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ゾウガメ

 至福の時は永遠に続くかと思われたが、実際には一瞬で終わり、柔らかな感触の後には歯がぶつかり合う硬さと痛みが襲う。


「ぐへっ!」

「あうっ!」

「いたっ!」


 三人の短い悲鳴が食卓の上で重なる。

 まず最初にアイシャが頬を上気させ、すぐさま離れていく。ジジはしばらくの間、目をしばたかせながら沈黙していたが、ゆっくりと席に戻った。


 そして、二人は感触を思い出す様に、唇に指先を重ねた。


 アイシャは呆然として赤くなっている様子だが、ジジは何かを思い出したのかすぐさまこちらへ詰め寄って来る。


「忘れておったわ! 儂の魚を盗ったのはこの口か! この口なのじゃな!?」


 そう言って、右手を広げて俺の頬を両側から挟み込む。


「むおおお!? うごご、や、やめ――!」


 口の中にはまだ魚が丸々のこっていて、加わる指からの力で踊り暴れ狂う。

 うおおお!? やめろぉぉぉ! 吐き出しそうになるって!

 一向に口を開かない俺を見て、ジジは不気味な笑みを浮かべた。


「くふふっ。良いぞ。そのつもりならば、直接うばい返すまでよ!」


 言うや否や、ジジの美しい顔が急激に拡大され、襲い来る。

 あまりの気迫に口の端から尻尾が飛び出してしまい、それを見たジジが狂喜する。


「隙ありじゃあ! そこから一気に引きずり出してくれよう!」


 ちょ!? 俺の唾液まみれの魚をくわえて引き抜くつもりか!? そんなのキス所の騒ぎじゃ――!

 だが、その一連の動作は突然さし出された手に遮られた。


「くほぉ!?」


 手の甲に鼻をしたたかにぶつけたジジが呻き、驚いて隣をみやると呆けていたはずのアイシャが、笑顔を浮かべながら右手を伸ばしていた。頬はかすかに赤いが、その瞳には力が感じられる。


「ふふふふっ! 私もカイトとキスしちゃった! ……これでジジちゃんと対等だねっ!」


 溌剌と投げ掛けられる言葉に思わずずっこけそうになる。喜んでたのそこなの!?

 鼻をさすりながらジジが不満そうに呻き、アイシャを横目で見る。


「何を申すかと思えば、儂は口と口。そなたは頬にしただけじゃろうて! 何処が対等なのじゃ!」


 また喧嘩になるかと思ったが、アイシャは涼しい顔でその言葉を受け流す。


「ふふぅん。そんな比較になんて意味はないよ! それに、さっきのは唇の端がカイトの唇に触れてたもん! 実質、口と口だもん!」


 右手を握りしめ、胸の前にかざして力強くポーズを取る彼女の言葉に迷いはなく、本当に口どうしでキスをしてしまった気になって来る。

 は、ははは。そう力強く宣言されると羞恥心も引っ込むな。


「むぐぅ。珍奇な小娘めぇ。詭弁を弄しよって!」


 ジジは、アイシャが自分の言葉に何も感じていない様子なのが腹立たしいのか、忌々し気に呟く。いつもなら「口でしたからって格上とかじゃないもん!」からの「何じゃと!」って感じで喧嘩になるパターンだけど、今回は見事にスルーされたな。


 いまだに勝ち誇った様子のアイシャをねめつけるジジの前に手を伸ばし、ひらひらと振って見せる。


「まあ、まあ。もう食事も終わったことだし、そろそろ寝室に移動しようぜ? まだやりたい事もあるしな」


 不満そうなジジに対して、笑顔のアイシャがてきぱきと食器の片づけに入る。


「そうだねっ! カイトはハメスさんの本が読みたいんでしょ? 椅子を向こうに戻したら私の机を使ってていいよ! その間に急いでこっちを片づけちゃうから!」


 早々と片づけを始めるアイシャと打って変わってジジの方は、こちらに向き直り恨めしそうな視線を放つ。


「儂の魚ぁ……」


 ふごぉ!? まだ、根に持ってたのか!?


「も、もうないぞ! ほら! 飲みこんじまったからな!」


 悔しそうに震えるジジは先に寝室へ引っ込んでしまったので、彼女用の椅子を持ち上げて、後を追う。すると、ベッドの端に座りうなだれる姿が目に入った。その隣に椅子を降ろし、声をかける。


「お、おい。そんなに落ち込むなよ……? 魚一匹だろ? また食べる機会はいくらでもあるって!」


 その時、俯いたままのジジの口から思わぬ言葉が漏れた。


「亀じゃ」


 は?


「儂は亀が食べたいぞ!」


 そう言って、素早くこちらの太腿へ右手を伸ばす! はあ!? 亀って何処の亀だよぉぉぉ!?


「亀じゃ、亀じゃ! それを食して今宵の仇を討つのじゃあ!」


 や、やめろおぉぉぉ!?

 伸ばされた手を払おうとするが、凄まじい力で掴まれ、指が腿の肉に食い込む。


「いててて!」


 目を血走らせたジジは、さらに左手も加えてしっかりと俺を捕らえた。


「くふふっ! 儂の魚の罪はこの亀によって償ってもらうぞ! 観念して供するのじゃ!」


 だから何処の亀だよ!? そこは象さんだろぉぉぉ!?


 騒ぎを聞きつけたアイシャが素早く部屋の入り口に立ち、声を張り上げる。


「何してるのぉ! ジジちゃん――!」


 狂気を目に宿したジジが振り向く暇も与えず、床板が跳ねあがる様な音が響き。アイシャの身体が宙を舞った!


 そして――!


「きゃふん!」


 華麗な飛び蹴りがジジの後頭部にクリーンヒットし、彼女は奇妙な悲鳴をあげ、音もなく床に倒れた。その少し後に、アイシャが体重を感じさせない着地を決める。


「えええ!? 大丈夫なのか!? ジジッ!」


 今回ばかりは本気で心配してしまった、先ほどの跳躍力を見るにアイシャはハンターモードないしはそれに近い状態だったはずだ。そのパワーで後頭部を蹴られたダメージは常人なら即死級だろう。


 アイシャは勝ち誇った笑みを浮かべ、ジジを見下ろす。


「ふふぅん。今の私は、ジジちゃんと対等なんだからっ! 甘く見ないでねっ!」


 こ、こえぇぇぇ!? そこで、それ言う!? お、女の戦い恐るべし、俺は男で良かったと本気で安堵するよ。


 床に倒れたジジは一向に動く気配も見せないが、こいつがこんな事でどうにかなるとは思えない、いや、思いたくない。もしなっていたなら俺たちは精霊殺しの罪を背負い、これからの人生を贖罪に費やす事となるだろう。


「はいはい、お片付けの続きぃ」


 手をぱんぱんと払ったアイシャは、今にも踊り出しそうな軽やかなステップで台所へと戻って行った。ぽつんと取り残された俺は一人で念仏を唱える。


「うぐ、すまねぇ、仏さま。信心もないのに縋る俺を許してくれぇ」


 しばらく念仏を唱えていたが、落ち着いて来たので椅子に腰かけ、デルライラムから受け取った解剖学書に向き合う。

 ぱらぱらとページをめくってはみるが、やはりエルフ語か何かで書かれているらしく内容は挿絵から想像するばかりだ。精密な挿絵はそれだけで芸術として成立するのではないかと思えるほどだった。


「つっても、字は読めないんだよなぁ」


 その呟きに言葉が、そして机に人影が重なった。


「あれ? カイト。文字が読めないの? デム爺とはエルフ語で話してたよね? 若いのに博学ですごいなぁって思ってたんだけど」


「うへ!?」


 驚いて素っ頓狂な声を上げて振り向く。心臓に悪いからもっと足音とか響かせて登場して欲しいな。


「へ、へへ。ま、まあ。それは、なんていうか、二ホンエルフ語と言うか、いや、ははは――」


 アイシャは不思議そうに唇に指先を添える。


「ニホ――語? って何か前にも言ってたよね? カイトの故郷の言葉なの?」


 し、しまった! 思わず口が滑って、適当にはぐらかそう。彼女の弱点を利用して――!


「い、いやあ俺は何も言ってないよ? 言ってないけど、時々、聞こえるんだ……」


 怯えた表情をイメージして少し俯く。不穏な気配を感じ取ったらしいアイシャが息を呑むのが聞こえた。


「あ、頭の中に奴らの声が――! うぐっ! い、今も聞こえた! はっきりと! 二ホンって謎の言葉が反響するみたいに!」


 アイシャは両目を強く閉じ、耳を塞いで、俯いた。


「も、もうやめて! そんな話ききたくないもん!」


 ふ、ふぅ。何とか事なきを得た様だな。くくく。弱点って便利だなぁ。

 怪談の雰囲気を維持するのも無意味なので、すぐに話題を切り替える。


「あ、あのさ。俺が文字の方は読めないのは事実なんだ……。だから、その、一緒に読んでくれないかな?」


 懇願に対してアイシャは一転して目を丸くし、しばらく思案した後ゆっくりと頷いた。


「何だかホントに不思議なんだけど……。うん、まあ、話せても字は読めない、書けないって人もいるからねぇ。ううん。一緒に読んであげてもいいけど、ここは……」


 アイシャは本棚を物色し、何かを探し始めたが、すぐに目当てのモノが見つかったらしく、それを掲げてこちらに突き出して見せた。

 文字が少ない表紙に大きく描かれた鮮やかな絵が目を引く。素人目ではあるが、趣の異なる二種類の文字が使われている気がした。


「これは……?」


 アイシャは本を開いてこちらへ向けて、説明を始めた。


「これはねぇ。ちっさい子がエルフ語とゼスパール共通語を同時に学べちゃう教材なの!」


 一息を置いて言葉は続く。


「その名も創世神話だよ!」


 へえ、子供向けの神話かぁ。結構おもしろそうな本だな。


「これから何処に行くにも、共通語くらいは読み書き出来た方が便利だからねぇ。ハメスさんの本は専門書だから私が一緒に読んであげてもいいけど、一から読み書きもやってみよっ!」


 何か生活のハードルが一気に上がってしまった気がするが、確かに彼女の言う通りなんだろう。さっそく最初のページをめくる様に急かしてみる。


「ちょっと待ってね。一番さいしょはぁ、……ここだよっ! 神話に入る前に基本的な言葉の発音と文字の対応表だね!」


 アイシャは表をこちらに見せながら、ひとつずつ発音していき、その文字を指で示す。


「これはねぇ。ァパだよっ! ほら字を見ながら声に出してみて! 発音は知ってるでしょ?」


 う、実は言葉も直接、理解して話してる訳じゃないとは言えないな。


「あ、あぱ?」


 奇怪な象形文字か、パズルのピースの様な複雑な図像を見ながらおずおずと発音する。


「ち、がうよ! ァパ! アの部分は喉の奥で鳴らすみたいにちっさく、パは唇で空気を破裂させるみたいにするの! こうだよ! ァパ!」


 うへぇ、ダメだ。日本語の一字一字を明瞭に発音するやり方に慣れ過ぎてて、出来ねぇ! そんな様子を見てアイシャは首を傾げる。


「おかしいなぁ。いつも普通に喋れてるのに基本的な発音は出来ないの……? ううん? まあ、いいや。次ね、これはスゥだよっ!」


 すぅ? これは簡単じゃないか?


「す、すぅ!」


 文字を示す指に力が入る。


「もう! スは息をふっと吐き出す様に優しく。ゥの部分はそれを少しだけ延長する感じで唇を尖らせるの! はい、やってみて!」


 うぐぐぐ、彼女は物を教える時は、意外とスパルタなのかもしれない。いきなりやれっても無理だって。


「す、ゥ」


 アイシャの瞳が少し明るくなる。


「うんうん。今のゥの発音はちょっと良かったよ! じゃあ次は――」


 次々と課題を提示しようとする彼女に待ったをかける。


「あ、あのさ。……文字の勉強はおいおいやるとして、今はこっちの本を読みたいなぁ、なんて……?」


 ちらちらと窺う様に視線を送りながら、神話と解剖学書を見比べる。


「んもう、仕方ないなぁ。まあデム爺がくれたって事は、魔法の修行に大事な本なんだろうし、手伝ってあげるよ」


 アイシャは解剖学書を手に取り、パラパラとめくってみた後にそれを机に置き、こちらを見た。


「それで、カイトはどのページの内容が知りたいの?」


 問われて考える。今日あった出来事を思い出しながら、色々と考えを巡らしてみる。


「……そうだなぁ。骨盤、腰の骨から足の爪先までのとこを見てみたいかも」


 頭の中には、あのドワーフ霊の発言と、デルライラムから提示された最新の課題がちらついていた。


「うぅん。ちょっと待ってね。骨盤、こつばん……っと。ここだ」


 「はい!」と元気よく開かれたページに目を向ける。


「へぇ、骨盤の骨の形が色んな角度で描かれてるんだな。……それにしても緻密な描写だな」


 挿絵に見入っていると隣からアイシャの声がかかる。


「カイト。絵に感心するのもいいけど、何が知りたいのかはっきりさせて見ないとダメだよ? じゃないと身につかないんだから」


 確かにそうだな。知りたいこと、それは……。とりあえずは足かな? そのあたりの関係性が分かると幾つかの課題の解決に進展がありそうだ。骨盤からの上下の繋がりも知っておいた方が良さそうだが、いきなり全部は覚えられないだろうな。


「なあ、爪先まで全部つながった絵とかないかな? 後は、骨盤につながってる筋肉の動きが分かるとこがあるといいんだけど……」


 アイシャはすぐに本の検索に入ってくれた。ほとんど一任している自分が少し情けないが、この本を読みこんで行くことが、今できる最善の努力なのだと、師の言葉を振り返り、密かに拳を握りしめた――。

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