偽りの音に咲く薔薇ー前編
以前短編にしていたものを加筆修正して、こちらに掲載しました。短編は後日削除します。
王都の西の外れには、古い芸術街が残っている。
かつては詩人や画家、音楽家たちが暮らし、夕暮れになると開け放たれた窓から竪琴や歌声が流れていたという。石畳の両側には細長い家々が並び、壁には色褪せた劇場の広告や、名も忘れられた演奏家の肖像が今も貼りついている。
だが、芸術街が華やかだったのは遠い昔のことだった。王宮が新しい劇場を東区へ造ってから、音楽家たちは少しずつこの土地を離れていった。工房は閉じられ、楽器店の看板は雨風に削られ、昔は夜更けまで賑わった酒場にも、今では近隣の老人が数人集まるだけになっている。
その街区の最奥に、王都音楽院の旧校舎があった。高い尖塔を持つ石造りの建物だった。
正面には音楽を司る女神の像が立ち、両腕へ抱えた竪琴は長い年月のうちに弦を失っていた。階段の両側へ置かれた街灯も壊れ、蔦は二階の窓まで伸びている。
かつては貴族の子弟が馬車で通い、王宮の晩餐会を彩る演奏家や、劇場の舞台へ立つ歌手を育てた場所だった。今では、誰も近づかない。
風が吹くたび、閉ざされきらない扉が僅かに揺れ、長い音を立てる。その音は、遠い日に響いた拍手が、空になった廊下で形を変えたもののようにも聞こえた。
エリス・レイノルズは、その扉の前に立っていた。夕刻から降り始めた細い雨は、すでに止んでいる。雲の切れ間には淡い月が浮かび、濡れた階段を銀色に照らしていた。
黒薔薇色の外套が、夜の風に揺れている。
エリスはしばらく無言で建物を見上げた。
窓は幾つも割れ、暗い内部が覗いている。屋根の端には雨水が残り、一滴ずつ石畳へ落ちていた。
音楽院という場所に、特別な思い出があるわけではない。
幼い頃、姉とともに王宮の演奏会へ招かれたことはあった。だが、当時のエリスにとって音楽は、静かに席へ座り、終われば拍手を送るものだった。
この場所で夢を抱き、毎日弦を鳴らし、歌を学んだ者たちの時間を、彼女は知らない。
それでも、人がいなくなった後の建物には、残された者にしか語れないものがある。エリスは手を伸ばし、扉を押した。蝶番が深く軋んだ。誰かが長い眠りから目を覚まし、息を吐いたような音だった。
* **
建物の中には、古い木と湿った紙の匂いが残っていた。
玄関ホールは広く、天井には色褪せた壁画が描かれている。雲の上で楽器を奏でる天使たちは、長い年月の中で顔を失い、月明かりの下に淡い輪郭だけを残していた。
床には破れた演奏会の案内が散らばり、歩くたび乾いた紙が靴の下で擦れた。正面の大階段を上がれば講堂へ、右の廊下を進めば個人練習室へ続いている。
エリスは燭台へ火を灯し、ゆっくりと奥へ進んだ。
誰かが最後に音を奏でてから、どれほどの時が過ぎたのだろう。廊下の両側には、いくつもの扉が並んでいる。
ある部屋には、蓋の外れた古い鍵盤楽器が置かれていた。
白い鍵は黄ばみ、黒い鍵のいくつかは失われている。試しに一つ押してみると、内部で何かが外れたような、鈍い音がした。
隣の練習室には、壁一面の鏡があった。
鏡はひび割れていたが、その前に並ぶ小さな足跡の傷だけは、幾度も同じ場所に立った者たちの時間を残していた。
楽器を構える位置。
弓を下ろす位置。
一歩踏み出し、再び戻る位置。
音は消えても、身体が繰り返した記憶は床へ残る。
別の部屋の壁には、鉛筆で走り書きされた音符が残っていた。
消しかけた跡。
書き直した線。
小さな文字で添えられた指使い。
誰かが、どうしても弾けない一節を繰り返し練習したのだろう。
エリスは指先で音符の跡をなぞった。
ここにいた者は、もう音楽家になれたのだろうか。
それとも、夢を諦めて別の人生を選んだのか。
答える者はいない。
ただ、割れた窓から入る風が、譜面台の残骸を僅かに揺らしていた。エリスがこの旧音楽院へ来た理由は、一つだった。
エルヴァン音楽財団。
公爵家の帳簿へ何度も記されていた名。
貧しい音楽家への支援。
地方の子どもたちへ楽器を寄付するための基金。
王宮主催の慈善演奏会。
表向きは、芸術を守るための善意に満ちた財団だった。
だが、帳簿の数字は合わなかった。
寄付された金額と、実際に使われた金額。
購入された楽器の数と、音楽院へ届いた数。
国外へ送られたとされる支援金と、輸送記録。
差額は、別の場所へ流れている。
そして、この旧音楽院の記録保管庫だけが、財団解散時の調査から外されていた。
偶然とは思えなかった。エリスは一階の最奥へ進んだ。
そこには地下へ続く石段があった。柵には錆びた鎖が掛けられていたが、錠はすでに壊れている。
階段を一段下りるごとに、空気が冷たくなった。
地上の風や雨の匂いは遠ざかり、湿った石と古い革の匂いが肌へまとわりつく。
燭台の火が、細く揺れた。
地下室には、かつての楽譜や会計記録、演奏会の衣装、壊れた楽器が積まれていた。棚は天井近くまで伸び、紙の束には厚く埃が積もっている。年月と湿気に侵された記録は、触れれば崩れてしまいそうだった。
エリスは一つずつ棚を確かめた。
財団の寄付記録。
演奏会の出席者名簿。
教師への給与台帳。
生徒の成績表。
どれも古く、途中で途切れている。
やがて、棚の隅に一挺のヴァイオリンが置かれていることに気付いた。黒ずんだ布に包まれ、長い間忘れられていたらしい。
布を外すと、柔らかな飴色の木肌が現れた。弦はすべて切れている。表面には、細かな傷が無数に刻まれていた。
磨かれた跡。
顎当ての擦れ。
指板へ残された指の跡。
高価な楽器ではない。
だが、長く使い込まれていた。
楽器というものは、持ち主の癖を覚える。
手の置かれる場所。
汗。
呼吸。
迷いながら押さえた音。
何度も同じ曲を弾いた時間。
たとえ音を失っても、それらは木の中へ残る。エリスはヴァイオリンを元の場所へ戻そうとした。
その時、楽器の奥にある石壁へ、僅かな違和感を覚えた。地下室の壁は、古い灰色の石で造られている。
だが、その一角だけ、表面が僅かに平らだった。燭台を近づける。石の間へ、薄い金属板が埋め込まれている。
周囲と同じ色に塗られているが、湿気を吸った石とは違い、光を冷たく返した。
エリスは手袋を外し、金属の縁へ触れた。指先へ冷たさが伝わる。
縁をゆっくりなぞると、右下に小さなくぼみがあった。
押す。
カチリ、と乾いた音がした。
壁の一部が僅かに浮く。
中には、小さな金庫が隠されていた。
鍵は掛かっていなかった。
エリスが扉を開くと、古びた譜面が一冊だけ収められていた。
表紙には題名も、作曲者の名もない。頁を開く。
そこに並んでいた音符は、明らかに不自然だった。
同じ音が意味もなく繰り返され、突然、大きく音程が跳ぶ。拍子も途中で変わり、旋律として弾けば、聞くに堪えないものになるだろう。音楽ではない。
だが、でたらめに書かれたものでもなかった。
音符の間隔は整い、一定の規則がある。
誰かが意図を持って、この形へしたのだ。
「……何かあるわね」
エリスの声が、地下室へ小さく響いた。
譜面を丁寧に巻き、外套の内側へ収める。
その時、上の階で何かが鳴った。
風が扉を動かしただけかもしれない。
だが、エリスは燭台の火を消し、暗闇の中で耳を澄ませた。
足音は続かない。
遠くで、割れた窓が一度だけ軋んだ。
まるで旧音楽院そのものが、譜面を持ち出す彼女を見送っているようだった。
* **
黒薔薇商会の屋敷は、王都の商業区から少し外れた古い街並みの中にあった。
昼間は荷車が出入りし、薬草、香辛料、染料、古書などを扱う貿易商として人を迎えている。
だが、店の奥にある書庫と、その下へ造られた調査室こそが、この商会の本当の中枢だった。
旧音楽院から戻った翌朝。
エリスは譜面を持ち、アランの執務室を訪れた。
窓からは薄い冬の日差しが入り、机の上へ積まれた帳簿の端を照らしている。アランは前夜から公爵家の輸送記録を調べていたらしく、空になった珈琲の器が幾つも置かれていた。
「見つけたわ」
エリスは譜面を机へ広げた。
アランは一目見て、眉を寄せる。
「曲には見えないな」
「ええ」
「でも、何かが隠されている」
アランは椅子を引き、譜面へ顔を近づけた。音楽に詳しいわけではないだが、暗号や偽造された帳簿を見抜くことには慣れている。一つずつ音符を数え、拍子の変わる位置を記録し、頁の端へ残る僅かな印を拾っていく。
昼が過ぎ、窓からの光が傾いても、彼は譜面を離さなかった。
夜になり、燭台へ火が灯された頃。
アランは新しい紙へ、いくつもの数字を書き並べた。
「音符の高さが数字を示している」
「長さが日付」
「休符の位置が送金先だ」
エリスは机の向かいへ座り、解読された文字を見た。
口座番号。
送金日。
金額。
財団名。
そこには、長年にわたる資金の流れが記されていた。
「音楽に偽装された帳簿ね」
「ああ」
アランは最後の頁を開いた。
薄く押された印章がある。
王宮財務局。
その下には、一人の官僚の名が記されていた。
セバス・ローデック。
王宮財務局の長官。
長く国庫を管理し、温厚で誠実な老官僚として知られる人物だった。
「送り主はセバス」
アランは低く言った。
「エルヴァン音楽財団を通し、金を幾つもの口座へ分散させている」
「受取人は?」
「大半は仮名だ」
「だが、この譜面を作った者の名が、裏表紙に残っている」
エリスは譜面を受け取った。
裏表紙の布を剥がすと、消えかけた文字が現れた。
ヴィクトル・グレイ。
聞き覚えのある名だった。
王都音楽院で会計を担当していた男。
そして。
「ユリウス・グレイの兄」
エリスは静かに呟いた。
ユリウス・グレイ。
かつて王都音楽院が誇った天才ヴァイオリニスト。
王宮の演奏会へ若くして招かれ、将来を期待されながら、ある日突然表舞台から消えた男。
公式には、兄を失った悲しみにより心を病み、療養へ入ったとされている。
「ヴィクトルは、この記録を残したために死んだ可能性がある」
アランの声には、断定を避ける慎重さがあった。
だが、二人とも同じことを考えていた。
事故ではない。
消されたのだ。
そして、弟ユリウスもまた。
「彼を探しましょう」
エリスは譜面を閉じた。
「生きているなら、この譜面が何を意味するのか、誰よりも知っているはずよ」
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