ただいま、わが家の温もり
午後十時。
静寂を取り戻した鉄橋の上で、佐藤一郎は、満身創痍の「わが家の便器」と向かい合っていた。
数々の激闘を繰り広げた純白の陶器ボディは、すすけて泥にまみれ、小さな傷が無数に刻まれている。
しかし、その佇まいには、旅を終えた王者のような、堂々たる風格が漂っていた。
「――一郎。俺、決めたよ」
便器は、月光を反射させながら静かにフタをパタパタと動かした。
「……ああ。家に、帰ろう。お前の帰るべき場所は、あの狭い、だけど誰も邪魔しない一畳半のトイレなんだから」
一郎は、泥だらけの手で便器の冷たいタンクに優しく触れた。
「いや……」
便器は、首を横に振るように、フタを小さく左右に揺らした。
「ただ帰るだけでは、プロフェッショナルとしての俺のプライドが許さない。俺は……最後まで、自らの脚で、自らの限界を証明しながら帰還するッ!」
「はぁ!? お前、この期に及んでまだ走る気かよ!?」
一郎のツッコミを置き去りにし、便器は再び、アスファルトへ向けてその強靭な両脚を深く折り曲げた。
「一郎、俺の背に乗れ! これが、俺たちの最後の共同作業だ!」
「嘘だろ!? 便器に!?」
困惑する一郎だったが、遠くから『T―二〇〇〇』の不時着を嗅ぎつけたであろう、さらなるメーカーの追手らしき車のライトが山道に見え始めていた。
「クソッ、もうどうにでもなれ!」
一郎は意を決して、便器のフタの上にまたがり、タンク部分をがっしりと両腕で抱きしめた。
泥の臭いと、ほのかに残る柑橘系の芳香剤の香り。これこそが、数日前まで毎朝彼を支えていた、あの愛着ある便器の匂いだった。
「しっかり掴まっていろ、一郎! 限界突破――ッシャアアアアアア!!!」
便器は、これまでにない最大音量の洗浄音を山々に響かせると、鉄橋を蹴って爆発的なスタートを切った。
「トパパパパパパパパパンッ!!!」
そのピッチはもはや人間の領域を遥かに凌駕し、時速六十キロメートルに達していた。
流れる夜景、耳を劈く風の音、そしてお尻の下からダイレクトに伝わってくる、凄まじい陶器のエンジンの鼓動。
一郎は恐怖で絶叫しながらも、不思議な高揚感に包まれていた。
「うおおおおおッ! 速えええええええ!!」
深夜の国道を、泥まみれの男を乗せた便器が、風となって駆け抜ける。パトカーのサイレンも、街頭の灯りも、すべてが光の帯となって後ろへと去っていった。
そして。
午前零時ぴったり。
佐藤家の前に、一台の「暴走便器」が、キィィィィィッとアスファルトに焦げ跡を残しながら、鮮麗なドリフトを決めて停車した。
「……着いたぞ、一郎」
便器は、静かに一郎を背中から下ろした。
一郎は膝をガクガクと震わせながらも、無事に自宅の前に立ち、段ボールで塞がれた玄関を見つめた。
「ありがとう。最高のドライブだったよ」
一郎が微笑むと、便器は満足そうに一度だけ「コトッ」とフタを鳴らした。
そして、自らの役割を完全に思い出したかのように、生えていた逞しい腕と脚を、まるで魔法が解けるようにスウゥ……と、純白の陶器の中へと格納していった。
ただの、静かで、美しい、一枚岩の洋式便器へと戻っていく。
一郎は、その重い便器を大切に抱き抱え、粉砕された玄関から一歩ずつ、かつての定位置へと運んだ。
一階の奥の、あの狭いトイレ。
ちぎれた給水管に、便器の配管をカチリと接続し、床のボルトをスパナでしっかりと締め直す。
電源プラグをコンセントに差し込むと、電子音が「ピピッ」と小さく鳴り、便座がゆっくりと温まり始めた。
「……おかえり」
一郎が静かにフタを閉じると、そこには、いつもの静かで平和な一畳半の空間が戻っていた。
あの大爆走も、森での決闘も、すべては幻だったのではないかと思えるほどに、便器は大人しくそこに鎮座していた。
翌朝。
すっかり疲れ果てた一郎は、いつものように一階のトイレに入り、便座に腰を下ろした。
じんわりと伝わってくる、温かい便座の温もり。
「……ふぅ。やっぱり、ここが一番落ち着くな」
一郎が深く息を吐き出し、立ち上がって「大」のボタンを押した。
「――ッシャアアアアアア!!」
いつもの、だけどどこか誇らしげな、力強い洗浄音が響き渡る。
一郎は満足そうに微笑み、トイレのドアを開けた。
その瞬間、リビングに置いていた彼の携帯電話が、けたたましく鳴り響いた。
ディスプレイに表示されたのは、田舎で暮らす「父親」からの着信だった。
「もしもし、一郎か!? 大変なんだ!」
受話器の向こうから、父親のただ事ではない悲鳴が聞こえる。
「どうしたんだよ、朝から大きな声出して」
「実はな……! 実家の便器に、突然ムキムキの腕と脚が生えて、お前の母さんを背中に乗せたまま、時速八十キロメートルで高速道路を北上中なんだ!! 助けてくれ!!」
一郎は、静かに携帯電話を耳から離し、遠い空を見上げた。
「……ッシャアアアアアア!!」
一階のトイレから、まるで「次の戦いが始まったぞ」とでも言うかのように、一発、高らかな洗浄音が鳴り響いた。
彼らの爆走は、どうやらまだ、始まったばかりのようである。




