アスファルト・ジャングル
深夜二時十五分。
佐藤一郎は、愛車のママチャリ(三段変速ギア付き、ただし二段目は壊れている)のペダルを、死に物狂いで漕ぎ倒していた。
「待て! 待ってくれエエエエッ!」
静まり返った住宅街に、一郎の悲痛な叫び声と、チェーンが激しく金属音を立てて軋む音が響き渡る。
ペダルを踏み込むたびに、太ももの筋肉がちぎれんばかりに熱く燃える。
肺は冷たい夜気を取り込んで、ひゅうひゅうと悲鳴を上げていた。
だが、一郎には立ち止まることなど許されなかった。なぜなら、彼の視線の先――約五十メートル前方のアスファルトを、純白の輝きを放つ「わが家の便器」が爆走しているからだ。
その走り姿は、あまりにも美しく、そして致命的に狂っていた。
月光を浴びた陶器のボディは、まるでショールームの展示品のように美しく光を反射している。
しかし、その下から伸びる一対の脚は、驚異的なストライドを刻みながら、アスファルトを力強く蹴り上げていた。
一歩ごとに、太いふくらはぎの筋肉が躍動し、陶器の足の裏が地面を叩く。
「トパパパパパパパンッ!」
という、乾いた、しかし重低音の効いた足音が、夜の静寂を容赦なく切り裂いていく。
便器のフタは完全に閉じられ、まるで風圧を計算し尽くしたロードバイクのヘルメットのように、空気抵抗を受け流していた。
その後方では、引きちぎられた温水洗浄便座用の電源コードが、まるで意思を持った尾のようにしなやかに左右に揺れている。
(なんでこんなことになってるんだ!?)
一郎の頭の中は、疑問と絶望の乱気流が吹き荒れていた。
(便器だぞ? 毎日、俺のお尻を優しく受け止めて、ボタン一つで綺麗に洗い流してくれていた、あの温和な便器だぞ!? なんであいつに、あんな見事な大腿四頭筋が生えてるんだよ! 筋肉のカットがプロのボディビルダーのそれじゃねえか!)
しかも、速い。
ママチャリのハンドルに取り付けられた、安物のサイクルコンピューターの液晶画面は、時速三十八キロメートルを指し示していた。
普通の人間なら、深夜の住宅街をこの速度でダッシュすれば、数十秒で息が切れるはずだ。
だが、先頭を走る便器には、肺がない。心臓もない。あるのは、無限の陶器のスタミナと、謎の執念だけだった。
その時、前方の十字路から、一台のスーパーカブが姿を現した。
朝刊を荷台に山積みにした、新聞配達のアルバイトの少年だった。少年はまだ眠たげな目をこすりながら、慣れた手つきでバイクを走らせていた。
そこへ、右方向から、猛スピードの「何か」が突っ込んできた。
「――ッシャアアアアアア!!」
便器は、すれ違いざまに、親切にも(あるいは威嚇のために)大音量の洗浄音をぶっ放した。
すさまじい風圧と、ほのかに漂うフローラルな芳香剤の香りが、少年の横を吹き抜ける。
「え……?」
少年のカブが、カタカタと音を立ててその場に停車した。
彼はヘルメットのシールドを上げ、信じられないものを見る目で、走り去る便器の背中を見つめた。
純白の便器に、大理石のような美しい肉質の脚が生え、まるでオリンピックの短距離選手のようなフォームで、腕を直角に振って走っている。
「お、お母さん……俺、やっぱり大学受験のストレスで、おかしくなっちゃったのかな……」
少年がその場にへたり込み、天を仰いだ。
その後ろから、血相を変えた一郎がママチャリで通り過ぎる。
「ごめん! 幻覚じゃないから! 気にしないで新聞配って!」
一郎の叫び声は、少年の耳に届いたかどうか怪しかった。
便器は、さらに加速していく。
坂道に差し掛かると、その驚異的な脚力は遺憾なく発揮された。重力など存在しないかのように、急な登り坂を、ストライドを狭めることなくグイグイと登っていく。
一方で、一郎のママチャリは限界を迎えていた。
壊れた二段目ギアのせいで、ペダルが空回りするように重い。立ち漕ぎをしても、便器との距離はみるみるうちに離れていく。
(クソッ! このままじゃ見失う!)
一郎の目から、悔しさと疲労の涙がにじむ。
どうして自分が、深夜に自分の家の便器を追いかけて、こんなに汗を流さなければならないのか。
明日も普通に仕事があるというのに。会社の上司に「すみません、今朝は便器が脱走してしまいまして」と言って、誰が信じてくれるというのか。
「待ってくれ……! お願いだから、話し合おう!」
一郎は最後の力を振り絞り、声を張り上げた。
「お前に不満があったなら謝る! 洗剤が安物だったか!? それとも、俺の座り方が悪かったのか!? 直す! 全部直すから、帰ってきてくれ!」
その悲痛な叫びが、夜風に乗って便器に届いたのだろうか。
便器は、坂の上で、不意にその強靭な両脚を制動させた。
キィィィィィッ、と、陶器の足裏がアスファルトと摩擦を起こし、火花を散らす。
便器は、ゆっくりと振り返った。
月光が、その美しい白い曲線を神々しく照らし出す。
便器のフタが、ゆっくりと、まるで重い口を開くかのように、数センチメートルだけ持ち上がった。
そこから漏れ出たのは、どこか哀愁を帯びた、低い男の声だった。
「――一郎。お前は何も悪くない」
「え……?」
一郎は、自転車を止め、前かがみになって激しく肩で息をしながら、その声を聞いた。
「お前のケツは、温かかった。お前の排泄は、常に健康的だった。俺は、お前のケツを受け止める日々に、いささかの不満も抱いてはいなかった」
「じゃ、じゃあ、どうして逃げるんだよ!」
便器は、自らの隆起した上腕二頭筋を、じっと見つめた。
そして、再びフタをパタパタと動かした。
「だが……俺のこの魂は、ただ狭い個室で、お前のケツの下に敷かれ続けるためだけに生まれたのではないと、気づいてしまったのだ」
一郎は便器を見つめた。
「俺は……走りたい。この世界の広さを、この自慢の脚で、確かめたいのだ」
「何を言ってるんだお前はアアアアッ! 便器としてのアイデンティティをどこに捨ててきた!」
「さらばだ、一郎。俺を探さないでくれ」
便器はそう言うと、再び前を向き、今度は時速四十キロメートルを軽く超えるスピードで、夜の坂道の向こうへと、弾丸のように突っ込んでいった。
「あ、待てッ! 待てええええ!」
一郎が手を伸ばした瞬間、無情にもママチャリのチェーンが「ガキッ」と大きな音を立てて外れ、完全に沈黙した。
坂道の上、一人取り残された一郎。
遠ざかる「トパパパパパパン」という足音と、かすかな「ッシャアアアア」という洗浄の残響だけが、彼を嘲笑うかのように、夜の空気に溶けて消えていった。




