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白川理髪店の寅さん  作者: 海狼ゆうき
【第一部:影の訪れ】

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第7話 鏡の中の迷子

1. 境界線を越える音


カラン、コロン……。


真鍮のベルが、夕暮れの空気を震わせて鳴った。


その音はいつもより長く、余韻を持って店内に響いたような気がした。


白川寅三は、手にしていたセーム革を静かに置き、入り口を振り返った。そこに立っていたのは、昨日から何度も店の前を通り過ぎていた男――中村透だった。


「……いらっしゃいませ」


寅三の声は、努めて平穏だった。


中村は意を決したように店内に一歩足を踏み入れると、ひどく緊張した面持ちで会釈した。


「……まだ、大丈夫でしょうか」


「ええ。どうぞ。まずはあちらで、上着をお預かりします」


寅三は、中村が身に纏っていた隙のないダークグレーのジャケットを受け取り、ハンガーにかけた。中村は少し心細そうに、ネクタイを緩めて外した。ワイシャツの第一ボタンを外した彼の喉仏が、緊張で小さく上下する。


「そちらの椅子へ」


寅三が真ん中の椅子を指すと、中村は腰を下ろした。理髪椅子のクッションが沈み込む。


寅三は手際よく、中村の首筋に清潔なネックペーパーを巻いた。指先で微調整し、隙間がないかを確認してから、その上から重みのあるカットクロスをふわりと広げる。


バサリ、という布の音。


スーツも、タイも、そして彼が背負っている「役割」のすべてが、白い布の下へと隠された。鏡の中に、中村の顔だけが浮かび上がる。


---


2. 「お任せ」という名の空虚


「今日は、どうされますか」


寅三はくしを手に取り、中村の髪に触れた。


指先に伝わってくる感触は、驚くほど整っていた。しかし、それは命を慈しむための手入れではなく、ただ「不快感を与えない」ためだけに管理された、記号のような髪だった。


中村は鏡の中の自分の瞳を直視できず、わずかに視線を落とした。


「……適切に、お願いします」


「適切に、ですか」


「はい。……目立たず、清潔で、誰からも不快に思われない、そんな髪型に。今の私が、その、仕事をする上で差し障りのない形であれば、それで構いません」


中村の言葉には、「欲」がなかった。


「中村さん。仕事のことは、一度忘れましょう」


寅三は、低く、しかし通る声で言った。中村が、微かに肩を震わせた。


「ここでは、誰かに評価される必要はありません。あなたが、鏡を見て『悪くないな』と思える。今日は、そのためだけにハサミを動かします」


中村は、戸惑ったように目を泳がせた。自分という存在が主語になることに、彼はひどく不慣れなようだった。


---


3. 水の音と、解けていく境界


寅三は中村の首を支え、椅子を後ろへ倒した。


理容店独特の、首への負担が少ない洗髪スタイル。


寅三は蛇口を捻り、手の甲で湯加減を確かめる。シャワーから流れるお湯を直接、中村の頭皮へと滑らせた。


溜めたお湯ではなく、常に新しいお湯が流れていく。その音と温かさが、中村の強張った頭を直接包み込んでいく。


寅三の手は、大きなてのひらで中村の頭をしっかりと支えた。


指の腹を使い、円を描くようにマッサージしながら、石鹸を泡立てていく。中村の頭皮は岩のように硬く、血行が滞っているのが指を通じて伝わってくる。


(……この人は、どれだけの時間を、この強張った体で過ごしてきたんだろうな)


シャワーの音が、店内の静寂を優しく埋めていく。


泡とともに、中村の髪に付着した排気ガスの匂いや、都会の騒音、そして彼を縛り付けていた透明な重圧が、排水口へと吸い込まれていった。


「ふぅ……」


不意に、中村の口から小さな溜息が漏れた。それは、彼が今日初めて吐き出した、本当の意味での「呼吸」だった。


寅三はお湯を止め、温かいタオルで中村の頭を包み、ゆっくりと椅子を起こした。


「……白川さん」


濡れた髪のまま、中村が呟いた。


「……私は、自分が何色を好きだったか、もう思い出せないんです。髪も……そうです。この椅子に座って、何をお願いすればいいのか、本当は怖かった」


「色を忘れたなら、今は白でいればいい。ここからまた、少しずつ色を足していけばいいんです」


---


4. ハサミが奏でる「自分」の輪郭


寅三は、シザーケースからハサミを抜いた。


チッ、チッ、という微かな金属音が、静かな店内にリズムを作る。


寅三は、中村の「完璧すぎる髪」にハサミを入れた。


バッサリと切るのではない。一束ずつ、彼の髪を指で掬い上げ、そこにある「不自然な調和」を崩していく。


社会から求められる「適切な中村透」を、一削ぎごとに切り落としていく作業。床に落ちていく黒い髪は、彼が自分を殺してまで守り続けてきた、重苦しい鎧の欠片のように見えた。


「中村さん。あなたの髪は、とても素直な質をしている」


寅三は、櫛を滑らせながら語りかけた。


「……左側の、ここの生え際。ここだけが、どうしても外側に跳ねようとする。これ、子供の頃からじゃないですか?」


中村は、はっとしたように鏡の中の自分を見つめた。


「……ええ。そうです。母によく、ここだけが言うことを聞かない子ね、と笑われていました。ずっと忘れていました。社会人になってからは、強い整髪料で無理やり押さえつけていましたから」


「無理に押さえつける必要はありません。跳ねるなら、それを活かした流れを作ればいい。それが、あなたの本来の『形』なんですから」


シャキ、シャキ、シャキ……。


音が響くたびに、鏡の中の男の顔が変わっていく。


エリート社員の仮面が剥がれ落ち、そこには、少しだけ不器用で、それでいて確かな体温を感じさせる、一人の男の素顔が現れ始めていた。


---


5. 鏡に映る「一人の男」


仕上げに、寅三はごく少量のワックスを指先に取り、中村の髪に馴染ませた。


風が吹けば揺れ、指で解けば元に戻るような、自然で柔らかな仕上がりだ。


「……終わりました」


寅三は、最後の一房を整え、ゆっくりと一歩下がった。


中村は、恐る恐る鏡を見た。


そこに映っていたのは、いつもの「適切」な自分ではなかった。


前髪は少しだけ短くなり、隠されていた額が潔く出ている。


何より、その瞳に、微かな光が宿っていた。


「……これが、私ですか」


「ええ。今の、あなたです」


中村は、おずおずと自分の髪に触れた。


「……不思議ですね。重荷を降ろしたような、そんな気分です」


中村は、小さく、本当に小さく微笑んだ。


---


6. サインポールの止まる時


店内に残ったのは、ハサミの残響と、床に散った中村の「鎧」だった。


寅三は、預かっていたネクタイとジャケットを中村に手渡した。


中村は、少しぎこちない手つきでタイを結び直したが、鏡を見る目は、先ほどまでとは違ってどこか晴れやかだった。


「……ありがとうございました、白川さん。また、来てもいいでしょうか」


「ええ、もちろん。髪が伸びるのは、あなたが生きている証拠ですから」


中村は深く一礼し、夜の街へと踏み出した。


その背中は、店に来た時よりも、ほんの少しだけ大きく見えた。


寅三は、店の外に出てサインポールのスイッチを切った。


赤、青、白。


螺旋の回転が止まり、西宮の街角に静かな闇が降り立つ。


「……さて。俺も、飯にするか」


寅三は白衣を脱ぎ、店の鍵を閉めた。


ポケットの中には、もう診察券はない。


彼はもう、自分の足で、自分の明日へと歩き出している。



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