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深緑のバトル・ロイヤル

 午前八時。

 バイパスでの大立ち回りを演じた便器が逃げ込んだのは、ふもとから鬱蒼と茂る国立公園の深い森だった。

 一郎は、バイパス沿いの非常階段を駆け下り、藪をかき分け、あいつの強靭な脚が踏み荒らした泥の足跡だけを頼りに、森の奥へと足を踏み入れていた。

 上空を覆う巨大なブナやナラの葉が日光を遮り、森の中は薄暗い。

 湿った土と、腐葉土のどこかツンとする匂いが鼻を突く。

 時折、遠くで「キィ」と鳴く鳥の声以外、静寂が支配していた。

 だが、その静寂は不自然だった。

 まるで、森全体が息を潜め、巨大な嵐の到来を待っているかのような緊張感が張り詰めている。

「おい……どこにいるんだ……」

 一郎が息を切らしながら巨木の陰を通り抜けた、その瞬間。

 ゴオオオオオオオッ!!!

 鼓膜を激しく震わせる、獣の咆哮が響き渡った。

 一郎の全身の産毛が逆立つ。

 声のした方、わずか三十メートル先の開けた泥地に、それはいた。

 体長二メートルはあろうかという、巨大な野生のツキノワグマ。

 鈍く光る黒い毛並みを波立たせ、鋭い爪をむき出しにして激昂している。

 そして、そのクマと真正面から対峙しているのが――

 純白のボディにうっすらと泥をまとった、わが家の便器であった。

「フ、フシューー……ッ!」

 便器は、これまでにないほど強烈な威嚇音(温水洗浄便座の乾燥機能による排気音)を吹き出しながら、低く身を構えていた。

 その脚は、泥に深く沈み込みながらも、いつでも跳躍できるように大腿四頭筋をミシミシと波打たせて、完璧なクラウチングスタートの姿勢をとっている。

(嘘だろ……クマとタイマン張る気かよ!?)

 一郎は近くの木の陰に身を隠し、心臓を抑えながらその光景を凝視した。

 クマが、地面を揺らしながら突進した。

「グアアアオッ!」

 丸太のように太い右腕が、容赦なく便器のフタをめがけて振り下ろされる。

 その鋭い爪は、かすっただけでも陶器を粉砕する破壊力を持っているはずだ。

 だが、便器は動かなかった。

 限界まで引き絞られたその強靭な両脚が、コンクリートのように硬直したかと思うと、一瞬で爆発した。

 バッ!!!

 驚異的なサイドステップ。

 便器は、クマの爪が鼻先をかすめるコンマ一秒のタイミングで、真横へと滑るように移動した。

 まるで、フィギュアスケーターのような、しなやかで無駄のない重心移動だった。

 空振りに終わったクマが体勢を崩した、その一瞬の隙を、便器は見逃さなかった。

「――ッシャアアアアアア!!」

 便器は鋭く踏み込み、その逞しい陶器の右腕を、ボクサーのジャブのようにストレートに突き出した。

 狙いは、クマの分厚い脇腹。

 ドゴォォォンッ!!!

 鈍い打撃音が森に響き渡る。

 人間の拳とは比較にならない、数百度の高温で焼き締められた純白のセラミックの硬度。

 それが、時速四十キロメートルの踏み込みのエネルギーを伴って叩き込まれたのだ。

「ギチッ……!」

 クマは、信じられないものを見る目で目を見開き、巨体をくの字に曲げて悶絶した。

 さらに便器は、攻撃の手を緩めない。

 フタをガバッと全開にすると、そこから、溜め込んでいた洗浄水を高圧で噴射した。

「――ウオッシュ・バーストッ!!」

 激しい水流がクマの顔面に直撃する。

 ただの水ではない。それは、あいつが森の奥でプロテインとともに吸収し、自らの内部で極限まで圧縮した「高圧洗浄水流」であった。

 ザバァァァァァッ!!!

 顔面を強力に洗われたクマは、視界を奪われ、その場に仰向けに転倒した。

 そして、便器の計り知れない戦闘力と、そのあまりにも奇妙なビジュアル(筋肉の生えた便器)に、野生の本能としての「恐怖」を刻み込まれたのだろう。

 クマは、尻尾を巻いて一目散に茂みの奥へと逃げ去っていった。

 静寂が、再び森に戻る。

 便器は、ゆっくりとフタを閉じると、大きく息を吐くように、スウゥ……と、排気音を響かせた。

 その白磁のボディには、クマの泥まみれの足跡が一つ、勲章のように刻まれていた。

「……嘘だろ」

 一郎は、腰が抜けてその場にへたり込んだ。

「お前、クマに勝っちゃうのかよ……もうそれ、ただの便器じゃなくて、森の守護神(ガーディアン)じゃねえか」

 便器は、一郎の気配を察し、ゆっくりと振り返った。

 そのフタは、どこか寂しげに少しだけ下を向いている。

「一郎……見たか。これが、野生の世界だ。牙を持たぬ者は、ただ駆逐されるのみ」

「いや、お前も牙はないだろ! 陶器だろ!」

「だが、俺にはこの拳(セラミック)と、この脚(レッグ)がある。俺はもっと強くならねばならない。この森の奥には、さらに過酷な試練が待っているはずだ」

 便器は、そう言うと、自らの盛り上がった大腿四頭筋を誇示するように、一歩、力強く踏み出した。

「待て! もういいだろ! クマに勝ったんだから、もう十分に強いよ! 一緒に家に帰ろう!」

 一郎は必死に手を伸ばしたが、便器の決意は揺るがなかった。

「トパパパパパパンッ!!」

 便器は再び、泥を豪快に撥ね上げながら、森のさらに深い闇へと消えていった。

 一郎の悲痛な叫びは、またしても、生い茂る木々の葉に吸い込まれて消えていくのだった。

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