石の上に咲く薔薇ー後編
短編を再編して投稿しております。
ギルバートの死後、屋敷の空気は変わった。
レオナルドは正式に爵位を継ぐと、父が残した財を自分のものとして使い始めた。
新しい馬車。
賭場での借金。
酒場の女へ贈る宝石。
宴のための高価な酒。
屋敷から金は流れ出ていったが、領地へ戻されるものは何もなかった。
クラリスへ渡される生活費も止まった。
領民のために薬を買いたいと頼めば、レオナルドは笑った。
「俺の金を勝手に使うな」
「ですが、病が広がれば、春の出産に影響が出ます」
「羊が何頭死のうと、また買えばいい」
彼にとって羊は、命ではなく数字だった。
領民も同じだった。
働けなくなれば捨て、新しい者を雇えばいい。
クラリスは自分の衣服を売り、薬代へ充てた。
それでも足りなくなれば、修道院から古い薬草を分けてもらった。
屋敷の使用人たちも、態度を変えていった。
ギルバートが生きていた頃は、表面上だけでも夫人として扱っていた者たちが、今では聞こえるように陰口を叩く。
食事は冷めた後に運ばれる。
破れた衣服を渡しても、誰も繕おうとしない。
呼び鈴を鳴らしても、長い時間放置されることさえあった。
「どうせ旦那様には相手にされていないのだから」
「奥様と呼ぶ必要もないでしょう」
声は扉の向こうから聞こえていた。
クラリスは何も言わなかった。
言い返せば、自分のために領民へ回すべき時間を失う。
だから、朝になれば屋敷を出た。
牧場を歩き、病気の羊を診て、子どもたちへ薬を配った。
誰にも見られなくても。
誰からも感謝されなくても。
義父が守ろうとした土地を、自分まで見捨てることはできなかった。
そんなある日。
一人の女が屋敷へ現れた。
名はメルセデス。
華やかな赤い髪と、目を引く笑い方をする女だった。
酒場ではよく知られた存在だった。
男の懐から金を抜き、女同士を争わせ、騒ぎの後で一人だけ得をする。
彼女の通った後には、必ず借金か喧嘩が残ると言われていた。
そのメルセデスが、レオナルドの腕へ身体を預けていた。
腹は僅かに膨らみ、彼女はそれを隠そうともしなかった。
「跡取りができた」
レオナルドは上機嫌で言った。
「お前は子どもも産めない」
クラリスは黙って彼を見た。
夫婦としてまともに床を共にしたことなど、ほとんどない。
それでもレオナルドは、彼女へ責任を押し付けた。
「石女に、もう用はない」
冷たい言葉だった。
その日のうちに、クラリスの荷物は屋敷の外へ出された。
持ち出せたものは、古い外套と、義父から譲られた小さな薬箱だけだった。
使用人たちは誰も止めなかった。
むしろ、門の外へ立つ彼女を興味深そうに眺めていた。
空は低く曇っていた。
冬を迎える前の風が、枯れた牧草を揺らしている。
クラリスは一度だけ屋敷を振り返った。
義父と歩いた庭。
領地の帳簿を見た書斎。
彼が最後に眠った部屋。
すべてが窓の向こうへ残されている。
それでも涙は流さなかった。
誇りだけが、最後まで彼女を支えていた。
クラリスは背を向けた。
行く場所はなかった。
実家へ戻れば、家同士の争いになる。
何より、父へ自分の失敗を背負わせたくなかった。
何日も歩いた末、彼女は王都郊外の修道院へ辿り着いた。
門前で倒れた時、手にしていたのは、空になった薬箱だけだった。
* **
黒薔薇商会が動き始めたのは、その頃だった。
エリスは商人を装った調査員をエルメリア領へ送り込んだ。
羊毛の買い付け。
牧場の視察。
薬草の取引。
表向きは、どれもありふれた商談だった。
だが、その裏で少しずつ証拠が集められていく。
レオナルドが領地の羊毛を安値で買い叩き、差額を賭場の借金へ充てていたこと。
メルセデスの妊娠時期と、屋敷へ入った時期が合わないこと。
使用人たちが、クラリスへ渡されるはずだった生活費を抜き取っていたこと。
領内へ配る薬が横流しされていたこと。
そして。
羊毛の荷に紛れ、違法薬物が運ばれていたこと。
黒薔薇商会の屋敷では、夜ごと帳簿が開かれた。
雨の日も。
風の強い日も。
遠くで王都の鐘が鳴る頃まで、エリスとアランは数字を照らし合わせた。
ある夜。
窓の外では、雲の切れ間から月が見えていた。
アランは一冊の帳簿へ指を置いた。
「……やっぱり、繋がっていた」
そこには、エルメリア子爵家の羊毛取引が記されている。
その隣に並ぶのは、リリアナ・レイノルズとラウル・グランベールの名だった。
「アーリスの根の流通経路だ」
表向きは羊毛の運搬。
だが、同じ荷車が、リリアナとラウルの使っていた倉庫へ立ち寄っている。
積み荷の重量も合わない。
羊毛だけでは説明できない差が残っていた。
エリスは帳簿を見つめた。
「クラリスは民のために薬を求めた」
「でも、レオナルドは同じ道を、別の目的に使った」
羊毛なら検問を通りやすい。
大きな包みの中へ乾燥薬草を隠しても、遠目には分からない。
「彼はリリアナたちのやり方を真似たのよ」
声は静かだった。
それでも、指先には僅かな力が入っていた。
「人を助けるための薬が必要な領地で、毒を運んでいた」
「卑劣ね」
アランは長い間、帳簿を見ていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「ヴァルモント家は、人身売買にも違法薬物にも関わっていない」
父の名誉が回復されたない中でも、彼は時折その言葉を確かめるように口にする。
「父さんは、そういうことには絶対に手を出さなかった」
「分かっているわ」
エリスはすぐに答えた。
その声には、疑いのない信頼があった。
「だから、あなたはここにいるのでしょう」
アランは僅かに目を伏せた。
過去に受けた傷は、証拠一つで完全に消えるものではない。
それでも、誰かが信じてくれることで、少しずつ形を変えていく。
机の上には、すでに十分な証拠が揃っていた。
帳簿。
取引記録。
使用人たちの証言。
違法薬物を隠した荷の記録。
メルセデスの過去。
レオナルドの借金。
すべてをまとめた報告書は、匿名で王政監査会へ送られた。
黒薔薇の名は、どこにも記されていなかった。
* **
裁きは、冬の初めに下された。
朝、王都へ初雪が降った。
屋根や石像へ薄く積もった雪は、昼前にはほとんど溶けていたが、冷たい空気だけが街へ残っていた。
エリスは執務室で新聞を開いた。
一面には、大きな見出しが載っている。
エルメリア子爵家の羊毛から違法薬物を発見。
領地資金の横領。
救済金の私的流用。
複数の不正取引。
エリスは最後まで読み終え、静かに新聞を畳んだ。
それは長く張り巡らされた糸が、一つの場所へ収束した瞬間だった。
やがて王命が下された。
エルメリア子爵家は爵位を剥奪され、領地は王領として管理されることになった。
レオナルド・エルメリアには、違法薬物の流通、横領、職権濫用の罪が認められた。
刑は、鉱山での終身労働。
かつてクラリスを石女と嘲った男は、今度は自ら石を砕き続ける側へ回った。
冷たい坑道。
泥に濡れた衣服。
少ない食事。
誰も彼を子爵とは呼ばない。
そこにいるのは、番号で管理される一人の囚人だけだった。
メルセデスの妊娠も、レオナルドの子ではないことが明らかになった。
爵位も財産も失った男から、彼女はすぐに離れた。
だが、酒場へ戻ろうとしても、以前の仲間たちは受け入れなかった。
多くの女を陥れ、男から金を騙し取ってきた過去が公になっていたからだ。
彼女は乳飲み子を抱え、安宿を転々とした。
市場の裏で助けを求めても、足を止める者は少なかった。
それは黒薔薇商会が命じた罰ではない。
彼女がこれまで踏みにじってきた信頼が、何一つ残っていなかっただけだった。
使用人たちも、すべてが同じ末路を辿ったわけではない。
クラリスへ直接手を上げた者。
生活費を盗んだ者。
領民へ渡す薬を横流しした者。
証拠を隠した者。
それぞれの行いに応じ、処罰や返還命令が下された。
ただ陰口を叩いただけの者まで、すべてを破滅させる必要はない。
エリスが求めたのは、苦しみの再生産ではなかった。
罪を犯した者が、その責任を引き受けること。
そして、二度と同じ立場を利用して誰かを踏みにじれないようにすることだった。
職を失った者もいた。
罰金を科された者もいた。
領地を離れ、新しい場所で一から働き直した者もいる。
その中には、後に修道院を訪れ、クラリスへ謝罪の手紙を置いていった者もいた。
クラリスは返事を出さなかった。
許したのか。
許していないのか。
誰にも語らなかった。
彼女は最後まで、沈黙を選んだ。
だが、その沈黙は弱さではなかった。
声を上げなければ価値がないわけではない。
自分を傷つけた者と同じ言葉で争わず、ただ誠実に生き続けた。
その姿そのものが、誰より雄弁だった。
* **
冬が終わりに近づいた頃。
修道院の庭には、まだ薄い雪が残っていた。
裸になった果樹の枝には小さな芽が膨らみ、冷たい風の中にも、僅かに春の匂いが混じり始めている。
クラリスは薬草小屋で、乾燥させた葉を選り分けていた。
修道院へ来てから、彼女は病人の世話を手伝うようになっていた。
初めは自分の食事を得るためだった。
だが、やがて村の者たちも彼女を頼るようになった。
羊の病気。
子どもの熱。
冬の咳。
クラリスは、かつて領地でしていたことを、名前も身分もない場所で続けていた。
その日の午後。
一台の荷馬車が修道院の門へ止まった。
黒薔薇の紋章はない。
ただ、薬草の入った木箱と、一通の手紙が届けられた。
封を切ると、柔らかな香りが立った。
中には、整った筆跡で短い文章が記されている。
『あなたの手腕を、もう一度、民の未来のためにお貸しください。新たな土地で、あなたを必要としている人々がいます。どうか、再び歩み出してください。――黒薔薇商会』
クラリスは、長い間その手紙を見つめていた。
窓の外では、修道女たちが雪解け水を避けながら庭を歩いている。
遠くの丘には、羊の群れが見えた。
白い背が、早春の草地をゆっくりと移動していく。
懐かしい景色だった。
故郷でも。
エルメリアでも。
彼女の人生にはいつも羊がいた。
失ったものは多い。
家。
名。
義父。
信じていた未来。
それでも、自分の中に残っているものまで奪われたわけではなかった。
クラリスは手紙を丁寧に畳んだ。
薬草小屋の戸を開けると、冷たい風が頬へ触れた。
春にはまだ少し早い。
けれど、雪の下では確かに草が芽吹き始めている。
過去を忘れることはできない。
傷が消えることもない。
それでも、人はその先へ歩くことができる。
クラリスは薬箱を手に取り、修道院長のもとへ向かった。
ー黒薔薇商会。
そこは、過去へ裁きを下すためだけの場所ではない。
奪われた者へ、もう一度未来を選ぶ権利を返すために存在する場所だった。
その春。
クラリス・エルメリアは初めて修道院の敷地から出た。
向かった先は、疫病で多くの家畜を失った北の小さな領地だった。
馬車の窓から見える丘には、雪解け水が細い筋となって流れている。
風はまだ冷たかった。
それでも遠くの牧草地には、今年最初の緑が見え始めていた。
クラリスはその景色を眺めながら、胸の奥へ静かに息を吸った。
誰にも必要とされないと思っていた。
何も残っていないと思っていた。
だが、まだできることがある。
まだ守れる命がある。
馬車は北へ進んでいく。
長い冬を越えた土地へ。
新しい羊の群れと。
彼女を待つ人々のもとへ。
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