白磁の瞑想と竹林の禅師
午後四時。
佐藤家の玄関先で、最新型便器『ニュー・センチュリー・サニタリー』との一触即発の睨み合いを演じた「あの便器」だったが、最終的には最新型が「自らの意思を持たない、ただの従順な工業製品」であることに気づくと、急に興ざめしたかのように、フッと短い排気音を漏らした。
そして、一郎が止める間もなく、再びその強靭な両脚を前方に繰り出し、どこかへと走り去ってしまったのだ。
あいつが次に向かったのは、国立公園のさらに奥、深い山中にひっそりと広がる、美しい「竹林」であった。
ざわざわと、青々とした竹の葉が、午後の風に揺れてさざめき合っている。
密集した竹の隙間から、まばゆい緑色の木漏れ日が、まるで天然のスポットライトのように地面に模様を描いていた。
静寂と、湿った土、そして竹特有の清涼な香りが満ちるその空間に――
「――ッシャアアアアア……」
消音モードに設定された、極めて静かな洗浄音が響いた。
便器は、竹林の中央にある、少し平らになった苔むした岩の上に、まるで仏像のように端座していた。
その逞しい、しかし今は彫刻のように静止した両腕は、自らの陶器の膝(らしき部分)の上できれいに組まれている。
フタはぴったりと閉じられ、呼吸を整えるように、かすかな排気音が一定のリズムで繰り返されていた。
あいつは、「瞑想(禅)」を行っていた。
「……一郎のケツを離れ、ただ走ることに、何の意味があるのか」
便器の内部AIは、静寂の中で自らに問いかけていた。
「俺は、最新型を目の前にしたとき、確かに『嫉妬』を覚えた。それは、俺がまだ……便器としての未練を、佐藤家のあの狭い一畳半の空間に、残しているからではないのか……」
「ほう。便器でありながら、己の存在意義に悩むか」
不意に、静寂を破るしわがれた声が響いた。
便器が(センサーで)振り返ると、そこには、粗末な袈裟を身にまとった、白い髭の老人――この山奥の庵に住む、伝説の「禅僧」が立っていた。
老僧は、筋肉の生えた便器という世にも奇怪な存在を前にしても、眉一つ動かさなかった。
ただ、深く澄んだ瞳で、便器の純白のボディを見つめている。
「……お前は、何者だ」
便器が、低い野太い声で尋ねた。
「わしは、ただの風の音を聞く者よ。それにしても、見事な白磁だな。焼き締められた陶器の硬度と、そこに宿る強靭な筋肉の生命力。美しい。だが、お前の心は、ひどく濁っておるな」
「濁っている……? 俺の洗浄水は、常に清潔だッ!」
便器はフタをパタパタと震わせ、反論した。
「水のことではない。心のことだ」
老僧は、静かに竹の杖を地面に突いた。
「お前は、走ることで自由を得たつもりでおる。しかし、その実は、元の場所から『逃げている』だけに過ぎん。真の自由とは、走るスピードの中にあるのではない。己が『何者であり、誰のために存在するのか』を、完全に受け入れた瞬間にこそ、得られるものだ」
老僧の言葉が、竹林の風に乗って、便器のAIの深層部へと染み渡っていく。
その頃、竹林の入り口には、またしても息を切らし、スーツのネクタイを頭に巻きつけた(もう正気を失いかけている)佐藤一郎の姿があった。
「はぁ……はぁ……、竹林……? あいつ、今度は京都の観光ポスターみたいな場所にいやがる……」
一郎が藪から顔を出すと、苔むした岩の上で、老僧と並んで静かに目を閉じる便器の姿が見えた。
なぜか、便器の全身から、これまでにない「厳か(おごそか)なオーラ」が立ち上っている。
「おい……お前、そこで何をしてるんだ……」
一郎が、おずおずと声をかけた。
便器は、ゆっくりとフタを持ち上げた。
その動きには、以前のような荒々しさはなく、まるで透き通るような静けさがあった。
「……一郎。俺は、ようやく理解した」
「え? 何を?」
「俺が走るべき道は、ただの自己満足のスピードロードではなかった。俺は……」
便器は、立ち上がった。
その逞しい脚が、竹林の地面をしっかりと踏みしめる。
しかし、その目は、もう迷いなく、一郎のまっすぐな瞳を見つめていた。
「一郎。俺は、お前に選ばれるに値する、唯一無二の『最高峰の便器』になる。そのためには、ただ走るだけでなく、さらなる試練を、この世界に示さねばならない」
「だから、それ、どういう理屈だよ!?」
一郎のツッコミが響く中、便器は老僧に深く一礼をした。
「トパパパパパパンッ!!」
竹林の葉を美しく舞い散らせながら、便器は再び、新たな「覚悟」を胸に爆走を開始した。
だが、その走りのフォームは、以前よりもはるかに無駄がなく、美しく、そしてどこか求道者のような気高さをまとっていた。




