番外編2・一郎の、憂鬱極まる一日
<シーン:佐藤家。一階リビング。午前八時>
鳥のさえずりが心地よく響く爽やかな朝。
しかし、佐藤一郎の目の前に広がる景色は、地獄そのものだった。
玄関ドアには、見事な「便器の形」をした大穴がぽっかりと空き、そこから近所の野良猫が興味深そうに顔を覗かせている。
一階の奥へと続く廊下には、あいつが引きちぎった配管から溢れ出た水が、浅い湖のように広がっていた。
「……会社、休むか」
一郎はボサボサの頭を抱え、濡れた床に膝をついた。
だが、今日はどうしても外せない大事なプレゼンがある。
有給休暇の申請など出せるはずもなかった。
彼は泣きながらバケツと雑巾で床を拭き、玄関の穴を「お歳暮のビールの段ボール」と大量のガムテープで強引に塞いだ。
スーツに着替え、鏡を見る。
そこには、一晩中便器を追いかけて走り回ったせいで、目の下に見たこともないほど濃いクマをこしらえた、哀れなサラリーマンの姿があった。
午前九時。
満員電車に揺られながら、一郎は吊り革にすがりついていた。
ガタゴトと揺れる車内、彼の頭を占拠しているのは、仕事のことではなく「お尻の危機」だった。
(まずい……朝のコーヒーが、効いてきた……)
下腹部からじわじわと込み上げてくる、あの「緊急事態」のサイン。
普段なら、会社のオフィスに到着してすぐに一階の個室へ駆け込めば済む話だ。
しかし、今の彼にとって「トイレ」という空間そのものが、巨大なトラウマと化していた。
(もし……もし、会社の便器にも、あいつと同じように筋肉が生えていたら?)
(俺が座った瞬間に『失礼しますッ!』と叫んで、オフィスビルの窓ガラスを突き破って、俺を乗せたまま新宿の街へ爆走していったらどうする?)
一郎の額から、冷たい脂汗がだらだらと流れ落ちる。
彼の脳裏には、ネクタイをなびかせながら、時速四十キロメートルで甲州街道を激走するビルドアップされた便器と、それに必死にしがみつく自分の姿が、あまりにも鮮明な映像として再生されていた。
「う、うあああ……」
思わず小さく悲鳴を上げた一郎に、隣に立っていたOLが、不審者を見るような目で一歩距離を置いた。
午前十時。
なんとか会社に滑り込み、自分のデスクについたものの、一郎の顔色は土気色だった。
「おい、佐藤。顔色が悪いぞ? プレゼン、大丈夫か?」
先輩の鈴木が心配そうに声をかけてくる。
「は、はい……ちょっと、昨夜、わが家のプライベートな空間が……その、大爆走してしまいまして……」
「は? 暴走族でも近所にいたのか?」
「いえ、そういう騒音的な意味ではなく、物理的に、陶器が、アスファルトを叩く音がですね……」
「お前、本当に大丈夫か? 終わったら早く帰って休めよ」
鈴木は引き攣った笑いを浮かべ、そっと去っていった。
午後一時。
最大の難関であるプレゼンは、一郎の「お尻を絶対に浮かせない」という、異常なまでの集中力(括約筋の緊張)のおかげで、奇跡的に大成功を収めた。
しかし、緊張が解けた瞬間、彼の膀胱と直腸は限界を超えた。
(だ、ダメだ! 背に腹は変えられん! 会社の中で一番安全なトイレはどこだ!?)
一郎は、社内で最も古い「和式トイレ」が残る、ビルの地下一階へと駆け込んだ。
和式。
これなら、配管が床下に深く埋め込まれており、構造上、腕や脚が生えて逃げ出すことは極めて困難なはずだ。
一郎は、息を切らしながら個室のドアを閉め、鍵をかけた。
「ふぅ……ここなら、あいつはいない……」
ゆっくりと、便器の前にしゃがみ込む。
その瞬間。
コトッ。
足元の和式便器の、あの丸い陶器のフード部分が、ほんのわずかに「前後に揺れた」ような気がした。
「……え?」
一郎が凝視すると、便器の縁から、小さな、しかし驚くほど緻密な、陶器製の「細い指先」が、じわじわと床の隙間から這い出てこようとしていた。
「ひ、ひぃぃぃぃぃッッ!!!」
一郎はズボンを半分下げた状態のまま、這うようにして個室から脱出した。
どうやら、佐藤家の便器の「覚醒」は、静かに、しかし確実に、周囲のサニタリー界へと伝染し始めているらしかった。
一郎の、本当の意味での「安息の日々」が戻ることは、まだ当分先の話のようであった。




