大いなるエネルギーの限界
午前十一時三十分。
木漏れ日の差し込む美しい森を抜けた先にあったのは、不気味なほどひっそりと佇む、人気の途絶えた「森林公園」だった。
佐藤一郎は、遊歩道の脇に設置されたベンチに、まるで魂を抜かれた抜け殻のようにぐったりと座り込んでいた。
「はぁ……はぁ……もう、一歩も動けん……」
心臓が破裂しそうなほどに激しく鐘を打ち鳴らし、喉の奥からは血の味がする。
いくら「わが家の便器」を回収したいという執念があろうとも、生身の人間の肉体には限界があるのだ。
だがその時、彼の視界の端で、ブランコの手前あたりに「白い、巨大な陶器の塊」がうずくまっているのが見えた。
「……あいつ、か?」
一郎は、重い体に鞭を打って立ち上がり、静かに近づいた。
そこにいたのは、間違いなく、あの爆走便器だった。
しかし、その様子は明らかにおかしかった。
あれほど隆起していた大腿四頭筋や上腕二頭筋が、まるでしおれた風船のように、心なしかボリュームを失っている。
さっきまでなら「フシュー」と力強く響いている排気音も、今は「ぷしゅぅ……」と弱々しく漏れるのみだった。
便器は、ブランコの鉄柱に弱々しく片手を預け、膝をガクガクと震わせている。
「……どうしたんだよ。さっきまでの威勢はどこへ行ったんだ?」
一郎の問いかけに、便器はゆっくりとフタを持ち上げた。
その動きは、見る影もなくスローモーションだった。
「……い、一郎……か」
どこかかすれた、力のない野太い声。
「限界、だ……俺の……エネルギーが、切れた……」
「エネルギー? プロテインはさっき、森でがぶ飲みしてただろ?」
「タンパク質は……筋肉の材料だ。しかし、この我が肉体を……駆動させるための、根本的な電気エネルギー(温水洗浄便座用電源)が……完全に、底を突いたのだ……」
便器はそう言うと、背後に力なく垂れ下がった電源コードを、陶器の手で悲しげに持ち上げた。
その三ピンプラグの先端は、泥と砂にまみれ、むなしく空を指している。
言われてみれば当然だった。この便器の超常的な身体能力を支えているシステムは、佐藤家の壁から供給されていた「一〇〇ボルト」の交流電流によって充電されていたのだ。
いくら筋肉があろうとも、システムを動かすバッテリーが空になれば、あいつはただの「重くて動かない陶器の塊」に戻ってしまう。
「バッテリー残量……パーセント……三……システム、シャットダウンまで……あと、百二十秒……」
「そんな親切なカウントダウン機能があったのかよ……!」
一郎は驚きつつも、内心でほっとした。
(チャーンス! あいつが完全に動けなくなれば、軽トラックでも呼んで、そのまま無理やり自宅のトイレに連れ戻せる!)
だが、その安易な考えを見透かしたかのように、近くの茂みから「シャーッ!」と鋭い威嚇音が聞こえた。
現れたのは、一匹の野良猫だった。
片耳がちぎれ、数々の修羅場をくぐり抜けてきたと思われる、眼光の鋭いボス猫だ。
その猫は、エネルギーを失って弱りきった巨大な純白の侵入者(便器)を、自らの縄張りを荒らす敵とみなしたらしい。
背中の毛を逆立て、爪を研ぎ澄ませながら、一歩ずつ便器に向かって距離を詰めていく。
「あ、危ない……!」
一郎が叫ぶ。
普段の便器なら、デンプシーロールの一撃で消し飛ばせる相手だ。
しかし、今のあいつには、猫のパンチを避けるだけの電力すら残されていない。
便器は、かすむ視界で猫を見つめ、静かにフタをパタパタと動かした。
「……交渉、する……」
「交渉!? 猫と!?」
「猫よ……俺に、あの管理事務所の……外壁にある……防水コンセントの、カバーを……開けさせてくれ……お前が、協力してくれるなら……俺の内部にある……最高の温水シャワーで……お前のお尻を……極上の、水圧で、マッサージしてやる……」
「どんな取引だよそれ!!」
しかし、奇跡が起きた。
ボス猫は、便器の必死の懇願と、その底知れぬ「便座としてのプライド」を感じ取ったのだろうか。
ふっと、逆立てていた毛を寝かせると、喉をごろごろと鳴らしながら、公園の管理事務所の方向へ歩き出した。
そして、振り返って「ニャー」と短く鳴いた。
ついて来い、と言っているようだった。
「……恩に、着る……」
便器は、最後の電力を振り絞り、這うようにして、コンクリートの壁に設置された屋外コンセントへと向かった。
猫が器用に前足でプラスチックの防水カバーを押し上げると、便器は、自らのプラグをその穴に向かって、震える手で差し込んだ。
カチャリ。
その瞬間。
「――ッシャアアアアアア!!!」
すさまじい洗浄音が、静かな公園に鳴り響いた。
コンセントから流れ込む一〇〇ボルトの電流が、便器の純白のボディを青白い電光となって駆け巡る。
みるみるうちに、その上腕二頭筋が再び膨張し、大腿四頭筋に硬質なハリが戻っていく。
便器のフタが勢いよく開き、まばゆいばかりの青い光を放った。
「完全、復活ッ……!!」
野太い声が公園に響き渡る。
便器は、約束通り、フタを優しく開けると、ボス猫をお尻からボウルへと招き入れた。そして、そっと、心地よい「微温水マッサージモード」を起動した。
「……ニャ、ニャオ〜〜ン……(極楽)」
ボス猫は、見たこともないほど恍惚とした表情を浮かべ、完全に骨抜きにされていた。
「よし、チャージ完了だ」
便器は猫をそっと地面に下ろすと、その逞しい両腕をクロスさせ、胸を張った。
「一郎、俺のバッテリーは今、百パーセントだ。次は……時速六十キロメートルの世界へ、俺は行く!」
「まだ走る気かよお前はアアアッ!!」
一郎の悲鳴を置き去りにし、フル充電された便器は、再びアスファルトを「トパパパパパパン!」と猛スピードで叩きながら、公園の出口へと爆走していった。
その背中を見送る一郎の横で、マッサージを堪能したボス猫だけが、満足そうに毛繕いを始めていた。




