木漏れ日の下の狂想曲
午前十時十五分。
佐藤一郎の体力と精神力は、すでに限界の向こう側へと突入していた。
クマを撃退し、なおも森の奥へと消えていった「わが家の便器」を追いかけ、かれこれ二時間近く木々をかき分け、泥に足を滑らせながら進んでいる。スーツのズボンはボロボロに裂け、靴は泥まみれで、もはやただの浮浪者のような風体だ。
「おい……もう勘弁してくれよ……俺、今日、有給休暇の申請すら出してないんだぞ……」
会社にどう言い訳をすればいいのか。
まさか「便器が森に逃走し、クマと格闘したため追跡しております」と正直に言えば、即座に心療内科を勧められるだろう。
その時、静まり返った深い森の奥から、何やら妙な音が聞こえてきた。
「――ズン、ズズン、チャッ。ズン、ズズン、チャッ」
地響きのような重低音。それは、野生の動物の鳴き声でも、風の音でもない。
間違いなく、人工的な「音楽」のビートだった。
(なんでこんな山奥に、音楽が……?)
一郎は不審に思いながら、生い茂るシダの葉をかき分け、音のする方向へと恐る恐る頭を突き出した。
そこに広がっていたのは、さらに常軌を逸した光景だった。
森の中の、少し開けた美しい木漏れ日が差し込む広場。
そこには、カラフルな衣装を身にまとった五人の少女たちと、それを囲むようにして、色とりどりのサイリウム(光る棒)を激しく振り回す、三十人ほどの男たちがいた。
どうやら、地元密着型の「地下アイドル」が、ファンを募って森の中で限定のアウトドアライブ、通称『森林浴野外ギグ』を開催している最中らしかった。
「みんなー! 森のマイナスイオンと一緒に、私たちのハートを受け取ってねー!」
ステージ代わりに置かれたブルーシートの上で、センターの少女が汗を輝かせながら歌う。
「うおおおおおッ! りんりんーッ! 今日も可愛いよおおおおおッ!」
ファンたちが一糸乱れぬ動きでオタ芸を披露し、森に熱気が満ちていく。
平和で、少し微笑ましい、地下アイドルの日常。
だが、その調和を打ち破る「影」が、木々の隙間から猛烈なスピードで迫っていた。
「トパパパパパパパパンッ!!」
「ッシャアアアアアア!!」
突然、爆音の洗浄音とともに、純白の便器がブルーシートのステージ横から乱入してきた。
「な、なんだあいつは!?」
最前列で激しくサイリウムを振っていた、ハチマキ姿のファンが驚愕の声を上げる。
だが、便器は彼らを襲うわけではなかった。
あいつは、流れているユーロビート調の爆音アイドルソングに合わせて、完璧なリズムで、その逞しい大腿四頭筋を躍動させ始めたのだ。
「ズンッ! ハッ! ズンッ! ハッ!」
便器は、メンバーの振り付けと寸分違わぬステップを踏みながら、上腕二頭筋をこれでもかとアピールするポージングを繰り出した。
木漏れ日が、激しく上下する便器の純白のフタと、芸術的なカットの入った太ももを神々しく照らし出す。その姿は、あまりにもシュールで、しかし恐ろしいほどの躍動感に満ちていた。
「え……? す、すごい筋肉……!」
ステージ上のセンター「りんりん」が、歌いながらも、思わず便器のサイドチェストの美しさに目を奪われた。
「おい、あの便器……めちゃくちゃキレキレだぞ!」
「なんて美しいボディビル・ポーズなんだ! 陶器のツヤが、まるでオイルを塗ったプロの肉体みたいだ!」
最初は困惑していたファンたちだったが、次第に便器の圧倒的な「筋肉美」と「キレッキレのダンス」に魅了され始めていた。
「便器! 便器! 便器! 便器!」
森の中に、前代未聞の「便器コール」が巻き起こる。
ファンたちは、便器の純白のボディに合わせて、白いサイリウムを一斉に激しく振り回した。
便器は、ファンの大歓声に応えるように、その場で強靭な脚力を使って大ジャンプを決めた。
空中でフタをガバッと全開にし、キラキラとした洗浄水をスプラッシュ(霧吹き)状に撒き散らす。
「きゃあーっ! マイナスイオン大増量ーっ!」
「涼しいーッ! 便器最高おおおおおッ!」
森のライブ会場は、完全に便器の手によって支配され、異様な一体感に包まれていた。
木の陰からその様子を見ていた一郎は、開いた口が塞がらなかった。
「なんなんだよこの状況は……あいつ、いつの間にアイドルのバックダンサーとしてデビューしてやがるんだ……」
曲が終わり、ファンからの割れんばかりの拍手と歓声が響く中、便器は「りんりん」と視線を交わした(ように見えた)。
りんりんは、感動に目を潤ませながら、便器のフタに優しく触れた。
「ありがとう……あなたのおかげで、今日のライブ、今までで一番盛り上がったよ」
便器のフタが、嬉しそうにパカパカと震える。
しかし、あいつは、自分がアイドルとして留まる人間(便器)ではないことを、誰よりも理解していた。
「――良い声援だった。だが、俺のステージは、ここではない」
野太い声を残し、便器はファンたちに深々と一礼(フタを限界まで前に傾ける)をすると、再び強靭な両脚を前方に踏み出した。
「トパパパパパパンッ!!」
「ああっ! 待って、筋肉の便器さんーっ!」
りんりんの制止の声も虚しく、便器はファンの歓声に見送られながら、再び深い森の闇へと、弾丸のような速さで走り去っていった。
「待てえええええええッ!!」
一郎もまた、泥に足を取られながら、その背中を追って走り出すしかなかった。
彼の追跡劇は、もはや森の狂想曲の一部と化していた。




