ハイウェイ・スター
午前五時三十分。
東の空がようやく白み始め、夜と朝の境界線が曖昧になる時間帯。
朝靄が立ち込める国道バイパスの入り口付近に、佐藤一郎の姿はあった。
結局、あの不気味な森から命からがら這い出してきた彼は、ボロボロになった心と体を休める間もなく、スマートフォンを握りしめていた。
画面に映し出されていたのは、SNSで爆発的に拡散されている一本の動画だった。
『【悲報】バイパスを時速五十キロメートルで走る便器、発見される』
ブレまくったスマートフォンの縦型動画には、オレンジ色の朝日に照らされながら、国道の一車線を堂々と独走する「あの便器」が映っていた。
カメラに向かって見せつけるように、引き締まったふくらはぎの筋肉をバネのように収縮させ、アスファルトの上を滑るように疾走している。
「本当に……バイパスに行きやがった……」
一郎は乾いた笑いを漏らした。
あいつは森を抜けて、さらなる「高み」を求めて舗装路に戻ってきたのだ。
森でのスクワットと、あの大量のプロテインが、あいつの脚力をさらに凶悪なレベルへと押し上げてしまったことは明白だった。
バイパスの側道から本線を見下ろす防音壁の隙間に、一郎は張り付いた。
眼下を通り過ぎていく長距離トラックの重低音が、アスファルトを通じて一郎の靴底をビリビリと震わせる。
冷たい排気ガスの臭いと、朝露に濡れたコンクリートの匂いが鼻を突く。
その時、はるか前方から、不調和極まりない「あの足音」が近づいてきた。
「トパパパパパパパパンッ!!」
いや、もはやその足音は以前の比ではなかった。
舗装された路面を、まるで超硬質のハンマーで叩き割るかのような、硬質で暴力的な打撃音。
朝靄の向こうから、純白の弾丸が突進してくる。
便器だった。
その姿勢は、驚くほど低い。
フタを完全に水平に閉じ、空気抵抗を徹底的に減らした前傾姿勢。背面の水タンク部分は、まるでスポーツカーのリアスポイラーのように機能し、車体を安定させている。
何より凄まじいのは、その脚の動きだった。
太ももから臀部にかけての筋肉が、一歩ごとに恐ろしい質量で波打ち、陶器の足の裏が道路の白線を力強くグリップしている。
その時、隣の車線を走っていた大型の十トントラックの運転手、五郎は、眠気覚ましに缶コーヒーを口に含んだ瞬間だった。
ふと、左側のサイドミラーに視線を落とす。
(ん……? なんだ、あの白いバイクは)
白いカウルをつけた大型バイクが、猛烈な勢いで自分のトラックを追い抜こうとしているように見えた。
だが、その物体にはタイヤがなかった。
代わりに、ギリシャ彫刻のような、白く輝く逞しい二本の「人間の生足」が、恐ろしいピッチで回転していた。
ブブーーッ!!!
五郎は口に含んでいたコーヒーを、フロントガラス一面に豪快に吹き出した。
「な、なんだあいつはアアアッ!?」
慌ててワイパーを動かす五郎の視線の先で、便器はさらに加速した。
「――ッシャアアアアアア!!」
トラックの横をすり抜ける瞬間、便器は気合を入れるかのように一発、洗浄音を轟かせた。
その水流の圧力の余波で、十トントラックの車体がガタガタと揺れる。
便器は、追い越し車線へと軽やかにレーンチェンジを決めると、時速五十キロメートルを維持したまま、朝のバイパスの主役へと躍り出た。
「待てええええい!!」
突然、後方から赤い回転灯の光が朝靄を切り裂いた。
パトカーだ。
二台の白黒パトカーが、サイレンをけたたましく鳴らしながら、便器の背後に迫る。
「前方の白い、えー……陶器製品! 速やかに左側に寄せて停車しなさい! 道路交通法違反、および……えー、形状があまりにも不審です!」
スピーカーから拡声された警察官の声が、バイパス全体に響き渡る。
警察官の声も、どこか戸惑いと緊張で震えていた。
そりゃそうだ、便器を追尾する訓練など、警察学校のカリキュラムにあるはずがない。
だが、便器は止まらなかった。
フタをわずかに動かし、バックミラー代わりのセンサー(?)で後方のパトカーを確認すると、あいつはニヤリと笑った(ように見えた)。
「――俺の走りを、止められると思うなッ!」
便器は、さらに腰を落とした。
大腿四頭筋が極限まで引き絞られ、陶器の肌に青い血管のような光の筋が走る。
次の瞬間、あいつは信じられない行動に出た。
バイパスの、中央分離帯。
高さ一メートルはあるコンクリート製の防護壁に向かって、斜めに鋭く切り込んだのだ。
「跳べッ……!」
便器の野太い声が響くと同時に、その強靭な両脚がアスファルトを爆発的に蹴り上げた。
フワリ、と巨大な純白の塊が宙に浮く。
朝日に照らされながら、便器は放物線を描いて中央分離帯を軽々と飛び越え、対向車線へと着地した。
ズゥゥゥンッ!!!
着地の衝撃で、対向車線のアスファルトに微かな亀裂が走る。
便器は着地と同時に、膝のバネを使ってショックを完璧に吸収すると、そのまま逆方向へと爆走を再開した。
「うおっ!? 飛びやがった!」
パトカーは中央分離帯に阻まれ、急ブレーキをかけてタイヤをスピンさせることしかできなかった。
陸橋の上からその様子をすべて見ていた一郎は、ただ呆然と天を仰ぐしかなかった。
「パトカー相手に、なんて大ジャンプを決めやがるんだ……あいつ、もう完全に、ただの便器の枠を超えちまってるじゃないか」
だが、一郎の心の中に、不思議な感情が芽生え始めていた。
あいつの、あのどこまでも自由で、力強い走り。
社会のルールや、自らに課せられた「便器」という運命をすべてなぎ倒して進む姿は、毎日の満員電車と退屈な書類仕事に追われる一郎にとって、あまりにも眩しく、そして少しだけ羨ましく思えてしまったのだ。
「いや、ダメだダメだ! 落ち着け俺! あいつはただの逃亡便器だ! 早く捕まえて配管に戻さなきゃ、俺の朝の平穏が戻らないんだ!」
一郎は自分の両頬をパチンと叩き、再び、逃走する便器が向かった方向へと走り出した。
朝のバイパスに、乾いた足音と、パトカーの虚しいサイレンの音が、いつまでも響き渡っていた。




