第8話 意地とバリカン
1. 嵐のあとの静けさ、そして嵐
「……ふぅ」
一息つく暇もなく、白川寅三は床に散った髪を掃き集めていた。
昨夜の中村透の散髪を終えてから、店内の空気がどこか澄んだように感じるのは気のせいだろうか。
あの中村が、ほんの少しだけ自分の輪郭を取り戻して帰っていった。
理髪師として、それ以上の報酬はない。
午前十時。
西宮の街には、今日も湿り気を帯びた六甲おろしが吹き抜けている。
甲子園球場の方からは、練習に励む球児たちの掛け声が風に乗って微かに届く。
「……ん?」
遠くから、バタバタと何かが激しく地面を叩く音が聞こえてきた。
その音は次第に大きくなり、ついに「白川理髪店」の入り口へと滑り込んできた。
カラン、コロン!!
ベルが激しく鳴り、飛び込んできたのは近所の小学生・風太だった。
いつもなら「師匠、おはよーっ!」と威勢よく入ってくるはずの少年が、今日は泥だらけのユニフォーム姿で、今にも泣き出しそうな、それでいて怒りに燃えた顔をしていた。
「風太……どうした、その格好は」
「師匠……。僕を、ボーズにして。一番短いやつ。今すぐ!」
風太は、被っていたツバの曲がった野球帽を床に叩きつけた。
そこには、汗と土でゴワゴワになった、まだ幼い髪があった。
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2. 投げ出されたプライド
寅三は、何も聞かずに風太をいつもの椅子に案内した。
風太は小さな体を椅子に預けると、唇を噛み締めて鏡から目を逸らした。
「練習中に何かあったのか」
寅三は静かに尋ねながら、風太の首元にネックペーパーを巻いた。
続いて、子供用の少し小さなカットクロスを肩にかける。
いつもなら、今日のタイガースの試合展開について熱く語り出す風太が、今日は一言も発さない。
「……エラーしたんや。僕のせいで、今日の練習試合、負けた。みんなの前で、監督にめちゃくちゃ怒られた」
風太の声が、微かに震える。
「僕、野球なんて向いてへん。もうやめる。だから、この『野球選手の髪型』も、全部切り落としてほしいねん」
風太の言う「野球選手の髪型」とは、彼が憧れている阪神の若手選手を真似て、少しだけ襟足を伸ばした、彼なりのこだわりのスタイルだった。
「やめるから、坊主にするのか」
「そうや。もう、どうでもええ。師匠、バリカンでゴリゴリにやってや」
寅三は、鏡越しに風太の瞳を見た。
そこにあるのは、諦めではない。
自分自身への激しい怒りと、やり場のない悔しさだ。
子供の悩みだと笑い飛ばすのは簡単だが、この年齢の少年が「好きなものをやめる」と口にする時、そこには大人顔負けの決死の覚悟がある。
「分かった。……だがな、風太。バリカンを入れる前に、一度だけ頭を洗わせてくれ。その泥だらけのままじゃ、俺の道具が傷む」
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3. 泡の中の「本音」
寅三は、椅子をゆっくりと倒した。
「首、苦しくないか」
「……うん」
シャワーの温かいお湯が、風太のゴワゴワになった髪に染み込んでいく。
寅三は、風太の小さな頭を包み込むようにして、丁寧にシャンプーを泡立てた。
指の腹でゆっくりと、土の匂いを洗い流していく。
「監督は、なんて言ったんだ?」
「……『お前は、ボールを怖がってる。そんな奴は、グラウンドに立つ資格はない』って。……怖かったよ。あんな速い打球、捕れるわけないやん」
風太の目から、一筋の涙が耳の裏へと流れていった。
お湯と泡に紛れて、彼はようやく本当の弱音を吐き出した。
「みんな、僕を見て笑ってる気がする。ベンチにいる時も、ずっと針のむしろや。……師匠、坊主にしたら、少しはマシになるかな」
寅三は、無言で指を動かし続けた。
シャンプーの泡が、風太の心の澱を少しずつ吸い上げていく。
「風太。坊主にするっていうのはな、単なる罰じゃないんだぞ」
「……え?」
「昔の職人や侍はな、自分の至らなさを恥じた時や、覚悟を決め直す時に髪を落とした。それは『今の自分を捨てる』ためじゃない。『ここから新しく始める』ための儀式なんだ」
寅三はお湯を止め、風太の頭を温かいタオルで包んだ。
椅子を起こすと、風太の顔は、先ほどまでの荒々しい表情が消え、どこかスッキリとしていた。
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4. バリカンの響き、覚悟の色
寅三は、手入れの行き届いた電動バリカンを手にした。
コンセントを差し込み、スイッチを入れると、ズズズ……という低い振動音が店内に響く。
「本当に、いいんだな」
「……おう。やって。師匠」
風太が、目をぎゅっと閉じた。
寅三は、バリカンの刃を風太の襟足に当てた。
ズッ、ズズ……。
長く伸ばしていた襟足が、一瞬で刈り取られ、床にハラハラと落ちていく。
頭皮に直接伝わる振動は、風太にとって、自分の弱さと向き合うための痛みのように感じられたかもしれない。
一掻きごとに、少年の頭は丸く、青くなっていく。
重たかった髪がなくなるたびに、風太の背筋が少しずつ伸びていくのを寅三は感じていた。
「風太。ボールが怖いのは、お前が真剣だからだ。どうでもいい奴は、怖がる前に逃げ出す。お前はグラウンドに立って、正面からボールを待った。それは誇っていいことだぞ」
寅三は、バリカンのアタッチメントを替え、細かな部分を整えていく。
「この頭は、逃げるための坊主じゃない。次、そのボールを捕るための坊主だ。……そうだろう?」
風太は、目を開けた。
鏡の中には、青々とした頭の、凛々しい少年の顔があった。
髪という装飾をなくしたことで、彼の真っ直ぐな瞳が、より際立って見える。
「……うん。僕、まだ……野球やりたい」
風太の声は、もう震えていなかった。
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5. 新しい一歩
最後に、寅三は剃刀を手に取り、風太の額と産毛を丁寧に整えた。
シュリ、シュリ。
その心地よい音がして、少年の顔立ちがより鮮明になる。
ネックペーパーを外し、首元の細かい毛を大きなブラシで払い落とすと、風太は自分の頭を不思議そうに撫でた。
「……うわ、ジョリジョリする!」
「それが、今の前の覚悟の感触だ。忘れるなよ」
寅三は、預かっていた野球帽を風太に手渡した。
風太はそれを被ろうとして、一瞬ためらったが、やがてニカッと笑って後ろ前に被り直した。
「師匠、ありがとう! 僕、今からもう一回、グラウンド行ってくる! 壁当て、百回やってから帰るわ!」
「ああ、気をつけてな」
風太は、クロスを外すのももどかしい様子で椅子から飛び降りると、店を飛び出していった。
カラン、コロン!
ベルの音とともに、夏の入り口のような爽やかな風が店内に吹き込んだ。
寅三は、床に散った「野球選手の髪型」だった髪を掃き集めた。
その中には、もう迷いや悔しさは混じっていないように見えた。
理髪店は、髪を切る場所だ。
だが同時に、そこは人生の「句読点」を打つ場所でもある。
一度立ち止まり、整え、また歩き出す。
寅三は、入り口のサインポールを見上げた。
赤、青、白。
それは、どんなに泥だらけになっても、また新しく回り始める人生の螺旋のように見えた。
「……さて」
寅三は、次の客のために新しいネックペーパーを用意した。
西宮の街には、また一人、胸を張って歩き出す男が増えた。
それがたとえ、まだ小さな少年だったとしても。




