灰海を渡る黒薔薇ープロローグ
第三章となります。
灰色の海は、どこまでも静かだった。
風は穏やかで、帆を大きく膨らませるほどの力はない。それでも船は、寄せては返す波に身を任せながら、ゆっくりと西へ向かっていた。
甲板へ立つエリスは、手摺にそっと手を添え、水平線の彼方を見つめていた。
王都を発って五日。
見慣れた大陸の海岸線はとうに姿を消し、視界を埋めるのは鈍く光る海原と、淡く霞んだ空だけだった。
潮風は冷たい。
だが、その冷たさはマスレイン峡谷の冬とは違う。
塩を含んだ風が頬を撫でるたび、どこか遠い異国の匂いを運んでくる。
「寒くありませんか。」
背後から穏やかな声がした。
振り返ると、セシリアが厚手の外套を抱えて立っていた。
「ありがとう。」
微笑みながら受け取ると、エリスは再び海へ目を向けた。
海を眺めるのは、これが初めてではない。
だが、こうして目的地だけを見つめながら船旅をするのは初めてだった。
王都での戦いは終わった。
レイノルズ家を陥れた者たちは裁かれ、黒薔薇商会も王都では確かな居場所を築き始めている。
それでも、すべてが終わったわけではなかった。
一冊の帳簿。
一枚の送金記録。
一つの紋章。
追えば追うほど、その痕跡は王都を離れ、西の海を越えた先へ続いていた。
リュゼール王国。
交易によって栄えた海洋国家。
そして、その玄関口である港町ヴェルナ。
外套を受け取ったエリスは、そのまま肩へ掛け、再び水平線を見つめた。甲板の木目は潮に湿り、足を置くたびにわずかに軋む。船は静かに進み続けていた。
遠くに見えるはずの陸地はまだ霞の向こうで、ただ空と海の境目だけが淡く滲んでいる。
「考え事か。」
隣へ来たアランが、海を見たまま言った。
「いいえ。」
エリスはそう答えてから、少しだけ間を置いた。
「少し、わくわくしているの。」
アランが小さく息をつく。
「敵地なんだが。」
「だからよ。」
エリスは笑った。
「知らない景色があって、知らない人がいて、その中に私たちの知らない真実がある。」
「少し怖いけれど……少しだけ、楽しみなの。」
アランは何も返さなかった。
ただ、しばらくのあいだ海を眺めていた。
その横顔は、止めても無駄だと知っている者のそれだった。
やがて船尾から、船員の声が飛んだ。
「見えます。ヴェルナです。」
その言葉に、甲板にいた者たちが一斉に船首へ集まる。
灰色の海の向こうで、朝靄を裂くように黒い影が浮かび上がってきた。
最初に見えたのは灯台だった。
白い石造りの塔が、切り立った岩壁の上にまっすぐ立っている。
その足元には幾本もの桟橋が海へ突き出し、大小さまざまな船が静かに並んでいた。
さらに視線を上げると、丘の斜面に沿って石造りの家々が折り重なるように建ち並び、その中心に高い時計塔が見える。
朝日を受けた赤茶色の屋根が幾重にも続き、その向こうには教会の尖塔も覗いていた。
港町ヴェルナ。
海とともに生き、海とともに栄えてきた街。
「きれい……。」
セシリアが思わず息を漏らした。
港には色鮮やかな旗がはためき、異国の船が幾隻も碇を下ろしている。市場には人が溢れ、荷役人の掛け声が潮風に乗って海まで届いていた。
活気に満ちた、美しい港町。そのはずだった。それなのに、エリスの胸の奥には、小さな棘が刺さるような違和感が残っていた。理由は分からない。景色は美しい。人々も笑っている。船も行き交っている。
それでも、この街には何かが足りなかった。
海鳥が一羽、帆柱の上を旋回し、大きく鳴いた。
その声を境に、港の喧騒がふっと耳へ戻ってくる。
「……どうした?」
アランが小さく尋ねる。
エリスはゆっくりと首を横へ振った。
「ううん。」
「ただ……。」
その言葉は最後まで続かなかった。
船はゆっくりと港へ近付き、ヴェルナの街並みが少しずつ大きくなっていく。
誰もが一度は訪れてみたいと思うような、美しい街だった。それでもエリスの胸の奥では、説明のできない違和感だけが、潮の満ち引きのように静かに広がり始めていた。




