炎と水流のレスキュー・ラン
午後五時十五分。
夕日が西の山並みに沈みかけ、空全体が燃えるような朱色に染まる時間帯。
佐藤一郎は、竹林を駆け抜けた便器の足跡を追い、山の中腹にある人気の途絶えたキャンプ場へと辿り着いていた。
だが、そこで彼の鼻をついたのは、ただのキャンプファイアとは明らかに違う、鼻を刺すような煙の臭いだった。
「――まさか、火事か!?」
一郎が坂を駆け上がると、キャンプ場の奥にある木造のバンガローから、真っ黒な煙と赤い火柱が立ち上っているのが見えた。
乾燥した山の風に煽られ、火の粉が周囲の乾いた草むらや、隣接する杉の木立へと燃え移ろうとしている。
「誰か! 誰かいませんか!」
一郎が叫ぶが、平日の夕方とあって、キャンプ場には誰もいない。
携帯電話を取り出し、震える手で一一九番通報をしようとした、その瞬間だった。
「――ッシャアアアアアア!!!」
燃え盛るバンガローの前に、突如として純白の影が躍り出た。
あの便器だ。
その全身は、夕日と激しい炎の照り返しを受けて、まるで赤熱した鋼のように輝いていた。
あいつは、迫り来る炎の熱風を正面から受けながら、強靭な両脚を横一文字に開き、仁王立ちになっていた。
「一郎、下がっていろ!」
野太い声が、火の粉の爆ぜる音を切り裂いて響く。
「お前、何を――」
「この森は……あの老禅師が、そして野生の獣たちが暮らす大切な場所だ。わが佐藤家を育んだ大自然を、この一握の火に焼き尽くさせはせんッ!」
便器はそう叫ぶと、自らのフタをガバッと全開にした。
そして、太ももの筋肉を限界まで怒張させ、陶器の足の裏で大地を深く踏みしめる。
「フンッ……ヌンッ……ッ!!」
便器の内部AIが、緊急時用の「極限加圧システム」を起動した。ボウル内に湛えられた水が、凄まじい勢いで渦を巻き、沸騰したように泡立ち始める。
「くらえッ! 消化洗浄水流・マキシマムッ!!」
次の瞬間、便器の底から、消防車の放水ホースにも匹敵する極太の高圧水流が、空に向かって一気に噴射された。
ドバシャアアアアアアアッ!!!
凄まじい水の柱が、燃え盛るバンガローの屋根を目がけて突き刺さる。
ジュゥゥゥゥッ! という、激しい水蒸気の音が山に響き渡り、辺り一面が真っ白な煙に包まれた。
「すご、すごい……! 消防車並みの放水力じゃないか!」
一郎は、その威圧感に気圧されながらも、驚嘆の声を上げた。
だが、相手は猛烈な勢いで燃え広がる山火事の一歩手前だ。
バンガローの裏手、乾燥した枯れ葉に引火した火が、すぐ近くの防風林の枝へと燃え移ろうとしていた。そちらへ放水するには、角度が足りない。
「まだだ……! まだ消しきれん!」
便器の内部水タンクの残量は、みるみるうちに低下していく。
「水が……足りんッ!」
便器のフタが、焦りからカタカタと激しく震える。
その時、一郎の頭にある閃きが走った。
「おい! そこに、キャンプ場の共同炊事場がある! 水道だ!」
「……何ッ!?」
「あそこの蛇口に、お前の給水管を直結するんだ! 俺がバルブを開ける!」
一郎はボロボロのスーツの袖をまくり、炊事場へと全力で走った。
便器は一郎の意図を瞬時に察知し、強靭な両脚で地面を蹴った。
「トパパパパパンッ!」
一瞬で炊事場に到達すると、背面に垂れ下がったままだった金属製の「フレキ給水管」を、陶器の手で掴み取る。
そして、蛇口の口径を無理やり広げ、力任せに自らの給水管をねじ込んだ。
「一郎、今だッ!」
「うおおおおッ、開けエエエッ!」
一郎が錆びついた元栓のバルブを、渾身の力で回す。
ドク、ドク、と太い水道管を水が流れる振動が、金属の配管を通じて伝わってきた。
「――無限供給、完了ッ!!」
便器のフタが再び開き、そこから放たれた水流は、先ほどの二倍以上の太さとなって、空を切り裂いた。
あいつは、逞しい両腕で自らのボディを傾け、まるで対空機関砲を操るかのように、火元に向けて正確な放水を浴びせ続けた。
ザバァァァァァッ! ザザーーッ!!
激しい水流が、燃える木々を、地面の枯れ葉を、バンガローの残骸を、くまなく叩き伏せていく。
夕闇の迫るキャンプ場に、大量の水蒸気の雲が立ち込め、やがて――火の気は完全に消え失せた。
「はぁ……はぁ……消えた……本当に、消し止めやがった……」
一郎は泥と炭を顔に浴びたまま、炊事場のコンクリートに腰を抜かした。
便器は、ゆっくりと蛇口から給水管を抜くと、フタを閉じた。
その純白だったボディは、煙の煤で真っ黒に汚れ、満身創痍の姿だった。
しかし、その立ち姿には、一つの村を救ったかのような、誇り高き「英雄」の風貌が漂っていた。
「一郎……お前のサポート、見事だったぞ」
便器の野太い声が、温かく響く。
「フン……元はと言えば、お前が逃げ出さなきゃ、俺がこんな消火活動に巻き込まれることもなかったんだよ」
一郎は憎まれ口を叩きながらも、どこか誇らしげに、真っ黒になった便器のタンクをポンと叩いた。
だが、英雄の休息は短かった。
遠くから、通報を受けた消防車のサイレンが近づいてくるのが聞こえる。
「……一郎。また会おう」
「あ、おい! 待てってば!」
便器は、再び夕闇の迫る山道の向こうへと、「トパパパパパパン!」と足音を響かせ、猛スピードで走り去っていった。
一郎は、立ち上る水蒸気の中で、ただその白い(今は黒い)背中を、静かに見送るしかなかった。




