明るい。それでも、先ほどまでの自然な勢いは失われていた。
エリスは足を止めず、人波の流れに乗る。アランがすぐ隣まで歩みを寄せた。
「見たか。」
「ええ。」
それ以上は話さなかった。港を離れ、大通りへ入る。ヴェルナの街は、海から見た以上に美しかった。淡い蜂蜜色の石で造られた家々が坂道に沿って並び、窓辺には赤や黄色の花が咲いている。店先には異国の織物や硝子細工が飾られ、軒下で干された魚が風に揺れていた。石畳は長い年月に磨かれて滑らかになり、所々へ刻まれた古い車輪の跡には、朝の雨が小さく残っている。
通りの向こうでは、青い制服を着た郵便配達人が自転車を押していた。パン屋の窓からは焼き立ての香りが漂い、学校へ向かう子どもたちが薄い木板を抱えて走っていく。旅人の目には、穏やかで豊かな港町としか映らない。だからこそ、エリスは胸の奥へまとわりつく違和感の正体を掴めずにいた。
街の人々は笑っている。けれど、その笑顔は長く続かない。客へ品物を勧める商人も、挨拶を交わす住民も、ほんの一瞬だけ必ず周囲へ目を配る。誰かに見られていないかを確かめるように。あるいは、誰を見なければならないのかを思い出すように。
誰も急いではいない。誰も怯えた様子を見せてはいない。それでも、街全体が目に見えない規則の中で動いているようだった。
「ずいぶん静かですね。」
ユリウスが呟いた。
通りには人が多い。馬車も行き交い、店からは音楽さえ聞こえている。それでも彼がそう感じた理由は、エリスにも分かった。賑わいに厚みがない。
笑い声は上がっても、すぐに途切れる。口論する者もいなければ、酔って歌う船乗りもいない。人が集まる場所に必ず生まれるはずの、無駄な騒がしさがこの街にはなかった。
「皆、よく躾けられている。」
アランが低く言う。褒めているようには聞こえなかった。
やがて四人は大通りを外れ、細い坂道へ入った。観光客向けの店は少なくなり、古い家々が肩を寄せ合うように並び始める。洗濯物が窓から窓へ渡した縄に干され、軒先では老婆たちが豆の皮を剥いていた。
その一角に、灰燕亭はあった。
色褪せた漆喰の壁。潮風に削られた木の扉。燕の絵が描かれていたらしい看板は、長い年月のうちに灰色へ褪せ、輪郭だけを残している。港からも大通りからも少し離れた、旅人がわざわざ選ぶとは思えない宿だった。だからこそ、潜伏先にはちょうどいい。
エリスは扉の前に立ち、約束どおり三度叩いた。少し間を置き、続けて二度。しばらく返事はなかった。
やがて内側で錠の外れる音がし、扉が細く開く。現れた男は、日に焼けた顔へ無精髭を生やし、肩には粗末な麻布を掛けていた。港の荷役人としか見えない。だが、エリスたちの顔を認めた瞬間、その目元がわずかに緩んだ。
「お待ちしておりました。」
ダニエル・クロフトは扉を大きく開き、四人を中へ招き入れた。外の光が閉ざされる。
錠が下りる音とともに、港町の喧騒は急に遠くなった。
お読みいただきありがとうございます。
よろしければ、下の☆☆☆☆☆から評価を入れていただけると大変励みになります。




