父の墓に咲く薔薇ー後編
以前短編にしていたものを加筆修正して、こちらに掲載しました。短編は後日削除します。
最初の標的は、マリアだった。
かつてエリスへ仕えながら、リリアナへ情報を流し、レイノルズ家の失墜に手を貸した侍女。
事件の後、マリアはエルヴァン公爵家へ雇われていた。
リリアナの推薦によるものだった。
犯罪者として断罪された家に仕えていた侍女が、より高位の公爵家へ迎えられる。
それだけでも不自然だった。
調べるうちに、マリアが単なる侍女ではないことが分かった。
公爵家の動きをリリアナへ伝え、ラウルやその仲間へ指示を運ぶ。
彼女は二つの家を繋ぐ、小さな糸だった。
エリスはロゼという名で、エルヴァン公爵家へ潜り込んだ。
役目は洗濯係。
使用人の中でも身分は低く、主人の目へ触れることはほとんどない。
だが、衣服には多くの情報が残る。
泥の色。
香水の匂い。
見知らぬ草の種。
袖へ残った血。
誰がどこへ行き、誰と会ったのか。
衣服を見れば、人の行動は思っている以上によく分かった。
エリスは洗濯場で働きながら、屋敷の構造と人の動きを覚えていった。
夜になれば帳簿室へ忍び込み、荷の出入りや金の流れを確かめる。
薬品庫の鍵がどこへ置かれているかも調べた。
マリアが疑いを持ったのは、潜入から間もなくのことだった。
洗濯場の廊下ですれ違った時、ふと足を止めた。
俯き加減に衣服を抱える若い女。
髪も顔立ちも違う。
それでも、人と擦れ違う時に僅かに身体を引く癖や、指先の動きが、かつて仕えていた令嬢を思わせた。
マリアは振り返った。
ロゼは何も気付かず、廊下の奥へ歩いていく。
似ている。
だが、そんなはずはない。
エリス・レイノルズは死んだ。
収容所から死亡通知も届いている。
そう言い聞かせても、疑念は消えなかった。
ある夜。
薬品庫の扉が僅かに開いているのを見つけた。
中へ入ると、棚の一角が乱れている。
そこにはアーリスの根が保管されていた。
乾燥させれば普通の薬草と見分けがつきにくい。
だが、煎じて飲ませれば身体の自由を奪う。
人を抵抗できなくして運ぶため、リリアナやラウルが使っていた毒草だった。
ひと房だけ、なくなっていた。
翌日の昼。
公爵夫人が食堂で倒れた。
茶器が床へ落ち、乾いた音を立てて割れた。
夫人は椅子へしがみつこうとしたが、指から力が抜けていく。
目を見開き、声を上げようとしても、喉は震えるだけだった。医師が到着するまでには一刻ほどかかる。
その間にも呼吸は浅くなっていった。
「誰か、分かる者はいないのか!」
執事の怒声が響く中、一人の使用人が前へ出た。
ロゼだった。
「アーリスの根です」
場が静まり返る。
「毒です。すぐに処置をしなければ、呼吸が止まります」
なぜ洗濯係が毒草を知っているのか。
誰もが疑問を抱いた。
だが、問いただしている時間はなかった。
ロゼは薬草棚から解毒に使える葉を選び、湯へ溶かした。夫人の身体を横向きにし、少しずつ薬湯を飲ませていく。
その手に迷いはなかった。
マリアは青ざめた顔で、その姿を見ていた。
薬草を選ぶ指。
患者の呼吸を確かめる目。
そして、ふと持ち上げられた顔。
視線が重なる。
その瞬間、マリアの胸の奥で、過去が一つに繋がった。
エリス。
顔が変わっても分かる。
自分が仕え、自分が裏切った令嬢。
死んだはずのエリス・レイノルズが、目の前にいる。
夫人は一命を取り留めた。
だが、身体の片側へ麻痺が残った。
薬品庫が調べられ、アーリスの根が持ち出されていたことが分かる。
さらにマリアの部屋から、乾燥した根の欠片と、薬品庫の鍵型を取った蝋が見つかった。
どれも、彼女には覚えのないものだった。
「私はやっていない!」
連れ出されながら、マリアは何度も叫んだ。
「ロゼよ! あの女がやったの!」
使用人たちは冷たい目を向けた。
夫人を救った女。
毒を隠し持っていた女。
どちらを信じるかは明らかだった。
「エリスよ!」
マリアは声を振り絞った。
「あの女はエリス・レイノルズよ! 死んでなんかいない!」
だが、その言葉は彼女が錯乱している証拠として受け取られた。
エリス・レイノルズは死んでいる。
王宮の記録にも、そう残されていた。
ロゼは廊下の陰から、その姿を見ていた。
泣き叫ぶ顔。
震える指。
誰にも信じてもらえず、言葉を失っていく姿。
かつての自分と同じだった。
ただし、マリアは無実ではない。
今回の毒を盛った者でなかったとしても、レイノルズ家を陥れ、人が売られていくことを知りながら沈黙した。
「あなたが私を裏切ったように」
エリスは小さく呟いた。
「今度は、私があなたを裁く」
マリアは処刑されなかった。
毒殺未遂の罪で拘束され、リリアナの手先であったことも明るみに出た。
誰にも信じられず、すべてを失った。
命を奪うよりも重い罰。
エリスが望んだのは、マリアを殺すことではない。
自分が味わった絶望を、彼女自身へ返すことだった。
* **
公爵夫人もまた、生き残った。
だが、以前と同じ暮らしには戻れなかった。
アーリスの根による麻痺が残り、長く立つことも、一人で着替えることも難しくなった。
かつての夫人は、社交界の華だった。
国外から取り寄せた絹。
金糸を縫い込んだドレス。
首元を飾る宝石。
舞踏会のたびに新しい衣装を仕立て、誰よりも華やかであることを誇っていた。
その贅沢は、人身売買によって得た金に支えられていた。
アーリスの根を飲まされ、身体の自由を失った者たちが、荷のように運ばれていく。
公爵夫妻は、その利益で宝石を買った。
そして今。
夫人自身が、同じ毒によって自由を失った。
硬い胴衣も、重いドレスも身につけられない。
柔らかな衣服しか着られず、鏡を見るたび怒りを露わにした。
使用人を叱りつけ、物を投げ、夫へも当たり散らした。
公爵は次第に妻へ嫌気を募らせた。
だが、見捨てれば毒殺事件への関与を疑われる。
離縁すれば、社交界から非難される。
二人は同じ屋敷に住みながら、ほとんど顔を合わせなくなった。
以前は笑い声と音楽で満ちていた屋敷も、今では使用人の足音だけが長い廊下へ響いていた。
その間も、エリスは帳簿室へ通い続けた。
狙いはマリアだけではない。
エルヴァン公爵家そのものだった。
幾夜も書類を調べた末、古い契約書の束から、一枚の紙を見つけた。
ヴァルモント男爵家との独占契約案。
末尾には、トマス・ヴァルモントが拒否したことを示す記録が残されていた。
そして、その直後から公爵家の帳簿には不自然な支出が増えている。
役人への謝礼。
証言者への報奨。
衛兵隊への寄付。
ヴァルモント家の告発後には、領地と醸造所の取得費まで計上されていた。
父が独占契約を拒んだため、公爵家は彼を人身売買の主犯へ仕立て上げた。
奪った醸造所と輸送路を、自分たちの犯罪へ使った。
ワイン樽を積んだ馬車なら、検問も容易に通れる。
その荷の中へ、人を隠して運んでいた。
アランの父へ着せられた罪は、公爵家自身の罪だった。
エリスは帳簿の前で、長く動けなかった。
自分のためではない。
この証拠を何年も待ち続けてきた男の顔が浮かんだ。
アランは父の無実を信じていた。
それでも証拠がなければ、胸のどこかに疑いは残る。
本当に何も知らなかったのか。
何かを隠していたのではないか。
その問いを抱えたまま、彼は父の名誉を取り戻そうとしてきた。
エリスは必要な頁を書き写し、印章と署名を確かめた。
原本の一部を抜き取り、黒薔薇商会へ送る包みへ入れる。
「これが……証拠」
言葉は帳簿室の闇へ落ちた。
窓の外では、夜明け前の風が木々を揺らしている。
長い復讐が、ようやく裁きへ変わろうとしていた。
* **
黒薔薇商会が選んだ舞台は、孤児院支援を目的とした慈善市だった。
春の王都。
中央広場には色鮮やかな天幕が並び、花や菓子、手工芸品が売られていた。
風が吹くたび、天幕の布が大きく揺れ、焼き菓子の甘い香りが人波の中へ流れていく。
貴族は善意を示すため寄付を行い、商人は名を売るため店を出す。
孤児たちは合唱を披露し、広場には一見、穏やかな空気が満ちていた。
エルヴァン公爵夫妻も招かれていた。
欠席すれば、近頃広がり始めた疑惑を認めたと思われる。
そのため、二人は不本意ながら姿を見せた。
公爵夫人は椅子へ身体を預け、装飾の少ない衣服を身につけていた。
髪も簡素にまとめられ、顔には隠しきれない苛立ちが浮かんでいる。
公爵は妻の隣へ立たず、僅かに距離を取っていた。
以前なら、二人は互いの腕を取り、理想の夫妻を演じていただろう。
今では目を合わせることさえない。
その距離は、言葉よりも雄弁だった。
正午を過ぎた頃。
中央の壇上へアランが上がった。
背後には黒薔薇の紋章。
机の上には、複数の帳簿と証言書が置かれている。
広場のざわめきが、少しずつ静まった。
「本日は、孤児たちの未来のために、多くの方々がお集まりくださいました」
アランの声が、春の空気を渡って広場の隅まで届く。
「ですが、この王都には、その未来を奪い続けてきた者たちがいます」
公爵の顔色が変わった。
アランは帳簿を手に取る。
「孤児院への寄付を装い、存在しない運送会社へ金を流した者」
「無実の領主へ人身売買の罪を着せ、領地と輸送路を奪った者」
「そして、その道を使い、人間を荷として国外へ売り続けた者」
黒薔薇商会の者たちが、集まった人々へ号外を配り始める。
紙面には帳簿の写し、資金の流れ、失踪者の記録、証言者の名が記されていた。
アランは広場を見渡した。
「ラウル・グランベール」
「リリアナ・レイノルズ」
「そして、エルヴァン公爵夫妻」
名が告げられた瞬間、低いざわめきが広がった。
やがて、それは叫びへ変わる。
「人身売買……?」
「娘を返せ!」
「兄も港へ働きに出たまま戻っていない!」
「孤児院から消えた子どもたちは、あんたたちが売ったのか!」
家族を探し続けてきた者。
失踪を家出として処理された者。
役人へ訴えても相手にされなかった者。
長く押し殺されてきた声が、一斉に空へ放たれた。
公爵は後退りし、馬車へ向かおうとした。
夫人は椅子から立ち上がろうとしたが、麻痺した身体が言うことを聞かない。
「あなた! 私を置いていくつもりですか!」
夫人の叫びにも、公爵は振り返らなかった。
自分だけでも逃げようと、護衛を押し退ける。
その姿を見た群衆の怒りは、さらに膨らんだ。
小石が馬車へ当たり、罵声が飛ぶ。
だが、黒薔薇商会の者たちは、人々が夫妻へ直接襲い掛からないよう、密かに流れを制御していた。
復讐と私刑は違う。
ここで夫妻を殺してしまえば、ただ憎しみが残る。
必要なのは、罪を公へ晒し、法の前へ引きずり出すことだった。
やがて、王宮の紋章を掲げた馬車が広場へ入ってきた。
文官と衛兵が人波を割り、中央へ進む。
勅書が開かれた。
「王命により、エルヴァン公爵および同夫人を、人身売買、横領、虚偽告発、収賄の疑いで拘束する」
その言葉が響くと、広場から歓声が上がった。
泣き崩れる者もいた。
家族が戻るわけではない。
失われた年月も返らない。
それでも、誰にも届かなかった声が、ようやく罪として認められた。
広場の片隅で、エリスとアランはその光景を見届けていた。
エリスは深くフードを被っている。
マリアへの復讐を終えた後も、ロゼとして公爵家へ残り、最後の証拠を集め続けた。
今、その役目も終わった。
「行こう」
アランが小さく言った。
エリスは頷く。
二人は歓声に背を向け、裏路地へ歩き出した。
春の陽は傾き始め、王都の屋根へ長い影を落としていた。
背後では王命が読み上げられ、長く閉ざされていた裁きの扉が開いている。
だが、アランには、まだ向かわなければならない場所があった。
* **
王都の外れにある墓地へ着いた頃には、空は深い藍色へ変わっていた。
昼間の温かさは消え、石碑の間を抜ける風は冷たい。
遠くでは、城壁の向こうに王都の灯が揺れている。
祭りの喧騒も歓声も、ここまでは届かなかった。
アランは一つの墓碑の前へ膝をついた。
トマス・ヴァルモント。
刻まれた名へ手を触れる。
石は冷たかった。
父が亡くなってから、どれほどの年月が過ぎただろう。
少年だった自分は、もう父の年齢へ近づきつつある。
それでも目を閉じれば、収穫の丘で笑っていた父の姿が浮かぶ。
風に揺れる葡萄の葉。
樽を叩く音。
冬の夜、暖炉の前で杯を傾ける横顔。
「父さん」
声が僅かに震えた。
「やっと、証明できた」
父は人を売ってなどいなかった。
領民を裏切っていなかった。
正しいことを曲げなかったために、罪を着せられたのだ。
「遅くなって、ごめん」
謝る必要などないと、父なら言っただろう。
それでもアランは、長い間その言葉を胸に抱えていた。
もっと早く真実を見つけられていたら。
父を疑わずにいられたら。
自分が道を踏み外さずに済んでいたら。
幾つもの後悔が、夜の静けさの中で胸へ押し寄せる。
少し離れた場所に、エリスが立っていた。
何も言わない。
慰めようとも、急かそうともしない。
ただ、アランが父へ言葉を届け終えるまで待っていた。
やがて風が吹いた。
墓前へ置かれた黒薔薇の花弁が一枚だけ宙へ舞い、墓石の上へ静かに落ちる。
アランは長く目を閉じた後、ゆっくりと立ち上がった。
「終わったな」
アランが呟く。
「一つは」
エリスは答えた。
エルヴァン公爵夫妻は裁かれる。
父の名誉も、いずれ正式に回復されるだろう。
だが、公爵家の帳簿には、まだ説明のつかない金の流れが残されていた。
暗号化された送金記録。
王都の外へ続く輸送経路。
公爵よりもさらに上に、すべてを見ていた者がいる。
エリスは夜空を見上げた。
雲の切れ間に、細い月が浮かんでいる。
「終わったのは、一つの章だけね」
「帳簿には、まだ先がある」
アランも、墓地の向こうに広がる王都を見つめた。
無数の灯が闇の中で揺れている。
そのどこかに、まだ裁かれていない者がいる。
父を陥れた者。
エリスの家族を奪った者。
人を物のように扱い、その利益を受け取り続けてきた者。
黒薔薇商会の復讐は、まだ終わっていなかった。
* **
夜明け前。
黒薔薇商会の執務室には、再び蝋燭がともっていた。
雨は上がり、窓の外には薄い霧が漂っている。
東の空はまだ暗かったが、屋根の向こうには僅かな白みが見え始めていた。
机の上には、エルヴァン公爵家から持ち出した帳簿と、暗号化された送金記録が広げられている。
エリスは黒薔薇の紋章が押された封筒を手に取り、中から一枚の紙を抜き出した。
港の名。
船会社。
国外へ送られた金額。
「次は、ここね」
彼女の声は静かだった。
以前なら、その言葉には憎しみだけがあったかもしれない。
だが今は違う。
復讐の先で救った者たちがいる。
自分を支えてくれる仲間がいる。
暴くべき罪は、もう自分のためだけのものではなかった。
アランは静かに頷いた。
「まだ終わっていない」
窓の外で、朝を告げる鐘が遠く鳴った。
王都の屋根が、少しずつ青白い光に浮かび上がっていく。
長い夜が明けようとしていた。
けれど、二人が追う闇は王都の外へ続いている。
海へ。
異国へ。
帳簿の最後に残された、まだ見ぬ場所へ。
黒薔薇は一つの復讐を終えた。
そして、新たな罪を追うために、夜明けの静けさの中で再び花開こうとしていた。
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