そして、静寂は破られた
その夜、佐藤家は、しんと静まり返っていた。
築三十年の木造二階建て住宅は、昼間のうだるような熱気をゆっくりと放出しながら、深い眠りに沈んでいる。
午前二時。
この家の主である佐藤一郎は、リビングのソファにうつ伏せになり、だらしなく口を開けて寝落ちしていた。
テレビの画面はとっくに放送を終了し、灰色のアナログ砂嵐がチリチリと無機質な音を立てて空間を揺らしている。
ローテーブルの上には、飲み干したビールの空き缶が寂しげに転がっていた。
その時だった。
「――ッシャアアアアアア!!」
家中の床板を激しく震わせる、凄まじい「洗浄音」が響き渡った。
それは、普段聞き慣れている水道水の軽やかな流れではない。
まるで、巨大なダムの決壊現場に放り込まれたかのような、地響きを伴う轟音だった。
一郎は、バネが弾けたように飛び起きた。
「な、なんだ!? 地震か!?」
心臓が肋骨の裏側をドクドクと激しく叩く。
寝起きのぼやけた視界の中で、リビングのペンダントライトがかすかに揺れているのが見えた。
彼は寝癖で爆発した頭を抱えながら、音の発生源へと恐る恐る足を向けた。
一階の廊下の突き当たり。
そこは、わが家の「お手洗い」である。
一歩、足を踏み出すたびに、廊下の木床がキィ、キィと悲鳴のような音を立てる。
トイレのドアの前まで来ると、ドアの下にあるわずかな隙間から、見たこともない青白いLEDのような光が漏れ出ていた。
(気のせいか……? いや、でも、さっきの音は絶対にここからだ……)
一郎はゴクリと唾を飲み込み、冷たくなった真鍮のドアノブに手をかけた。
心拍数はすでに限界突破している。彼は意を決して、勢いよくドアを開け放った。
「おい、大丈夫か――」
一郎の言葉は、そこで凍りついた。喉の奥がカラカラに乾き、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように立ち尽くす。
そこに広がっていたのは、彼が毎日使っている、あの平凡なトイレの風景ではなかった。
いや、正確には、見慣れた純白の「洋式便器」はそこにいた。
しかし、その姿は、あまりにも狂気に満ちていた。
長年、壁の給水管と床の排水口に固く固定されていたはずの陶器の便器が、完全にその「絆」を引きちぎり、自立していたのだ。
しかも、陶器のなめらかな曲線の側面からは、まるでギリシャ彫刻のデッサンから抜け出してきたかのような、ムキムキとした、人間に酷似した「両腕」と「両脚」が生え揃っていた。
その腕は、上腕二頭筋がはち切れんばかりに盛り上がり、怒張した血管の代わりに陶器の美しい焼き模様が浮かび上がっている。
その脚は、大腿四頭筋が競輪選手のように逞しく発達し、床にしっかりと五本の指(なぜか陶器製)を踏みしめていた。
便器のフタがパカパカと、まるでおしゃべりでもするかのように小さく上下に震える。
「……え?」
一郎の脳細胞は、目の前の超現実的な光景を処理することを完全に拒否した。
(え、便器に……筋肉? 腕? 脚? なんで? 俺、まだ夢の中にいるのか?)
自分の頬をつねってみたが、痛い。痛いということは、現実だ。
便器は、一郎と目が合うと、一瞬だけ動きを止めた。
フタの丸みが、まるでバツが悪そうに少しだけ斜めに傾く。
そして、次の瞬間だった。
「――失礼しますッ!!」
どこから発せられているのか、鼓膜に直接響くような野太い漢の声が響いた。
便器は、驚異的な跳躍力で床を蹴ると、一郎のすぐ横のわずかな隙間を、風圧とともに猛スピードで駆け抜けた。
その速さは、まさに脱兎のごとし。
一郎の髪の毛が、風圧で激しく後ろに吹き流される。
「うおわああっ!?」
一郎は尻もちをつきながら、ただただ呆然と、廊下を爆走していく便器の背中を見送るしかなかった。
ドドドドド、と激しい足音が廊下に響き渡る。
便器は玄関まで一瞬で到達すると、鍵のかかった頑丈な木製のドアに向かって、頭(タンク部分)からダイブした。
バシャアアアアアン!!!
凄まじい破壊音とともに、深夜の住宅街に木片が飛び散る。
玄関ドアには、便器のシルエットの形をした、見事な穴がぽっかりと穿たれていた。
外の冷たい夜風が、その穴からヒュウヒュウとリビングに入り込んでくる。
「――ッシャアアアアアア!!」
遠ざかる洗浄音。
夜の闇の中、時速四十キロメートルはあろうかという猛スピードで、逞しい脚を交互に繰り出しながらアスファルトを蹴って走り去る便器。
そのフタはしっかりと閉じられ、まるで風の抵抗を減らすエアロダイナミクスの役割を果たしているかのようだった。
静寂が、再び佐藤家を包み込む。
ただ、玄関には、冷たい風と、粉々になったドアの残骸、そして、引きちぎられたトイレの配管から床にじわじわと広がる、水たまりだけが残されていた。
「……夢じゃ、ないよな?」
一郎は、濡れた床の上に座り込んだまま、ただ夜空を見上げた。
こうして、佐藤一郎の、人生で最も長く、最も意味不明な「便器追跡劇」が、幕を開けたのである。




