母の手に咲いた花ー後編
以前短編にしていたものを加筆修正して、こちらに掲載しました。短編は後日削除します。
修道院が運営する児童養護院は、王都の北門を出た先にあった。なだらかな丘の中腹へ建つ、古い石造りの建物だった。王都から馬車で半刻ほどしか離れていないのに、城壁を越えれば空気は少し軽くなる。畑の上を風が渡り、冬枯れの林の向こうには雪を被った山々が見えた。養護院の屋根にも薄く雪が積もっていた。煙突からは白い煙が上がり、庭では修道女たちが洗った布を急いで取り込んでいる。扉を開けると、煮込んだ豆と焼いたパンの香りが漂ってきた。王都の裏路地とは違う。古い建物ではあったが、ここには人が暮らす温もりがあった。セシリアに連れられ、リアムは玄関へ足を踏み入れた。借りた上着は身体へ合っていたが、少年の手は強く握られたままだった。
知らない場所。
知らない大人。
母親がいないことへの不安。
どれほど優しく迎えられても、すぐに安心できるはずはない。
クラリス・エルメリアは、食堂の前で二人を待っていた。柔らかな色の衣服に、簡素な外套を羽織っている。かつて子爵夫人だったことを思わせる装飾は何もない。だが、背筋を伸ばした立ち姿と穏やかな眼差しには、身分を失っても消えなかった品があった。クラリスはリアムの前へ膝をついた。
大人が上から見下ろさないように。彼と同じ高さまで、自分から下りる。
「リアムですね」
少年は答えなかった。
セシリアの外套を掴んだまま、クラリスを見ている。
「ここには、あなたと同じくらいの子どもたちがいます」
クラリスは急かさなかった。
「話したくないことは、話さなくても構いません」
「母さんが帰ってきたら、ここに来る?」
リアムが初めて尋ねた。
クラリスの目に、僅かな痛みが浮かんだ。安易に大丈夫とは言えない。母親が必ず帰ると約束することもできない。
だから彼女は、嘘をつかなかった。
「帰ってこられるように、皆が探しています」
そっと手を差し出す。
「それまで、一緒に待ちましょう」
リアムはその手を見た。
小さく、冷えた自分の手。傷のない、温かなクラリスの手。しばらく迷った後、指先を重ねる。クラリスは強く握らなかった。いつでも離せるように、包むだけだった。リアムの指が、ほんの僅かに握り返す。それを見たセシリアは、静かに息を吐いた。彼の心が開いたわけではない。不安が消えたわけでもない。それでも、誰かの手を拒まなかった。今は、それで十分だった。
* **
マリーの行方を追う調査は、王都の外へ広がった。
娼館で働いていた女たち。
客を運んだ御者。
夜明け前に門を通った荷馬車。
税関を通らず港へ入った荷。
一つ一つは小さな情報だった。多くは曖昧で、証言者自身も詳しいことを知らない。それでも、黒薔薇商会は諦めなかった。
数日後、かつてマリーと同じ娼館で働いていた女が、隣国の港町にいることが分かった。彼女自身も、人身売買の被害者だった。数年前に運ばれる途中で逃げ出し、港の外れで洗濯仕事をしながら暮らしていた。
黒薔薇商会の調査員が訪ねると、女はマリーの名を覚えていた。
「いつも息子の話をしていたわ」
海風の強い、小さな家だった。窓の外では、冬の波が灰色にうねっている。
「いつかお金を貯めて、あの子と店を持つって。小さくていいから、温かい食事を出せる店がいいって言ってた」
女は粗末な卓布を握った。
「辛いことがあっても、息子がいるから帰れるって」
マリーは、リアムの出生を後悔していなかった。何があっても、息子を自分の不幸の原因にはしなかった。
「あの子は宝だって、何度も言っていた」
調査員が安否を尋ねると、女は顔を伏せた。
「運ばれる途中、何人か抵抗したの」
港へ向かう荷馬車の中、マリーは、自分より若い女を逃がそうとした。見張りへ掴み掛かり、馬車を止めようとしたという。
その後、女は別の荷へ移された。マリーがどうなったかは見ていない。
ただ、翌朝、見張りたちが、一人死んだと話していた。さらに数か月をかけ、黒薔薇商会は同じ輸送に関わった男を見つけ出した。告白によれば、マリーは港へ着く前に亡くなっていた。激しく抵抗し、殴られた。それでも、最後まで息子の名を呼んでいたという。遺体がどこへ捨てられたのか、男は知らなかった。荷の一つとして扱われ、記録にも残されなかった。マリーは帰らなかった。リアムが待ち続けた扉は、二度と開かなかった。
* **
春の気配が僅かに混じり始めた午後。養護院の庭には、雪解け水が細い流れをつくっていた。リアムは窓辺に立ち、灰色の空を見上げている。
母親が亡くなったことは、アランから伝えられた。言葉を選び、嘘をつかず、けれど必要以上に残酷にならないように。リアムは何も言わなかった。泣きもしなかった。ただ、その日から何度も窓の外を見るようになった。母親が帰ってくると思っているわけではない。それでも長く待ち続けた習慣が、すぐに消えることはなかった。
クラリスは少し離れた場所から、その姿を見ていた。
声を掛けるべきか迷った末、隣へ立つ。外では子どもたちが雪を集め、最後の雪人形を作っている。
笑い声が風に乗って届いた。
「母さんは、僕を置いていったんじゃないんだって」
リアムが窓の外を見たまま言った。
「ええ」
「帰ろうとしてた?」
「きっと」
クラリスは静かに答えた。
「あなたのもとへ帰るために、最後まで戦っていたそうです」
リアムは唇を噛んだ。
目に溜まった涙が、一筋だけ頬へ落ちる。
「僕がいなかったら、母さんはあんな仕事をしなくてよかった?」
クラリスはすぐに否定しようとした。
だが、ただ「違う」と言うだけでは、少年の痛みへ届かない気がした。彼女は膝をつき、リアムの顔を見る。
「あなたのお母様は、とても苦しい中で生きていました」
「でも、その中であなたを選んだのです」
「選んだ?」
「ええ」
クラリスは小さく頷いた。
「あなたがいたから苦しんだのではありません」
「あなたがいたから、帰ろうと思えたのです」
リアムの目から、今度は幾つもの涙がこぼれた。声を上げることはなかった。ただ、長い間堪えていたものをようやく手放すように、静かに泣いた。
クラリスはその身体を抱き寄せた。
「あなたは、とても愛されていたのよ」
髪へ手を置き、ゆっくり撫でる。
「姿が見えなくても、その愛はなくなりません」
「あなたの中に、これからも残ります」
窓の向こうでは、雲が切れ始めていた。淡い光が庭の雪へ落ち、融けた水の表面を静かに光らせる。冬は、まだ終わっていない。それでも、遠くの木々には小さな芽が膨らんでいた。
* **
マリーを連れ去った者たちの一部は捕らえられた。
娼館の店主。
荷馬車を手配した男。
輸送を担当した見張り。
それぞれが人身売買への関与を認めた。だが、彼らは末端に過ぎなかった。命令を出した者の顔を知らない。金は仲介人を通じて支払われ、荷の行き先も途中で変えられていた。組織全体を解体することはできなかった。捕まえた者の背後には、さらに別の者がいる。そのさらに背後には、王都の法も監査も届かない場所がある。闇は、まだ残っていた。
夜の黒薔薇商会―調査室の大机には、王都から隣国へ続く地図が広げられている。
街道。
河川。
港。
閉鎖されたはずの関所。
赤い印が、点から線へ変わっていた。アランの指が、海を隔てた港町で止まる。
ヴェルナ。
隣国リュゼール最大の貿易港。ヴィクトルの譜面に記されていた送金の終着点。マリーを運んだ荷馬車が向かった港。灰の回廊から送られた荷が、最後に集まる場所。
「まだ終わっていない」
アランは低く言った。窓の外では、夜の王都へ細い雨が降り始めていた。冬の雪とは違う。少しずつ春へ近づく雨だった。
「奴らは、王都の外に根を張っている」
エリスは地図を見つめる。赤い印は国境を越え、海へ続いている。
「この組織は、王都だけでは終わらない」
地図の端には、セドリック・ノアールの名が記されていた。ただし、彼がすべてを命じている証拠はない。
送金記録に残る名。
古い外交文書。
ノアール家の印を持つ荷。
それだけだった。だからこそ、不気味だった。名前だけが、幾つもの時代と事件の中へ残っている。本人の姿は見えない。直接の命令もない。それでも、人と金は彼の名の周囲へ集まり続けている。
「どうやって近づく」
アランが尋ねる。
「元大公へ正面から調査を申し入れるわけにはいかない」
「まずは港を見る」
エリスはヴェルナの名へ指を置いた。
「金も、人も、荷も、最後にはそこを通っている」
「港を押さえれば、流れが見える」
地図を静かに畳む。
「セドリック本人を追うのは、その後よ」
アランは頷いた。
相手が何者であろうと、最初にすることは変わらない。
記録を集める。
流れを辿る。
誰が何を隠しているのかを見極める。黒薔薇商会は、そうして一つずつ罪を暴いてきた。
* **
その頃、ヴェルナ港へ、一隻の商船が入港していた。夜明け前、海には深い霧が出ていた。灯台の光が一定の間隔で白い海面を横切り、帆を畳んだ船の影が、霧の向こうからゆっくりと現れる。船名は入港記録へ残されていなかった。
乗員名簿には偽名が並び、荷主の欄には、聞いたことのない慈善団体の名が記されている。
積まれていたのは、乾燥薬草。
医療用の布。
孤児院へ寄付される衣服。
表向きは、王都の貧しい者へ送る救援物資だった。税関の検査官は木箱へ近づき、書類を確かめようとした。だが、箱の側面へ刻まれた印を見た途端、その手を止めた。
翼を閉じた鴉。
背後に細い三日月。
沈黙の印章。
検査官は書類を返し、荷へ触れることなく通行を許可した。
外交特権。
古い貴族間協定。
誰も正確な理由を説明できない。それでも、この印を持つ荷は調べない。それが長年の慣例だった。木箱は夜明け前の港を運ばれ、倉庫街の奥へ消えていった。
荷役人たちは誰も話さない。
道の脇にいた者たちも、箱へ目を向けなかった。
見ないこと。
尋ねないこと。
それがヴェルナで生きるための方法だった。
黒薔薇商会の調査員は、離れた屋根の上からその様子を見ていた。印章を紙へ写し取り、入港時刻と荷車の数を記録する。その報告書は、幾つもの港と街道を経て、王都へ送られた。
* **
黒薔薇商会の執務室へ、海の匂いを残した封書が届いたのは、それから十日後だった。エリスは封を切り、中の報告を最後まで読んだ。
ヴェルナ港。
検査を免除された荷。
慈善団体の偽名。
沈黙の印章。
そして、港の最奥へ運ばれた木箱。
「この印を使った取引は、今も続いている」
エリスは報告書を机へ置いた。
「名だけが残っているのではない」
「誰かが、今もノアール家の影を使っている」
アランは窓の外へ目を向けた。春を前にした王都の空は、朝から低い雲に覆われている。屋根の上では海へ向かう渡り鳥が、群れをつくって西へ飛んでいた。
「行くしかないな」
「ええ」
エリスは短く答えた。ユリウスは兄の譜面を閉じる。セシリアは必要な旅券と身分証を机へ並べた。ダニエルとエミールには、先行してヴェルナへ入るよう命が出された。
海を越える旅になる。
王都の法は届かない。
どの者が味方で、どの者が敵なのかも分からない。それでも、迷う者はいなかった。リアムの母は帰らなかった。だが、その死を一つの悲劇として閉じるわけにはいかない。
同じ道で運ばれた者がいる。今もどこかで帰りを待つ家族がいる。沈黙の印章の下で、誰にも見つけられずに消えていく者がいる。
「リアムには、何と伝える」
アランが尋ねた。
「真実を探しに行く、と」
エリスは答えた。
「母親を連れ戻すことはできない」
「でも、同じ目に遭う人を止めることはできるかもしれない」
窓の向こうで、鳥の群れが雲の下へ消えていった。
海の先には、まだ見たことのない国がある。
美しい港町。
異国の船。
潮風。
その景色の下へ、長い年月をかけて闇が根を張っている。黒薔薇商会の次の裁きは、王都では始まらない。誰もが触れてはならないと口を閉ざす場所。灰色の海を越えた先。港町ヴェルナから始まる。
* **
出航の日、王都の港には薄い朝霧が漂っていた。停泊した船の帆柱が、白い空へ何本も伸びている。荷役人の掛け声が倉庫街へ響き、海鳥は風に乗って岸壁の上を旋回していた。エリスは船へ乗り込む前に、一度だけ振り返った。見送りに来た者たちの中に、リアムがいた。クラリスと手を繋ぎ、借りた外套の襟へ顔を埋めている。以前より頬へ僅かに色が戻っていた。
「母さんを連れていった人を見つけるの?」
少年が尋ねた。
エリスは彼の前へ膝をついた。
「どこまで辿り着けるかは、まだ分からないわ」
嘘をつかない。必ず捕まえるとも言わない。
「でも、あなたのお母様に何が起きたのかを、なかったことにはさせない」
リアムは黙って彼女を見つめた。
やがて、小さく頷く。
「貴女は、帰ってくる?」
今度は、エリスが僅かに笑った。
「ええ」
その返事だけは、迷わなかった。
「必ず」
出航を告げる鐘が鳴る。
アランが船上から手を上げた。エリスは立ち上がり、乗船橋を渡る。船がゆっくりと岸を離れ始めると、リアムは最後まで港へ立っていた。
遠ざかる王都。小さくなっていく人影。春を待つ灰色の街。やがて城壁も時計塔も朝霧の向こうへ消え、視界には海だけが残った。灰色の海は、どこまでも静かだった。
黒薔薇を乗せた船は、潮風を受けながら西へ進んでいく。
隣国リュゼール。
港町ヴェルナ。
そして、帳簿の最後に残された名へ向かって。
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