偽りの音に咲く薔薇ー後編
以前短編にしていたものを加筆修正して、こちらに掲載しました。短編は後日削除します。
ユリウス・グレイは、音楽とともに育った。
王都の南にある小さな職人街。石工や染物師、楽器職人が住む土地で、彼は父と兄の三人で暮らしていた。母は幼い頃に亡くなり、父も彼が成人する前に、病に倒れた。
家計を支えたのは、十歳以上年の離れた兄ヴィクトルだった。ヴィクトル自身も音楽が好きだった。
だが、演奏家として舞台へ立つほどの才能はないと、早くから知っていた。代わりに王都音楽院で会計員として働き、弟を学校へ通わせた。
授業料。
弦の張り替え。
楽譜。
衣装。
冬には部屋を暖める薪さえ足りない暮らしだったが、ヴィクトルはユリウスの音楽にだけは妥協しなかった。
「弓は安物でも構わない」
ある夜、兄はそう言った。
「でも、音まで安くするな」
ユリウスが初めて王宮の舞台へ立った日。兄は客席の一番後ろにいた。貴族の間へ入る服を持っていなかったため、音楽院の職員用の上着を借りていた。それでも演奏が終わると、誰よりも大きく拍手を送った。
ユリウスは舞台の上から兄を見つけた。その日の光景を、生涯忘れないと思った。だが、兄はその冬に死んだ。
音楽院の階段から転落した事故として処理された。夜遅く、帳簿室から帰る途中だったという。遺体には、階段から落ちただけでは説明できない傷が残っていた。
腕に掴まれた跡。
爪の間に残る布。
こめかみの傷。
ユリウスは事故ではないと訴えた。だが、誰も耳を貸さなかった。働き過ぎで足を滑らせたのだ。弟の成功を喜び、酒を飲み過ぎたのかもしれない。そう言われた。
兄の遺品には、一枚の譜面があった。音楽とは呼べない奇妙な音符の列。旋律は破綻し、弾こうとしても不協和音にしかならない。それでもユリウスには分かった。兄が、無意味なものを残すはずはない。
音符の位置。
休符。
拍子。
ヴィクトルは音楽院の会計員だった。数字を、音楽へ変えたのだ。ユリウスは譜面を解読し始めた。そこには、エルヴァン音楽財団を通じた裏金の記録があった。
リリアナ。
ラウル。
エルヴァン公爵家。
王宮財務局。
王都で名を知られた者たちの影が、譜面の中へ繋がっている。彼は問いただそうとした。
音楽院へ。
財団へ。
王宮へ。
兄が何を知り、なぜ死ななければならなかったのか。だが、その直後から身体に異変が起きた。
演奏会の控室で飲んだ水。
教師から渡された薬。
眠れない夜に処方された鎮静剤。
そこへ、幻覚と混乱を引き起こす薬物が少しずつ混ぜられていた。
音が歪んで聞こえる。
人の顔が別の者に見える。
記憶が途切れる。
昨日何を話したのか分からない。
演奏中に弓を落とし、舞台から逃げ出したこともあった。やがて王都では、ユリウス・グレイは兄の死で心を病んだという噂が広がった。
療養が必要。
舞台へ立たせるべきではない。
危険な状態にある。
誰も、彼の言葉を信じなくなった。兄を殺した者たちの名を口にすれば、妄想だと笑われた。譜面を見せれば、意味のない落書きだと取り上げられた。ユリウスは王都音楽院から消えた。音楽だけが、記憶を繋ぎ止めた。
正しい音程。
弓を動かす感覚。
兄と練習した曲。
それだけは、薬によって曇った頭の中でも消えなかった。
* **
黒薔薇商会がユリウスの居場所を見つけたのは、冬が終わりに近づいた頃だった。王都の北端に、古い療養院がある。
高い塀に囲まれ、背後には白樺の森が広がっていた。雪はまだ庭の隅へ残り、裸の枝の間を冷たい風が抜けている。
療養院の中は、薬草と石鹸の匂いがした。廊下には淡い光が差し込み、患者たちは窓辺で本を読んだり、庭を眺めたりしていた。ユリウスは、図書室にいた。一番奥の窓辺。古い椅子へ腰掛け、膝の上に譜面を広げている。
痩せた手が、音符を一つずつなぞっていた。
誰とも話さない。
人が近づいても顔を上げない。
だが、指先だけが僅かに動いている。
空気の中へ弓を走らせるように。
音のない演奏を続けているようだった。
エリスは、しばらくその姿を見つめた。声を掛けることが正しいのか、分からなかった。沈黙の中でようやく自分を保っている者に、過去を差し出すことは残酷かもしれない。けれど、このままではヴィクトルの声は、誰にも届かない。
エリスはユリウスの前まで歩いた。膝の上へ、旧音楽院で見つけた譜面を置く。
指先が止まった。
ユリウスは長い間、譜面を見ていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
瞳は深く疲れていた。
それでも、完全に光を失ってはいない。
「これは……」
掠れた声だった。何日、あるいは何か月ぶりに発した言葉なのかもしれなかった。
「お兄様が残したものです」
エリスは答えた。
ユリウスの指が、譜面の端へ触れる。
震えていた。
「兄は……これを隠した」
「ええ」
「誰にも見つからないように」
「でも、見つけてほしかったのだと思います」
ユリウスは目を閉じた。長い沈黙があった。窓の外では、枝へ積もった雪が落ちた。
「何を望む」
彼は静かに尋ねた。
「私に、何をさせたい」
エリスはすぐには答えなかった。復讐を強いることはできない。兄のために戦えと命じる権利もない。
「あなたの音楽を取り戻してほしい」
ユリウスの眉が僅かに動いた。
「そして、あなたが望むなら」
エリスは譜面へ視線を落とす。
「この記録を、人々へ届ける手伝いをしてほしい」
「兄の声を?」
「いいえ」
エリスは首を横へ振った。
「あなた自身の声として」
ユリウスは譜面を見つめ続けた。
その日、答えはなかった。エリスも急かさなかった。翌日も療養院へ通った。薬物の影響を和らげる薬を届け、必要な治療を手配した。セシリアは食事を整え、アランはヴィクトルの死と財団の記録を調べ続けた。ユリウスは少しずつ話すようになった。
兄のこと。
音楽院のこと。
舞台のこと。
音が歪んで聞こえた夜のこと。
そして、もう一度ヴァイオリンへ触れてみたいということ。
春の初め、療養院の小さな礼拝堂で、ユリウスは久しぶりに楽器を構えた。最初の音は震えていた。弓は途中で止まり、指も思うように動かない。
それでも、二音目。三音目。少しずつ旋律になった。
窓から差し込む光の中で、長い沈黙を越えた音が、礼拝堂へ静かに広がった。
* **
慈善演奏会は、秋の夜に開かれた。
王都中央広場には無数の灯がともり、色鮮やかな天幕と、音楽財団の旗が風に揺れていた。目的は、孤児院と地方音楽学校への支援。貴族たちは寄付を公に示すために集まり、市民は無料で一流の演奏を聴くため広場を埋めている。表向きは、善意に満ちた催しだった。
だが、黒薔薇商会にとっては、長く沈黙させられてきた告発を、人々の耳へ届けるための舞台だった。壇上へユリウスが現れると、広場へ驚きの声が広がった。姿を消した天才ヴァイオリニスト。心を病み、二度と演奏できないと噂されていた男。
彼は黒い衣装を身につけ、兄が残した譜面を手にしていた。
客席の前列には、王宮財務局長官セバス・ローデックが座っている。
温厚な笑み。
白い髪。
慈善家として知られる老人の顔。
ユリウスは一度だけ、彼を見た。
そして、ヴァイオリンを構えた。
広場が静まる。弓が弦へ触れた。
最初の音は、低かった。美しくはない。
暗い地下へ、水滴が落ちるような音だった。次の音は、不自然に高い。
その次は短く。そして、長い休符。
聴衆は戸惑った。旋律にならない。調和もしない。音は途切れ、ぶつかり、歪んでいく。だが、それは無秩序ではなかった。
数字。
日付。
送金先。
人の目には帳簿としてしか見えない記録を、ユリウスは音へ変えていた。突然、弓が鋭く走った。
耳を刺すような不協和音が広場を裂く。観客の何人かが顔をしかめた。
「何だ、この曲は」
「調子が外れているぞ」
「本当に演奏できるのか」
低い声が上がる。
ユリウスは止めなかった。音は次第に激しくなる。
美しい旋律を期待した者へ、聞きたくない事実を突きつけるように。楽器が泣いているのではない。怒っているのでもない。
ただ、記録を読み上げている。人間の言葉へすれば隠されるものを、音の形で一つずつ曝け出している。
最後の一音が、夜空へ長く伸びた。そして消えた。
広場には、すぐ拍手は起こらなかった。ユリウスはヴァイオリンを下ろした。
「この曲は、美しいものではありません」声は大きくなかった。
それでも、静まり返った広場へよく届いた。
「美しくなるように作られたものではないからです」
彼は譜面を掲げた。
「これは、兄ヴィクトル・グレイが残した資金記録です」
聴衆の間へざわめきが広がる。黒薔薇商会の者たちが、帳簿の解読結果と証拠の写しを配り始めた。
「音符の高さは口座番号」
「音の長さは日付」
「休符の位置は送金先を示しています」
ユリウスは、前列へ視線を向けた。
「王宮財務局が、エルヴァン音楽財団を通じ、寄付金と国庫の資金を洗浄していた記録です」
セバスの笑みが消えた。
「送り主は、王宮財務局長官セバス・ローデック」
広場の空気が変わった。
号外を受け取った者たちが、記録へ目を走らせる。
寄付した金額。
届かなかった楽器。
閉鎖された孤児院。
財団へ預けられたまま、行方の分からなくなった子どもたち。
「俺の寄付が……」
「学校へ届いていなかったのか」
「うちの娘は、財団の寮へ入った後、連絡が取れなくなった」
戸惑いは疑念へ。疑念は怒りへ変わっていく。
セバスと部下たちは席を立とうとした。だが、その頃には王政監査会の文官たちが広場へ入っていた。
王宮の紋章が掲げられる。
「王命により、王宮財務局長官セバス・ローデックを拘束する」
文官の声が響く。
「罪状は資金洗浄、国庫資金の横領、公益財団の不正運用、証拠隠滅」
一度言葉を切る。
「および、ヴィクトル・グレイ殺害への関与」
ユリウスの指が、ヴァイオリンの縁を強く掴んだ。兄の死が、初めて事故ではなく罪として口にされた。
セバスは何かを叫ぼうとした。
だが、民衆の怒号にかき消された。
石が飛ばないよう、黒薔薇商会の者たちが人々を止める。
ここで必要なのは私刑ではない。真実を公の記録へ残し、罪を法の前へ立たせることだった。
ユリウスは譜面を胸へ抱いた。
「この記録を残したのは、兄です」
広場へ向けた声は静かだった。
「ですが、今日これを演奏したのは、私です」
長い沈黙の後。
誰かが拍手をした。一人。また一人。
やがて拍手は広場全体へ広がっていく。歓声とは違う。
勝利を祝う音でもない。兄の声を受け取り、自分の声として届けた一人の音楽家へ向けられた、静かで長い拍手だった。
ユリウスは深く頭を下げた。
目を閉じると、遠い客席の最後列に、兄が立っているような気がした。
* **
夜更け、王都郊外の墓地には、秋の風が吹いていた。
昼間の暖かさは消え、石碑の間には落葉が積もっている。
ユリウスは一人、細い道を歩いていた。手には兄の譜面と、一輪の黒薔薇がある。
墓碑には、簡素な文字で名が刻まれていた。
ヴィクトル・グレイ。
ユリウスはその前へ膝をつく。
「兄さん」
声に出した瞬間、長く堪えていたものが胸へ上がってきた。
「待たせたね」
譜面を墓前へ置く。風が頁を揺らした。
かつては意味の分からなかった音符。兄が命を懸けて残した最後の言葉。
「あなたの記録は、届いた」
ユリウスは墓石へ手を触れた。
「でも」
少しだけ笑う。
「音にしたのは、僕だ」
その言葉を、兄なら喜んだだろうか。
お前はいつまでも弟だなと笑うかもしれない。
それでもユリウスは、初めて兄の影から一歩外へ出たように感じた。
黒薔薇を墓前へ置く。
花弁が一枚、風に舞い、石碑の上へ落ちた。
少し離れた場所に、エリスが立っていた。
黒い外套を羽織り、静かに夜空を見上げている。
「終わったのか」
ユリウスが尋ねる。
エリスは首を横へ振った。
「セバスの記録は、途中で途切れている」
「さらに先へ金が流れているのか」
「ええ」
ユリウスは譜面の最後の頁を思い出した。
解読できない一節。これまでとは異なる規則で並ぶ音符。
兄は、まだすべてを語り終えていない。
「私たちと来る?」
エリスが尋ねた。
ユリウスは墓碑を見た。兄を追うためだけに音楽を続けるのではない。
これからは、自分が何を奏でるかを選ばなければならない。
「行く」
短く答えた。
「兄の譜面の続きを知りたい」
そして、自分の音楽を、もう一度生きるために。
* **
同じ夜、海を隔てた隣国リュゼールの王宮には、誰も使わない古い書庫があった。王宮の最下層。幾重もの扉と、長い螺旋階段の先。
窓のない部屋には、王都や港、貴族家、商会の名を記した帳簿が無数に並んでいる。
一人の男が、蝋燭の下で頁をめくっていた。
セドリック・ノアール。
かつて大公の位にあり、今は隠居したとされる男。
彼の名を公の場で聞くことは、ほとんどない。
だが、王都で動く金の流れも、国外へ出る船も、貴族たちが隠した罪も、その多くは彼の帳簿へ記されていた。
エルヴァン公爵。
リリアナ。
ラウル。
セバス・ローデック。
一つずつ、名の横へ線が引かれている。
失脚。
拘束。
死亡。
あるいは、役目を終えたという印。
男は黒薔薇商会の報告を読み終え、帳簿を閉じた。苛立ちもない。驚きもない。長い観察の途中で、予測していた結果を確認しただけのようだった。
「やはり、そう選ぶか」
小さく呟く。
誰へ向けた言葉なのかは分からない。
エリスか。
アランか。
兄の死を越えて舞台へ戻ったユリウスか。男は別の帳簿を開いた。
そこには、まだ黒い線を引かれていない名が並んでいる。
人は金を前にすれば変わる。
権力を持てば変わる。
愛する者を失えば変わる。
裏切られれば変わる。
あるいは、変わったように見えて、本質だけは決して変わらない。セドリックは長い年月、人間がどちらを選ぶのかを見続けてきた。
「次は」
羽根ペンの先が、一つの名の上で止まる。
「何を見せてくれる」
その口元に浮かんだものは、笑みと呼ぶにはあまりにも静かだった。
蝋燭の火が揺れ、帳簿の頁へ影が落ちる。遠く。
夜の海の向こうでは、黒薔薇商会が新たな記録を手にしていた。兄の声を音へ変えたユリウスとともに。
まだ誰も知らない、帳簿の最後へ続く道を追うためにー黒薔薇商会。
そこは過去へ裁きを下すためだけの場所ではない。
奪われた声を取り戻し、沈黙の中へ葬られた真実を、再び世界へ響かせるために存在する場所だった。
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