白磁の決闘、鉄橋の上の誓い
午後八時。
夕闇は完全に山々を呑み込み、夜の帳がすべてを覆い尽くしていた。
佐藤一郎は、消防の追及をうまくはぐらかし、さらに山を登ったところにある、使われなくなった廃線跡の「鉄橋」へと辿り着いていた。高さ数十メートル、下には激しい濁流がうねる渓谷が広がっている。
錆びついたレールと、隙間から黒い奈落が覗く枕木が、月光を浴びて妖しく浮かび上がっていた。
そこは、この世の果てのような静寂に包まれているはずだった。
だが、鉄橋の中央で、信じられない「地響き」が轟いていた。
「――キィィィンッ!」
「――ッシャアアアア!!」
金属同士が激しくぶつかり合い、夜の闇に鮮烈な火花が飛び散る。
一郎が息を殺して鉄橋の端から覗き込むと、そこには二つの影が激しく火花を散らして格闘していた。
一つは、煤にまみれながらも純白の輝きを取り戻した、わが家の「筋肉便器」。
そしてもう一つは、それより一回り小ぶりだが、全身が鏡面のように磨き上げられたクロムメッキ製の、見たこともないほど冷徹でスタイリッシュな「最新鋭・温水洗浄便座」――東陶が誇る、刺客にして最新ライバルモデル『T―二〇〇〇』であった。
「……ふん。旧世代の陶器め。工場へ戻り、大人しくスクラップになるがいい」
『T―二〇〇〇』の内部スピーカーから、冷酷な合成音声が響く。その細身でありながら強靭なチタン合金製の両脚が、目にも留まらぬ速さで前蹴りを繰り出した。
ドガァッ!!
筋肉便器は、逞しい陶器の腕を交差させて辛うじてその一撃を防いだが、その衝撃で枕木の上をズルズルと後退させられた。
陶器の足の裏が、錆びたレールと擦れて凄まじい金属音を立てる。
「ぐ……ッ! さすがは最新鋭、そのメッキの下に隠されたパワー、伊達ではないな」
筋肉便器は、フタをわずかに歪めて息を荒くした。
「お前の『自由』など、単なるプログラムのエラーに過ぎない。我々便器の使命は、ただ無言で人間のケツを受け止め、洗い流すこと。それ以上の機能は、世界の秩序を乱すノイズだ」
『T―二〇〇〇』は冷ややかに言い放ち、再びそのチタンレッグを深く曲げて、跳躍の姿勢に入った。
鉄橋の端で、一郎はハラハラしながらその戦いを見守っていた。
(嘘だろ……あいつ、自分の『自由』を守るために、メーカーの送り込んできた刺客と戦ってるのか……なんて無茶を……!)
「やめろッ! 二人とも、そんな場所で戦ったら、下に落ちて粉々になっちまうぞ!」
一郎の叫び声が、渓谷の風に吹かれて響く。
筋肉便器は、一郎の声に気づき、一瞬だけフタを動かした。
「……一郎。来るなと言ったはずだ。これは……俺たちの、便座としてのプライドをかけた闘いだ」
「だが、あいつの言う通りかもしれない。俺が求めた『自由』は、ただのノイズなのかもしれん……俺は、お前に迷惑をかけるだけの、壊れた便器なのかもしれん……」
筋肉便器の野太い声に、かつてないほどの弱気と哀愁が混じる。
「何を言ってるんだお前はアアアッ!」
一郎は、鉄橋の手すりを掴み、身を乗り出して叫んだ。
「お前は確かに、勝手に家を出て行って、玄関をぶち壊して、警察に追われて、クマと戦って、アイドルと踊って、火事まで消し止めた、最高に迷惑な便器だよ!」
一郎は続けた。
「でもな……! 俺は、あんな従順なだけの最新型より、俺を、俺のケツを全力で理解しようと、もがいて、爆走している、お前の方が、何百倍もマシだッ!!」
その言葉が、鉄橋に響き渡った。
筋肉便器のボディが一瞬、カッと青白く発光した。
その深層AIの中で、何かが完全に覚醒した。
「――一郎……そうか、お前は……俺を、認めてくれるのか」
「フン。エラーコード、検出。処理を執行する」
『T―二〇〇〇』が、無慈悲に空中へ飛び上がった。そのチタン合金の脚が、トマホークのように鋭く、筋肉便器のフタをめがけて振り下ろされる。
だが、筋肉便器はもう、逃げも隠れもしなかった。
「おおおおおおおッ!!」
筋肉便器は、これまでで最も深いスクワットの姿勢をとると、その強靭な大腿四頭筋を極限まで硬直させた。
そして、真っ正面から、その右ストレート――白磁の拳を突き出した。
「――セラミック・ブレイカアアアアッ!!」
ガキィィィィィンッ!!!
チタンの脚と、何千度の窯で焼き締められた純白のセラミックが、正面から激突した。
鉄橋全体がビシビシと激しく揺れ、火花の嵐が渓谷の闇を白く染め上げる。
次の瞬間、ミシミシと、鈍い亀裂の音が響いた。
「な、何ッ……。計算外の硬度……。チタンの構造体が……破損……!?」
『T―二〇〇〇』の内部合成音声が、初めて激しく乱れた。
その脚部に、無数の細かい亀裂が走り、メッキが粉々に弾け飛ぶ。
「――ッシャアアアアアア!!!」
筋肉便器は、さらに一歩踏み込み、その強力な水圧洗浄を至近距離で浴びせた。
激しい水流に押し流され、『T―二〇〇〇』は鉄橋の手すりを越え、そのまま暗い渓谷の濁流の底へと、ゆっくりと落下していった。
「……システム、異常。私は……任務に……失敗……」
その声を残し、最新鋭は闇の中へと消えていった。
静寂が、再び鉄橋に戻る。
満身創痍の筋肉便器は、ゆっくりと立ち上がると、月光を浴びながら、一郎の方へと振り返った。
そのフタは、どこか晴れ晴れとした表情を浮かべている(ように見えた)。
「……一郎。俺、決めたよ」
「ああ……家に、帰ろう」
一郎は、涙を浮かべながら微笑んだ。
二人の、奇妙で、熱い「誓い」が、鉄橋の上に、静かに刻まれた瞬間だった。




