森の邂逅とプロテイン
ママチャリという唯一の機動力を失った佐藤一郎は、夜明け前の薄暗い舗装路を、トボトボと歩いていた。
すでに足の裏はマメだらけで、一歩踏み出すたびに顔が歪む。
道はいつの間にか民家を外れ、街灯のまばらな山道へと続いていた。
生い茂る木々が、夜の闇をさらに深く濃く見せている。
「あいつ……どこへ行ったんだよ……」
一郎は力なく呟き、道端のガードレールに腰掛けた。
便器が「走りたい」などと言い出した時、彼の頭は完全にバグっていたが、少し冷静になってみると、やはり意味が分からない。
便器は陶器だ。
焼き物だ。
そこに筋肉が生えること自体、生物学や物理学に対する冒涜である。
だが、現にわが家のトイレは空っぽで、玄関のドアには「あいつ」の形をした穴が綺麗に空いている。それが残酷な現実だった。
カサ、カサリ。
不意に、ガードレールの向こう、暗い森の中から、微かな乾いた音が聞こえた。
一郎はびくりとして身を固くする。
まさか、野生のイノシシか、あるいはクマだろうか。
息を潜めて闇を見つめていると、木々の隙間から、ぼんやりと白い光のようなものが動くのが見えた。
いや、光ではない。
それは、月光を反射して怪しく光る「白磁」の輝きだった。
「……まさか」
一郎はガードレールを乗り越え、ぬかるむ土を踏みしめて森の中へと入っていった。
生い茂る草木をかき分け、十メートルほど進んだその時、彼の視界が開けた。
小さな開けた場所。
そこに、あの便器がいた。
便器は、一本の太いナラの木に向かって、黙々と何かを行っていた。
「フンッ……ハッ……フンッ……ハッ……」
野太い吐息とともに、逞しい大腿四頭筋がギリギリと軋む音を立てている。
便器は、木の幹に陶器の手を突き、スクワットを繰り返していたのだ。
「……何をしてるんだ?」
一郎は、あまりのシュールさに、思わず素のトーンで声をかけた。
「――ッシャアアアア!!」
便器は驚いたように、排気音のような洗浄音を響かせながら振り返った。
そのフタが、少し気まずそうに斜めに傾く。
「……一郎。なぜ追ってきた。あれほど追うなと言ったはずだ」
「追うに決まってるだろ! お前がいないと、俺は毎朝、どこで用を足せばいいんだよ! 二階のトイレは狭くて落ち着かないんだ!」
一郎は怒鳴った。
「それに、なんで森の中でスクワットなんかしてるんだ!?」
便器は、静かにスクワットを止め、直立不動の姿勢をとった。
その純白のボディには、先ほど爆走したときについた、生々しい「泥」がうっすらと付着している。
「トレーニングだ」
便器は、どこまでも真剣な声で答えた。
「走るためには、筋力が必要だ。特にこの大腿四頭筋。アスファルトの衝撃に耐えうる、さらなる強靭さが求められる。そして……」
便器は、足元に置いてあった「何か」を、陶器の腕でそっと持ち上げた。
それは、どこかで拾ってきた(あるいは盗んできた)市販のプロテインの袋だった。
「一郎。俺には、タンパク質が必要だ。この筋肉を維持し、さらに肥大化させるためには、一日に百五十グラムのプロテイン摂取が欠かせない」
「便器にプロテイン!? どこから吸収するんだよ!?」
「ここからだ」
便器は、誇らしげにフタを全開にした。
そこには、いつも見慣れた、水を湛えた「便器の底」が広がっている。
「……まさか、そこに流し込むのか?」
一郎の顔が引き攣る。
「そうだ。シェイクしたプロテインを、このボウル内に注ぎ込み、一気に『洗浄』することで、俺のシステム(内臓)に吸収する」
便器はそう言うと、持っていたプロテインの粉末を、器用にボウルの中へとドバドバと投入した。
水が、真っ白なプロテインパウダーでドロドロに濁っていく。
「よし、いくぞ。ビルドアップ……!」
ゴクリ、と一郎が唾を飲み込んだ瞬間。
「――ッシャアアアアアア!!」
轟音とともに、便器がセルフ洗浄を開始した。渦巻く水が、濁ったプロテインの液体を一瞬にして排水口の奥へと吸い込んでいく。
すると、どうだろう。
便器の全身を包む白い陶器が、一瞬だけ、カッと青白く発光した。
そして、その二の腕の筋肉が、目に見えてワンサイズ大きく、はち切れんばかりに膨れ上がったのだ。
「ふぅ……効く。やはりホエイ(乳清)プロテインは吸収が早い」
「本当に吸収してんじゃねえよ!!」
一郎は頭を抱えた。この世界の法則は、すでに崩壊している。
「しかし……」
便器は、自分の肥大化した腕を寂しげに見つめた。
「これだけでは足りない。俺の求めているのは、ただの筋肥大ではない。俺は、時速五十キロメートルの壁を越えたいのだ。そのためには、もっと過酷な環境での走破トレーニングが必要だ」
便器は、森のさらに奥、険しい獣道が続く暗闇を見つめた。
「一郎、帰るがいい。俺の行く道は、一般の住宅用便器が歩む道ではない。修羅の道だ」
「待て、お前――」
引き止める一郎の声を無視し、プロテインでパワーアップした便器は、再び身を翻した。
「トパパパパパパンッ!!」
森の土と枯れ葉を、爆発的な力で後ろへと蹴り飛ばしながら、便器は森の奥深くへと、目にも留まらぬ速さで消えていった。
残されたのは、激しく舞い散る木の葉と、地面に深く刻まれた、陶器の足跡。
そして、空になったプロテインの袋だけだった。
「……本気、なのか」
一郎は、その足跡を見つめながら、拳を固く握りしめた。
もはや、単なる「逃げた家具の回収」ではない。
彼は、一人の「アスリート」としての熱い魂を、あの便器の中に見てしまったのかもしれない。




