母の手に咲いた花ー前編
以前短編にしていたものを加筆修正して、こちらに掲載しました。短編は後日削除します。
王都の冬は、華やかな通りほど冷たく見える。中央広場では冬至祭を前に色硝子の灯籠が飾られ、菓子店の窓には砂糖をまぶした焼き菓子が山のように積まれていた。毛皮の外套をまとった貴族たちは、白い息を吐きながら馬車を乗り降りし、店先では温めた葡萄酒の甘い香りが立ちのぼっている。その賑わいから幾つか通りを外れると、王都はまるで別の街になった。
高い建物に陽を遮られた裏路地には、昼を過ぎても薄暗さが残っている。石畳の隙間には前夜の雪が黒ずんだまま凍りつき、風が吹くたび、軒下へ溜まった紙屑や枯葉が壁と壁の間を転がっていった。食堂の裏口から漂う煮込み料理の匂い。酒場の地下から聞こえる、まだ酔いの残った笑い声。濡れた木材と煤の匂い。
王都には、同じ空の下に幾つもの暮らしがある。だが、華やかな大通りを歩く者が、この場所へ足を向けることはほとんどなかった。
アラン・ヴァルモントがその路地を通ったのは、偶然だった。
港の倉庫から黒薔薇商会へ届くはずだった荷が一箱足りず、運送人の足取りを確かめるため、普段は使わない裏道へ入った。調べはすでに終わっていた。荷は単なる積み間違いで、夕刻までには戻ることも分かっている。あとは屋敷へ帰るだけだった。それでも、路地の奥へ目を向けた時、アランは足を止めた。
崩れかけた石段の脇に、一人の少年が蹲っていた。十歳ほどだろうか。薄い外套は身体の大きさに合っておらず、袖口も裾も擦り切れている。膝を抱き込み、背中を丸めた姿は、壁の染みへ紛れてしまいそうに小さかった。風が吹くたび、肩が僅かに震える。それでも泣いてはいなかった。助けを呼ぶこともなく、通りかかる者へ手を伸ばすこともない。ただ、誰かが現れるのを待つように、路地の入口を見つめ続けていた。
アランの胸の奥に、古い傷を指でなぞられたような痛みが走った。
十五歳の冬―家も家族も失い、救護施設を抜け出した後、自分も同じような場所へ座っていた。誰かに見つけてほしかった。
けれど、哀れまれることは怖かった。声を掛けられれば逃げるつもりでいながら、本当は誰かに足を止めてほしかった。
「こんなところで、何をしている」
声を掛けると、少年はゆっくりと顔を上げた。
頬は冷たさに赤くなり、唇は乾いている。目の下には濃い影があったが、その瞳に子どもらしい怯えはなかった。代わりにあったのは、長く待ち過ぎた者の諦めだった。
アランには、その方が痛ましく思えた。
「名前は?」
「……リアム」
掠れた声だった。
「リアム。家はどこだ」
少年は答えず、路地の奥へ視線を落とした。小さな手が、外套の裾を強く握り締める。
「母さんが、帰ってこないんだ」
アランは少年の前へ屈んだ。
「いつからだ」
「三日」
「仕事へ出たまま?」
リアムは頷いた。
「仕事場には来ちゃ駄目って、いつも言われてた。でも、夜になっても帰ってこなくて……昨日も、その前も」言葉を続けるうちに、声が少しずつ震え始める。それでも泣かなかった。泣けば、本当に母親が帰ってこないことを認めてしまうと思っているのかもしれない。
「仕事場の場所は知っているのか」
「近くまでなら」
リアムは立ち上がろうとした。だが、長く寒さの中へ座っていたためか、足元がふらついた。アランは咄嗟にその腕を支える。細かった。外套の下へ肉がほとんど付いていない。三日間、まともな食事も取っていないのだろう。
「案内する」
少年はアランの手を振りほどこうとはしなかった。
「でも、僕は中に入れない」
その言葉を聞いた時、アランは少年の母親がどのような場所で働いているのか、おおよその見当がついた。王都の裏側で、女が子どもを一人で養える仕事は多くない。
まして、子どもを決して近づけたくない場所となれば、さらに限られていた。
「分かった」
アランはそう答え、周囲を見回した。このままリアムだけを路地へ残すことはできない。誰かに見張られている可能性もある。母親を探していることが知られれば、この少年まで危険に巻き込まれる。
「一緒に行くぞ」
「でも、母さんに怒られる」
「帰ってきたら、俺が怒られる」
リアムは、僅かに目を見開いた。冗談だと理解するまで、少し時間が掛かったらしい。やがて、本当に僅かではあったが、強張っていた口元が緩んだ。
アランは外套を脱ぎ、少年の肩へ掛ける。
「何があっても、俺から離れるな」
リアムは黙って頷いた。二人は歩き出した。色硝子の灯りが輝く大通りとは反対の方角へ。王都の地図には記されていても、そこへ暮らす者以外は名も知らない、細い路地のさらに奥へ。冬の風は変わらず冷たかった。それでも、少年の足取りは先ほどより少しだけ確かになっていた。
* **
リアムの母は、マリーといった。王都の南区で生まれたが、幼い頃に流行病で家族を失い、孤児院を転々として育った。読み書きは十分に教わらなかった。
頼れる親類も、財産もない。成人した後は食堂や洗濯場で働き、夜になれば借りた屋根裏部屋へ戻る、慎ましい暮らしを続けていた。
十一年前―冬の終わりに近い、雨の夜だった。仕事を終えたマリーは、同僚に誘われて小さな酒場へ立ち寄った。そこで出された酒に、薬が入れられていた。目を覚ました時には、見知らぬ部屋に一人で横たわっていた。窓は閉ざされ、蝋燭も消えている。衣服は乱れ、身体には自分のものではない匂いが残っていた。
誰がいたのか。何人だったのか。
どこへ連れていかれたのか。
何も覚えていなかった。
記憶は途中からきれいに途切れ、暗い穴のような空白だけが残っていた。医師に妊娠を告げられた時、マリーは何度も子どもを産むべきか迷った。生まれてくる子どもへ、父親の名を教えることはできない。自分一人で育てられる保証もない。誰かに相談しようにも、頼れる者はいなかった。それでも、腹の中で小さな命が動いた夜、マリーは泣いた。
悲しみだけではなかった。
自分にも家族ができる。
この子は、何も知らない自分と、この世界を繋いでくれるかもしれない。
「あなたは、私の子だから」
誰にも聞かれない部屋で、そう言った。だから、産んだ。リアムが生まれてからの暮らしは、楽ではなかった。子どもを抱えた身寄りのない女へ、王都は優しくなかった。昼間の仕事は長時間家を空けるものばかりで、子どもを預ける場所がなければ雇ってもらえない。働けなければ家賃を払えない。家賃が払えなければ、子どもとともに路上へ出るしかない。最後にマリーを受け入れたのは、夜の街だった。
娼館。そこだけは、過去も身分も問わなかった。ただし、若さと身体を金へ換えることを求めた。マリーは仕事のことをリアムへ話さなかった。朝、眠そうな息子の髪を撫で、いつも同じ言葉を残して部屋を出た。
「仕事場には来てはいけないよ」
「どうして?」
「子どもが行く場所ではないから」
リアムは母の言葉を守った。窓辺へ座り、母の帰りを待った。夜明け近くに扉が開けば、眠ったふりをした。マリーが疲れた顔を見せたくないことを知っていたからだ。
時には怪我をして帰ってくることもあった。化粧で隠しきれない痣。腕へ残る爪の痕。それでもマリーは、朝になれば笑った。
「大丈夫」
息子に心配をかけまいとする時ほど、よく口にする言葉だった。
そして、ある夜―マリーは帰らなかった。最初の日、リアムは仕事が長引いたのだと思った。
二日目には、帰り道で病気になったのかもしれないと考えた。
三日目―部屋に残っていたパンも尽きた。
外で風が鳴るたび、足音だと思って扉へ駆け寄った。だが、誰も来なかった。母の言葉を破ることは怖かった。それでも、何もしないまま待ち続ける方が、もっと怖かった。リアムは薄い外套を着て、一人で部屋を出た。娼館の名は知らない。けれど、かつて母の後を遠くから追い、どの通りへ入るのかだけは見たことがあった。小さな足で王都の裏側を歩き、迷い、寒さに動けなくなったところで。アランと出会った。
* **
娼館は、表通りから二本奥へ入った場所にあった。窓には赤い布が掛けられ、昼間だというのに、入口の灯は消えていない。扉の脇には酔った男が座り込み、空になった酒瓶を抱えて眠っていた。
建物へ近づいた途端、リアムの歩みが止まった。
「ここ?」
アランが尋ねると、少年は黙って頷いた。母親に来てはいけないと言われていた場所。その言葉を破った罪悪感と、母を見つけたい気持ちが、小さな身体の中でせめぎ合っている。
「大丈夫だ」
アランはリアムの肩へ手を置いた。
「お前は何も悪くない」
扉を開けると、安い香水と酒、古い煙草の匂いが押し寄せた。まだ客を入れる時間ではないらしく、玄関広間には女が二人いるだけだった。
一人は椅子へ座り、破れた衣装を繕っている。もう一人は床を掃いていた。
見知らぬ男と少年の姿を認めると、二人の顔へ警戒が浮かぶ。
「何の用?」
「マリーという女を探している」
アランの言葉に、針を持っていた女の手が止まった。
ほんの一瞬、だが、その反応を見逃すほど、アランは鈍くなかった。
「知らないね」
「ここで働いているはずだ」
「知らないと言ったでしょう」
女は立ち上がり、奥の扉へ向かおうとした。
アランがその前へ回る。
「三日前から帰っていない」
「この子は、何も食べずに母親を待っていた」
リアムが外套の陰から顔を出した。女は少年を見た。その顔を知っていたのだろう。
目元が揺れた。
「マリーの……」
声が漏れた。
すぐに口を閉ざしたが、もう遅かった。
「何があった」
アランの声が低くなる。女は何度も廊下の奥を気にした。
やがて、掃除をしていたもう一人が表の扉へ鍵を掛ける。
「奥で話して」
案内されたのは、使われていない小さな衣装部屋だった。壁には色褪せた衣服が並び、窓は厚い布で塞がれている。女は椅子へ座らず、扉へ背を預けたまま口を開いた。
「三日前、客が来たの」
「誰だ」
「知らない。顔を隠していた。店主が、特別な客だから何も聞くなって」
男はマリーを指名した。普段の何倍もの金を先払いし、夜が明ける前に裏口から出ていった。その後、部屋には誰もいなかった。マリーも。男も。
「連れていかれたのか」
「多分」
「店主は?」
女は苦く笑った。
「何も知らないって。マリーは客と逃げたんだって言ってる」
その言葉を、リアムも聞いていた。
「母さんは、逃げたりしない」
小さな声だった。だが、はっきりしていた。
女は顔を伏せる。
「分かってるよ」
声が震えていた。
「マリーは毎晩、あんたの話ばかりしてた。少し金が貯まったら、ここを辞めるんだって。どこか遠くで、小さな食堂をやりたいって」
アランは部屋を見回した。窓はない。扉は一つ。客が女を連れ出すには、裏口を使うしかない。店主や用心棒が気付かないはずがなかった。黙認したのだ。あるいは、最初から売った。
「その客が残したものは」
女は迷った末、衣装棚の奥から小さな布切れを取り出した。
黒に近い灰色。上質な外套の裏地らしい。端には銀糸で、小さな印が刺繍されていた。翼を閉じた鴉。細い三日月。アランはその印を知らなかった。だが、ただの装飾でないことは分かった。
「これは預かる」
「待って」
女は彼の袖を掴んだ。
「探すなら、気を付けて。前にも女が消えたことがある」
「何人だ」
「分からない。店だけじゃない。王都の夜の街から、時々一人ずついなくなる。皆、客と逃げたことにされる」
誰も探さない女たち。
家族のいない者。
借金を抱えた者。
素性を知る者が少ない者。
消しても騒ぎにならない人間ばかりが、選ばれていた。アランは拳を握った。視界の端で、リアムが布切れを見つめている。母親が何か危険なものに巻き込まれたことは、もう理解しているだろう。それでも彼は泣かなかった。
「行こう」
アランはリアムの手を取った。
「母さんを探してくれる?」
「ああ」
「絶対?」
約束できることではなかった。見つけても、生きているとは限らない。それでも、曖昧な言葉でこの少年を一人にすることはできなかった。
「必ず行方を突き止める」
アランは答えた。リアムはその言葉を信じるように、彼の手を強く握り返した。
* **
その夜、黒薔薇商会の調査室には、幾つもの燭台が灯されていた。窓の外では雪が降り始めている。細かな雪は王都の屋根を少しずつ白く染め、遠くに見える時計塔も、淡い霞の中へ沈んでいた。
机の上には、娼館で見つけた布切れ。失踪した女たちの記録。娼館の客名簿。そして、これまで黒薔薇商会が集めてきた人身売買に関する帳簿が並べられている。
エリスとアランは、長い間言葉を交わさなかった。
リアムはセシリアが別室で休ませている。
温かな食事を取り、ようやく眠ったと聞いていた。
「十一年前」
アランが低く呟いた。
「マリーが薬を盛られたのは、十一年前だ」
エリスは一枚の報告書へ視線を落としている。
「当時、ラウルもリリアナも、まだ自分たちで組織を動かせる年齢ではないわ」
「つまり、あいつらが始めたことじゃない」
「ええ」
エリスの指が、古い失踪記録を辿る。
マリーだけではない。
十五年前。
十八年前。
さらに古い記録にも、似た事例が残っていた。夜の街から消えた女。孤児院から移送されたまま記録の途切れた子ども。港の仕事へ向かった後、帰らなかった男。ラウルやリリアナが関与する以前から、同じ流れは存在していた。
「彼らは組織を作ったのではない」
エリスは静かに言う。
「すでにあったものを利用しただけ」
机の上へ、冷たい沈黙が落ちた。これまで暴いてきた罪は、すべて繋がっていると思っていた。
リリアナ。
ラウル。
エルヴァン公爵。
王宮財務局。
だが、その者たちでさえ、もっと大きな流れの途中に立っていただけなのかもしれない。
その時、調査室の扉が静かに叩かれた。
入ってきたのはユリウス・グレイだった。
腕には、兄ヴィクトルが残した譜面と、解読途中の書類を抱えている。顔には疲れが滲んでいた。ここ数日、ほとんど眠っていないのだろう。
「遅くにすみません」
ユリウスは机へ近づき、資料を広げた。
「譜面の最後の部分が、ようやく読めました」
これまでとは異なる規則で並んでいた音符。口座番号でも、日付でもない。複数の港と通貨を示す記号だった。ユリウスの指が、譜面の一節を辿る。
「兄は、王都の内部だけではなく、国外へ流れた金も記録していました」
「行き先は?」
アランが尋ねる。ユリウスは一枚の古地図を机へ置いた。王都から西へ延びる交易路。沿岸の小さな港。灰色の海を挟んだ先に、隣国リュゼールが描かれている。
「灰の回廊」
ユリウスが言った。
「十五年以上前に使われていた、王都とリュゼールを結ぶ密輸経路です」
その名は、アランにも聞き覚えがあった。人の往来が少ない山道と、小さな漁港を繋いだ古い道。戦時中には武器や密書を運ぶため使われ、和平後に閉鎖されたとされている。だが、実際には消えていなかった。
「送金先の一部に、ノアールの名があります」
ユリウスは解読した記録を差し出した。
セドリック・ノアール。
隣国リュゼールの元大公。今は政界を退き、領地で隠居しているとされる人物。王都では知る者の少ない名だった。だが、ヴィクトルの譜面では、その名が複数の送金記録の終着点に記されている。
「すべてが彼のものとは限りません」
ユリウスは慎重に続けた。
「ノアール家の名義を使っただけかもしれない。古い財団や代理人の口座も含まれています」
「それでも、同じ場所へ集まっている」
エリスは資料を重ねた。
ヴィクトルの譜面。
マリーの失踪。
娼館へ来た男の外套にあった紋章。
長年続く人身売買の記録。
点だったものが、少しずつ一本の線へ変わり始めている。
「リアムの存在が証明している」
エリスは低く言った。
「この流れは十年以上前から続いていた」
「リリアナやラウルは枝葉に過ぎない」
アランが続ける。
「根は王都の外にある」
ユリウスは譜面を見つめた。
「兄は、その根を見つけたのかもしれません」
だから殺された。すべてを知ったわけではない。だが、触れてはならない場所へ近づいた。エリスは椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いた。雪はさらに強くなっている。王都の灯が白い幕の向こうで揺れていた。この街には、まだ救わなければならない者がいる。マリーもその一人だった。だが、相手の根が国外にあるなら、これまでと同じ方法では届かない。
貴族一人を裁けば終わる話ではない。王宮の制度も、外交も、交易も巻き込むことになる。
「容易には手を出せない」
エリスは窓の外を見たまま言った。
「でも、見過ごすことはできない」
アランは机へ置かれた布切れを手に取った。翼を閉じた鴉。三日月。母親を待つリアムの顔が浮かぶ。かつての自分と同じように、誰にも見つけられず、寒い路地へ座っていた少年。あの時、自分を見つける者はいなかった。だからこそ。今度は、自分が見つける側にならなければならない。
「調べよう」
アランの声に迷いはなかった。
「王都の外まで」
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