第8話 沈黙の音
その日の任務地は、静寂に包まれていた。
旧国立図書館。かつて知の殿堂だった場所は、今は天井が崩落し、湿ったカビと古紙の匂いが充満する迷宮となっていた。
(……静かすぎる)
灰賀乃亜は、息を潜めて書架の陰に隠れていた。
いつもならインカムから標の指示が飛んでくるはずだ。だが、今日は違う。
完全な無線封鎖。
事前のブリーフィングで厳命されたルールは一つだけ。「一言も発するな」。
乃亜の視線の先には、今日の合同任務のパートナーであるH班――**無言寺流**の隊員たちがいた。
彼らの姿は異様だった。
黒に近い濃紺の袴。そして口元には、呼吸音すら殺すための厚手のマスク(口覆い)が装着されている。
彼らは動かない。石像のように気配を消し、闇に溶け込んでいる。
コツ、コツ……。
回廊の奥から、硬質な足音が近づいてくる。スマイルだ。
今回の個体は「聴覚強化型」と予測されている。頭部の側面に、耳のような突起が異常発達したタイプだ。
(来る……!)
乃亜は緊張で喉が鳴りそうになるのを、必死で抑え込んだ。
心臓の音さえ聞かれそうだ。
スマイルが広間に入ってきた。
能面のような顔が、レーダーのように左右に振られる。
奴は探している。「音」を。「生体反応」を。そして何より、敵意を持った「声」を。
その時、H班の軍師・**語部 叶**から、乃亜のゴーグルにテキストデータだけが送信された。
『C-3、心拍数上昇。落ち着け。思考の声すら拾われるぞ』
(思考まで……!?)
文字だけの指示。それが余計に恐怖を煽る。
スマイルが、乃亜の隠れている書架に近づいてきた。
バレているのか?
乃亜の手が「廻」の柄にかかる。
だが、抜けない。
C班の標準装備であるこの武器は、抜刀時に「銃声」が鳴る。この静寂の中で引き金を引けば、それは「私を殺してくれ」と叫ぶに等しい自殺行為だ。
丸腰のまま、震える指を抑え込むしかない。
その刹那。
反対側の書架から、H班の一人が「本」を落とした。
バサッ。
静寂を破る音。
スマイルが猛烈な勢いでそちらへ振り向く。
同時だった。
H班の隊長・**無言寺 刀真**が、音もなく虚空から現れた。
彼はスマイルの死角――真後ろに立っていた。
抜刀音がない。
彼の「廻」は、シリンダーの回転音や火薬の炸裂音を特殊な機構で「消音」化した特注品だ。
刀真が、無言のまま左手を挙げた。
ハンドサイン。『包囲完了』。
いつの間にか、他の隊員たちも音もなく展開を終えていた。
逃げ場はない。
だが、誰も叫ばない。威嚇もしない。
ただ冷たい殺気だけが、図書館の空気を凍らせていく。
スマイルが震え出した。
どこだ? 敵はどこにいる?
目には見えている。だが「音」がない。
生物特有の「息遣い」や「叫び」がない。
まるで、幽霊に囲まれているような根源的な恐怖。
ギギギ……。
無音の圧力に耐えかね、スマイルの能面が引きつった。
虚ろな目が細められ、口が裂ける。
ニチャァ……。
満面の笑顔。核の固定。
通常なら、ここで隊長が高らかに宣言するはずだ。「一刀両断!」と。
だが、刀真は口を開かない。
代わりに、軍師・語部が手元の端末を操作した。
瞬時に、乃亜の装着している戦術ゴーグルへ、無機質なテキストデータが割り込んだ。
『ターゲット確認』
『儀式移行:一刀両断』
『これより手出し無用』
(文字で……宣言した!?)
乃亜は目を見開いた。
声ではない。
軍師が送信したテキスト信号が、部隊全員の共有画面をジャックし、儀式モードへの移行を告げたのだ。
完全なる沈黙の連携。
スマイルは混乱していた。
「声」がない。なのに、空気が変わった。
スマイルが判断に迷うコンマ数秒。
刀真の姿がブレた。
無言寺流奥義「無響」。
足音も、衣擦れの音も、そして斬撃の風切り音さえもしない。
世界から「音」が切り取られたような一撃。
気づいた時には、スマイルの首と核が、同時に宙を舞っていた。
――……。
倒れる音だけが、やけに大きく響いた。
笑顔の生首が転がる。
刀真は静かに刀を納め、マスク越しに深く息を吐いた。
排莢の音さえ、手で包んで消す徹底ぶりだ。
任務完了。
H班の隊員たちは、互いに目配せするだけで撤収を開始する。
「……あの」
乃亜が思わず声を出すと、全員が一斉に乃亜を睨んだ。
刀真が近づいてくる。
怒られる、と思った。
だが、彼は乃亜の肩に手を置き、スマホの画面を見せた。
『喋るな。声は「位置」だ』
そこには、メモアプリで打たれた文字があった。
『奴らは耳がいいだけじゃない。声に乗る「感情の波長」を読んでいる。
「怖い」「殺す」「勝ちたい」。そういう心の声が、奴らに攻撃のタイミングを教えてしまう』
乃亜はハッとした。
達人の間合い。先読み。
それは超能力ではなく、こちらの「叫び」や「息遣い」から情報を得ていたのか。
『黙って殺せ。
沈黙こそが、奴らの予測演算を狂わせる最強の盾だ』
刀真はそれだけ伝えると、闇の中へ消えていった。
残された乃亜は、自分の胸に手を当てた。
ドキドキと五月蝿い心臓の音。
これまで、自分はいかに大声で「隙」を晒していたのか。
「……沈黙、か」
乃亜は口を閉ざした。
言葉を飲み込む。恐怖を飲み込む。
静寂の中でこそ、研ぎ澄まされる感覚があることを、H班は教えてくれた。
この図書館の静けさは、平和なものではない。
いつ破られるか分からない、死と隣り合わせの静寂だ。
乃亜はその重さを噛み締めながら、音もなく歩き出した。
(第8話 完)
次回予告:第9話『反逆のバグ』
静寂の次は、騒音と混沌がやってくる。
I班【逆廻流】。
彼らは軍規違反の常習犯であり、戦い方も定石を無視した「喧嘩殺法」。
隊長・逆廻迅は、儀式の最中にあえてスマイルを挑発し、暴走寸前まで追い込む。
「儀式? 知るかよ。バグらせてぶっ壊すのが俺たちの流儀だ」
ルール無用の異端児たちが、戦場を掻き回す。
だがその無秩序の中に、乃亜はスマイルの「ある弱点」を見出す。
次回、一刀両断 第9話『反逆のバグ』
「怒らせれば……動きが単調になる?」




