父の墓に咲く薔薇ー前編
以前短編にしていたものを加筆修正して、こちらに掲載しました。短編は後日削除します。
王都の北には、かつて下級貴族たちが暮らしていた古い街区がある。
石造りの屋敷が狭い道の両側へ並び、春には塀を覆う蔦が柔らかな緑を広げるが、冬が近づけば葉はすべて落ち、長く伸びた枝だけが灰色の壁へ絡みついていた。
住む者を失った屋敷も多い。
閉ざされた窓。
錆びた門。
雨に削られ、家名さえ読めなくなった表札。
昼間であっても人通りは少なく、日が沈めば、馬車の音さえほとんど聞こえなくなる。
その一角に、一軒だけ夜更けまで灯をともす屋敷があった。
表門へ掛けられた看板には、黒く咲く薔薇が一輪、銀色の線で描かれているー黒薔薇商会。
薬草や香辛料、古書、宝飾品を扱う小さな貿易商会として、近頃ようやく王都で名を知られるようになった。
昼間には商人や荷運びの者が出入りし、裏庭では異国から届いた木箱が開かれる。
夜になると門は閉ざされ、屋敷は静けさを取り戻す。
だが、二階の執務室だけは別だった。
窓辺に置かれた蝋燭の火が、冷たい夜気に揺れている。
その淡い光の下で、アラン・ヴァルモントは古い帳簿をめくっていた。
外では細い雨が降っていた。
屋根を叩く音は弱く、時折、風が窓枠を鳴らす。暖炉には火が残っていたが、部屋全体を暖めるほどではなく、長く紙へ触れていた指先は冷え切っている。
それでも、アランの目には熱があった。
机の上には、各地から集めた帳簿や契約書が幾つも広げられていた。
領地の譲渡記録。
ワインの輸送証明書。
孤児院への寄付金台帳。
倉庫の使用許可証。
一つずつ見れば、どれも珍しい書類ではない。
だが、日付と金額を重ね、同じ名を辿っていけば、紙の下に隠された流れが見えてくる。
孤児院へ送られたはずの寄付金が、存在しない運送会社へ渡っている。
ある領地から運び出された酒樽が、港の記録へ残されていない。
同じ時期、その道沿いの町から人が消えている。
若い娘。
身寄りのない子ども。
仕事を求めて王都へ来た男。
誰もが、ある日突然、暮らしの中から姿を失っていた。
アランの指が、一つの名の上で止まる。
エルヴァン公爵。
紙へ記された、ただ一つの名だった。
それでも彼には、そこに父の領地も、失われた葡萄畑も、冬の中庭へ倒れていた父の姿も見えていた。
「……やっと、ここまで来たか」
声は雨音へ溶けるほど小さかった。
誰に聞かせるつもりもなかった。
だが、その短い言葉には、十五歳の冬から今日まで、彼が胸の奥へ抱え続けてきた年月が沈んでいた。
* **
ヴァルモント男爵領は、王都から南へ馬車で三日ほど下った場所にあった。
険しい山も、豊かな鉱山もない。
なだらかな丘と、細い川と、風に揺れる葡萄畑がどこまでも続く、穏やかな土地だった。
春には葡萄の若葉が丘を淡い緑に染め、夏になると葉の間に小さな実が膨らんでいく。
秋が近づけば、畑は紫色の房で満たされた。
収穫の朝には領民たちが籠を抱えて集まり、子どもたちは大人の目を盗んで甘い実を口へ入れた。
丘の上に建つ男爵家の屋敷からは、領地のほとんどを見渡すことができた。
アランは幼い頃、窓辺へ腰掛け、葡萄を積んだ荷馬車が坂道を下っていくのを眺めるのが好きだった。
父トマスが造るワインは、澄んだ色と軽い香りで知られていた。
貴族の晩餐会だけではなく、町の酒場や平民の婚礼にも並ぶ酒だった。
冬の祭りになれば、広場へ大きな樽が運び出され、領民たちは焚き火を囲みながら杯を交わした。
父は、その光景を少し離れた場所から眺めていた。
領主だからと中央へ座ることはない。
葡萄を育てた者も、樽を作った者も、酒を運んだ者も、同じ杯を持って笑っていることを何より喜んでいた。
利益は十分にあった。
それでも屋敷の暮らしは、貴族としてはあまりに質素だった。
家具は古くなっても修繕して使い、母の衣装も流行のものではない。食卓に並ぶ料理も、領民の家と大きく変わらなかった。
幼いアランには、それが不満だった。
王都から来る貴族の子どもたちは、美しい刺繍の上着を身につけ、立派な馬や高価な剣を自慢した。
自分の家には葡萄畑も醸造所もある。
それなのに、なぜ自分だけ古い外套を着なければならないのか。
ある夕暮れ、アランは父へ尋ねた。
「どうして、もっと立派な屋敷にしないのですか」
収穫を終えた畑には、甘い葡萄の香りが残っていた。
父は手にしていた剪定鋏を置き、遠くの丘を見た。
「この土地で実った葡萄は、私たちだけが育てたものではないからだ」
畑を耕す者。
枝を整える者。
樽を組む者。
荷車を引く者。
店先で酒を売る者。
一杯のワインが誰かの口へ届くまでには、多くの人間の手が必要になる。
「だから、実りも一つの家だけのものではない」
父はそう言って、幼いアランの頭へ手を置いた。
あの頃の彼には、その言葉の意味が分からなかった。
自分の家が豊かであることと、領民へ還元することは別ではないかと思っていた。
今なら分かる。
父は、領主という立場を特権ではなく、預かった責任だと考えていた。
そして、それを曲げなかったからこそ、狙われた。
エルヴァン公爵家から独占契約が持ち込まれたのは、アランが十四歳の秋だった。
その年の葡萄は出来がよく、醸造所には甘く深い香りが満ちていた。
契約が成立すれば、ヴァルモント家のワインはすべて公爵家を通じて販売される。
代わりに、これまでの何倍もの利益が保証される内容だった。
だが、町の酒場や平民の祭りへ、同じ価格で酒を届けることはできなくなる。
父は迷わず断った。
「貴族の口にだけ届く酒にするつもりはありません」
その言葉から半年も経たないうちに、王都から衛兵が来た。
朝霧の残る早い時間だった。
馬蹄の音が葡萄畑へ響き、屋敷を黒い制服の男たちが取り囲んだ。
父は人身売買の主犯として告発された。
ワイン樽を使い、領民や孤児を国外へ売り渡していたという。
身に覚えのない罪だった。
それでも父は縄を掛けられ、母の呼ぶ声を背に屋敷から連れ出された。
帰ってきたのは、何日も後だった。
頬は痩せ、歩くことも難しいほど弱っていた。
両手首には深い縄の跡があり、服の下には尋問の痕が残っていた。
母は父を抱きしめ、何があったのか何度も尋ねた。
父は答えなかった。
暖炉の前へ座り、消えかけた火を長い間見つめていた。
翌朝。
父は葡萄棚の下で、冷たくなって見つかった。
自ら命を絶ったとされた。
遺書はなかった。
前夜まで履いていた靴には、庭の土さえ付いていなかった。
だが、家の者が疑問を訴えても、衛兵は取り合わなかった。
母はその日から少しずつ壊れていった。
食事を取らず、夜になれば玄関へ灯を置いた。
父はまだ王都にいる。
いつか帰ってくる。
そう言いながら、窓辺で馬車の音を待ち続けた。
季節が一度巡る前に、母も息を引き取った。
裁判は父の死後も続けられた。
罪を否定する者のいない法廷で有罪が確定し、男爵位は剥奪された。
屋敷も、畑も、醸造所も、すべて没収された。
ほどなくして、それらはエルヴァン公爵家の所有となった。
十五歳の冬。
アランは、葡萄の香りが染みついた故郷を追われた。
雪の積もる坂道を下りながら、何度も振り返った。
屋敷の屋根。
葉を落とした葡萄畑。
父と歩いた丘。
どれも少しずつ遠ざかり、やがて白い景色の中へ消えていった。
その日から、彼に帰る場所はなくなった。
* **
親類は誰も、アランを引き取ろうとはしなかった。
人身売買人の息子。
その噂は、彼が送られた救護施設へも先に届いていた。
食事の席では隣を空けられ、夜になれば枕元へ汚物を置かれた。
父の罪を笑われるたびに殴り合いになり、その度に罰を受けた。
やがてアランは施設を抜け出した。
王都の冬は冷たかった。
大通りには祝祭の灯が並び、店先からは焼いた肉や菓子の匂いが漂っていたが、硬貨のない者に与えられるものは何もなかった。
最初に盗んだのは、パンだった。
次は財布。
それから、旅券や通行証の偽造へ手を染めた。
正しく生きれば報われる。
父が信じていたその言葉を、アランはもう信じられなかった。
数年後。
詐欺と窃盗の罪で捕らえられ、彼はマスレイン峡谷の労働収容所へ送られた。
峡谷の冬は、王都よりもさらに厳しかった。
切り立った岩壁の間へ陽はほとんど届かず、朝に汲んだ水が昼には凍った。
囚人たちは薄い衣服のまま岩を砕き、鉱石を積んだ荷車を引いた。
病に倒れた者が、翌朝には寝床から消えている。
誰も理由を尋ねない。
生き残るためには、自分以外の痛みへ目を向けないことが一番だった。
その中で、エリス・レイノルズだけは違っていた。
火灼の刑を受けた背中を隠すように、いつも古い布を身体へ巻いていた。
歩くたび痛むはずなのに、休息時間になれば峡谷の斜面へ入り、雪の下から薬草を探した。
乾かした葉で傷薬を作り、熱を出した囚人へ煎じ薬を与える。
看守の中にも、彼女の薬を頼る者がいた。
ある日の夕方。
雪解け水の流れる岩陰で、エリスは薬草を束ねていた。
アランは少し離れた場所から、その姿を眺めていた。
「お前が他人に薬を渡すのは、食べ物を分けてもらうためか」
エリスは顔を上げない。
「それとも、感謝されたいからか」
白い息が、二人の間へ淡く漂った。
しばらくして、彼女は指先の泥を布で拭った。
「どちらでもないわ」
「なら、なぜ助ける」
「生きるためよ」
あまりに迷いのない答えだった。
「他人を助けることが?」
「人は一人では生き残れない」
エリスは薬草を束ねながら、淡々と続けた。
「薬を渡せば、次にその人が水を分けてくれるかもしれない。看守を治せば、薬草を摘む時間を見逃してくれるかもしれない」
「結局、取引か」
「そうね」
彼女はようやく顔を上げた。
頬は痩せ、唇も乾いていた。
それでも、その瞳には収容所の闇に呑まれない強さが残っていた。
「私は必ずここを生きて出る」
風が峡谷を抜け、雪の粉を巻き上げた。
「そして、私を陥れた者たちを裁く」
静かな声だった。
怒りに任せて吐かれた言葉ではない。
明日の作業を決めるような、揺るぎのない声だった。
アランは父を思い出した。
罪を着せられ、未来を奪われた父。
何もできず、ただすべてを失った自分。
エリスもまた、家名を奪われ、家族を失い、死んだことにされようとしている。
だが、彼女は未来を見ていた。
自分が沈んだ泥の中に立ちながら、その先を見ようとしていた。
その日から、アランはエリスを気に掛けるようになった。
食料を手に入れれば半分を渡し、看守の巡回が変われば知らせた。
エリスは彼の古傷を治し、囚人たちの間で流れる噂を教えた。
二人の間に約束はなかった。
それでも、アランの胸には一つの思いが根づいていた。
この女だけは、ここで死なせてはならない。
* **
アランが刑期を終えた朝、峡谷には細かな雪が降っていた。
鉄門の外へ出され、粗末な荷物と僅かな硬貨だけを渡された。
迎えはない。
看守は二度と戻るなと言い、重い門を閉ざした。
鉄の音が峡谷へ響く。
自由になったはずだった。
それでもアランは、その場からしばらく動けなかった。
厚い壁の向こうには、まだエリスがいる。
雪は肩へ積もり、古い街道は白く霞んでいた。
「待っていろ」
誰にも届かない声で呟き、彼は王都へ向かった。
必要なのは、まず金だった。
次に身分。
そして、手を貸してくれる人間。
アランは王都の外れで、使われなくなった小さな倉庫を借りた。
天井からは雨が漏れ、冬には隙間風が吹き込むような場所だった。
古物や香草を仕入れて売り、港から荷を運び、時には表へ出せない品の仲介も引き受けた。
商会と呼べるほどのものではなかった。
看板もなく、机の上にある帳簿も一冊だけだった。
それでも彼は、得た金を少しずつ蓄えた。
港で荷役人として働いていたダニエル・クロフトと出会ったのは、その頃だった。
日に焼けた無口な男で、荷の流れと倉庫街の裏道をよく知っていた。
頼まれた仕事は最後までやり通し、借りた金は必ず返す。
アランは彼を仲間へ誘った。
後に、偽造文書や帳簿の改ざんを得意とするエミール・ハインツも加わった。
二人へすべてを話したわけではない。
ただ、収容所へ残してきた女を救い出したいと伝えた。
ダニエルもエミールも、理由を深く尋ねなかった。
囚人記録。
死亡者名簿。
恩赦対象者の一覧。
金を払い、役人を脅し、時には記録を書き換えながら、三人はエリスを外へ出す方法を探した。
そして、ロゼという一人の女囚へ辿り着いた。
身寄りはなく、釈放の日も近かったが、重い病に侵されていた。
ロゼは自由を得る前に亡くなった。
だが、その死はまだ正式な記録へ反映されていなかった。
アランは彼女の戸籍と釈放記録を買い取った。
死んだロゼの名で、エリスを外へ出す。
一方、収容所で亡くなったロゼを、エリス・レイノルズの死として処理する。
一つでも記録が食い違えば、関わった者すべてが処刑される。
それでも、アランは迷わなかった。
* **
一年後。
エリス・レイノルズは、収容所の記録の中で死んだ。
そして、ロゼという女が雪の降る門を出た。
再会した時、エリスの髪は短く切られ、色も変えられていた。
頬には傷を隠すための処置が施され、立ち方や声の調子さえ以前と違っていた。
けれど、その瞳だけは変わらなかった。
「遅かったわね」
彼女はそう言った。
アランは、思わず笑った。
「一年で出したんだ。少しは感謝しろ」
その日。
名もない小さな商会の扉へ、初めて看板が掛けられた。死んだ女が、新しい名で再び咲くための花ー黒い薔薇。
黒薔薇商会が生まれた。
お読みいただきありがとうございます。
よろしければ、下の☆☆☆☆☆から評価を入れていただけると大変励みになります。




