↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
12/16

ただいま、わが家の温もり

 午後十時。

 静寂を取り戻した鉄橋の上で、佐藤一郎は、満身創痍の「わが家の便器」と向かい合っていた。

 数々の激闘を繰り広げた純白の陶器ボディは、すすけて泥にまみれ、小さな傷が無数に刻まれている。

 しかし、その佇まいには、旅を終えた王者のような、堂々たる風格が漂っていた。

「――一郎。俺、決めたよ」

 便器は、月光を反射させながら静かにフタをパタパタと動かした。

「……ああ。家に、帰ろう。お前の帰るべき場所は、あの狭い、だけど誰も邪魔しない一畳半のトイレなんだから」

 一郎は、泥だらけの手で便器の冷たいタンクに優しく触れた。

「いや……」

 便器は、首を横に振るように、フタを小さく左右に揺らした。

「ただ帰るだけでは、プロフェッショナルとしての俺のプライドが許さない。俺は……最後まで、自らの脚で、自らの限界を証明しながら帰還するッ!」

「はぁ!? お前、この期に及んでまだ走る気かよ!?」

 一郎のツッコミを置き去りにし、便器は再び、アスファルトへ向けてその強靭な両脚を深く折り曲げた。

「一郎、俺の背(タンク)に乗れ! これが、俺たちの最後の共同作業(ラスト・ラン)だ!」

「嘘だろ!? 便器に!?」

 困惑する一郎だったが、遠くから『T―二〇〇〇』の不時着を嗅ぎつけたであろう、さらなるメーカーの追手らしき車のライトが山道に見え始めていた。

「クソッ、もうどうにでもなれ!」

 一郎は意を決して、便器のフタの上にまたがり、タンク部分をがっしりと両腕で抱きしめた。

 泥の臭いと、ほのかに残る柑橘系の芳香剤の香り。これこそが、数日前まで毎朝彼を支えていた、あの愛着ある便器の匂いだった。

「しっかり掴まっていろ、一郎! 限界突破(リミットブレイク)――ッシャアアアアアア!!!」

 便器は、これまでにない最大音量の洗浄音を山々に響かせると、鉄橋を蹴って爆発的なスタートを切った。

「トパパパパパパパパパンッ!!!」

 そのピッチはもはや人間の領域を遥かに凌駕し、時速六十キロメートルに達していた。

 流れる夜景、耳を劈く風の音、そしてお尻の下からダイレクトに伝わってくる、凄まじい陶器のエンジンの鼓動。

 一郎は恐怖で絶叫しながらも、不思議な高揚感に包まれていた。

「うおおおおおッ! 速えええええええ!!」

 深夜の国道を、泥まみれの男を乗せた便器が、風となって駆け抜ける。パトカーのサイレンも、街頭の灯りも、すべてが光の帯となって後ろへと去っていった。

 そして。

 午前零時ぴったり。

 佐藤家の前に、一台の「暴走便器」が、キィィィィィッとアスファルトに焦げ跡を残しながら、鮮麗なドリフトを決めて停車した。

「……着いたぞ、一郎」

 便器は、静かに一郎を背中から下ろした。

 一郎は膝をガクガクと震わせながらも、無事に自宅の前に立ち、段ボールで塞がれた玄関を見つめた。

「ありがとう。最高のドライブだったよ」

 一郎が微笑むと、便器は満足そうに一度だけ「コトッ」とフタを鳴らした。

 そして、自らの役割を完全に思い出したかのように、生えていた逞しい腕と脚を、まるで魔法が解けるようにスウゥ……と、純白の陶器の中へと格納していった。

 ただの、静かで、美しい、一枚岩の洋式便器へと戻っていく。

 一郎は、その重い便器を大切に抱き抱え、粉砕された玄関から一歩ずつ、かつての定位置へと運んだ。

 一階の奥の、あの狭いトイレ。

 ちぎれた給水管に、便器の配管をカチリと接続し、床のボルトをスパナでしっかりと締め直す。

 電源プラグをコンセントに差し込むと、電子音が「ピピッ」と小さく鳴り、便座がゆっくりと温まり始めた。

「……おかえり」

 一郎が静かにフタを閉じると、そこには、いつもの静かで平和な一畳半の空間が戻っていた。

 あの大爆走も、森での決闘も、すべては幻だったのではないかと思えるほどに、便器は大人しくそこに鎮座していた。


 翌朝。

 すっかり疲れ果てた一郎は、いつものように一階のトイレに入り、便座に腰を下ろした。

 じんわりと伝わってくる、温かい便座の温もり。

「……ふぅ。やっぱり、ここが一番落ち着くな」

 一郎が深く息を吐き出し、立ち上がって「大」のボタンを押した。

「――ッシャアアアアアア!!」

 いつもの、だけどどこか誇らしげな、力強い洗浄音が響き渡る。

 一郎は満足そうに微笑み、トイレのドアを開けた。

 その瞬間、リビングに置いていた彼の携帯電話が、けたたましく鳴り響いた。

 ディスプレイに表示されたのは、田舎で暮らす「父親」からの着信だった。

「もしもし、一郎か!? 大変なんだ!」

 受話器の向こうから、父親のただ事ではない悲鳴が聞こえる。

「どうしたんだよ、朝から大きな声出して」

「実はな……! 実家の便器に、突然ムキムキの腕と脚が生えて、お前の母さんを背中に乗せたまま、時速八十キロメートルで高速道路を北上中なんだ!! 助けてくれ!!」

 一郎は、静かに携帯電話を耳から離し、遠い空を見上げた。

「……ッシャアアアアアア!!」

 一階のトイレから、まるで「次の戦いが始まったぞ」とでも言うかのように、一発、高らかな洗浄音が鳴り響いた。

 彼らの爆走は、どうやらまだ、始まったばかりのようである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。