第6話 嘘とポマード
1. 朝の静寂と、道具の対話
午前八時。
西宮の街に、阪神電車の始発が駆け抜ける振動が微かに伝わってくる。
白川寅三は、清潔な白衣の袖を通し、鏡の前に立った。
理髪師の朝は、鏡を磨くことから始まる。
昨夜の湿気を帯びた空気が残る店内で、彼は専用のネル生地を手に取った。
大きな鏡の表面を、円を描くようにゆっくりと拭き上げていく。
曇りが消え、一点の曇りもない透明な世界が広がる。そこには、まだ少し眠たげな自分と、誰もいない三台の理髪椅子が静かに並んでいた。
「……よし」
独り言は、自分自身への号令だ。
次に彼は、木製の道具箱から剃刀を取り出した。
父・善造から受け継いだ、鋼の重みが手に馴染む。
革砥に刃を当て、シュッ、シュッ、と小気味よい音を立てて研ぎ澄ましていく。
この音を聞くと、指先の感覚がミリ単位で鋭敏になっていくのが分かった。
理髪師にとって、ハサミや剃刀は指の延長だ。
客の髪に触れ、頭皮の硬さを感じ、その人が背負っている「疲れ」や「見栄」を、刃先を通じて読み取る。
昨夜出会った中村透の、あの虚無を湛えた髪の感触が、まだ指の腹にこびりついているような気がした。
「一人の人間、か……」
寅三は、鏡の中の自分に問いかける。
肩書きを剥ぎ取り、役割を脱ぎ捨て、ただの肉体として椅子に身を委ねる。
それがどれほど贅沢で、そして現代人にとって恐ろしいことか。
彼は、戸棚から古いポマードの瓶を取り出した。
今はもう生産されていない、父が愛用していた柳屋のアンティーク缶だ。
蓋を開けると、ツンとした、それでいてどこか懐かしい、昭和の男たちの匂いが鼻をくすぐった。
その時、店の入り口にある真鍮のベルが、控えめに、しかし確かな意思を持って鳴った。
「カラン……コロン……」
まだ開店時間には少し早い。
寅三が振り返ると、そこには一人の老紳士が立っていた。
2. 過去から来た「嘘つき」
その男は、使い古されているが、驚くほど丁寧に手入れされた三つ揃えのスーツを纏っていた。
色は深いチャコールグレー。ネクタイは少し時代遅れの太い結び目だが、歪み一つない。
手には、持ち手が擦り切れた革の鞄を提げている。
「お早う。……まだ、早かったかな」
男の声は、古い蓄音機から流れてくるような、掠れているが品格のある響きを持っていた。
年齢は七十を超えているだろうか。背筋はぴんと伸びているが、その足元――磨き上げられた靴の踵が、わずかに外側に減っているのを寅三は見逃さなかった。
「いえ、大丈夫ですよ。どうぞ、お入りください」
寅三が案内すると、男は帽子を脱ぎ、仰々しいほど丁寧に一礼した。
「……変わらんな。ここは、時間が澱んでいるようだ」
男は一番奥の、かつて父が好んで使っていた席に腰を下ろした。
白いクロスを広げ、首元にタオルを巻く。
寅三が霧吹きを手に取ると、男は鏡越しに寅三を見つめた。
「君が、善さんの息子さんか。面影があるな。……私は松崎という。君の父親には、昔、随分と世話になった」
「父の知り合い、ですか」
「ああ。私は当時、この近くで大きな貿易会社を経営していてね。……といっても、今はもう昔の話だが。善さんとは、ここでよく世界経済の行方を語り合ったものだよ。彼はいい聞き手だった」
松崎と名乗った男は、立て板に水のごとく喋り始めた。
かつて自分がどれほどの富を築き、どのような大物とゴルフを楽しみ、どれほど高級な酒を飲み干してきたか。
彼の話に出てくる数字や名前は、どれもが浮世離れして眩しく、まるでお伽噺を聞いているようだった。
だが、寅三が松崎の髪に指を入れた瞬間、言葉とは裏腹な「真実」が伝わってきた。
(……乾燥している。それに、この皮脂の詰まり方は……)
松崎の髪は、長らくプロの手が入っていないことを如実に物語っていた。
毛先は枝分かれし、湿り気を失ってバサバサになっている。
栄養が十分に行き渡っていない頭皮は硬く、指を押し返してくるような弾力がない。
そして何より、彼が身にまとっている「匂い」だ。
高級な香水の残り香を装っているが、その下には、安価なコインランドリーの洗剤と、古いアパートの押し入れのような、生活の困窮が隠しきれずに漏れ出していた。
松崎が語る「貿易会社の社長」という物語は、おそらく、今の彼が生き延びるために纏っている、最後の一枚の衣裳なのだろう。
3. 鏡の中の真実と、嘘の効能
「松崎さん。今日は、どうしましょうか」
寅三は、松崎の壮大な武勇伝を遮ることなく、静かに尋ねた。
松崎は一瞬言葉を止め、鏡の中の自分を、まるで遠い親戚を見るような目で見つめた。
「……ああ。そうだな。……当時のように、ビシッと決めてくれ。午後に、昔のビジネスパートナーと大事な商談があるんだ。三ノ宮のホテルのラウンジでね。このなりじゃあ、舐められてしまう」
彼は嘘をついている。
その確信が、寅三の中にあった。
今日の三ノ宮のホテルラウンジに、彼を待つ者などおそらく誰もいない。
だが、寅三はそれを指摘するほど野暮ではなかった。
「承知いたしました。……まずは、少し時間をかけて頭皮を解しましょう。お疲れが溜まっているようですから」
寅三は、たっぷりとお湯を含ませた蒸しタオルを作った。
熱すぎず、冷めすぎない。肌が最も「安心」を感じる温度だ。
それを松崎の頭全体を包み込むように乗せる。
「……おお、これは……」
松崎の肩から、微かに力が抜けた。
「善さんも、よくこうしてくれた。……松崎さん、あんたは走りすぎだ。たまにはエンジンを切らんと焼き付くぞ、なんて生意気なことを言いながらな……」
タオルを通じて伝わる熱が、松崎の頑なな心を少しずつ溶かしていく。
寅三は、タオルの上からゆっくりと圧をかけ、頭皮の凝りを揉み解していった。
嘘をつき続けることは、肉体にとっても過酷な労働だ。
周囲を欺き、何より自分自身を欺き続けるために、彼はどれほどの緊張をその細い首筋に溜め込んできたことか。
やがてタオルを外すと、松崎の顔は少しだけ赤みを帯び、先ほどまでの強張った表情が和らいでいた。
寅三は、ハサミを手に取った。
シャキッ、シャキッ、という軽快な音が店内に響き始める。
床に落ちていくのは、古びた栄光にしがみつくために伸びきった、不揃いな毛先たちだ。
「松崎さん。父がよく言っていました。……髪を切るっていうのは、過去を整理して、今日を生きる顔を作る作業なんだって」
松崎は目を閉じ、ハサミの音に耳を傾けていた。
「……今日を生きる、か。……厳しい言葉だな」
「ええ。でも、どんなに立派な過去も、どんなに悲しい過去も、鏡の前に座れば今の自分以上にはなれません。……私は、今の松崎さんのままで、十分に素敵だと思いますよ。この、苦労を重ねてきた白髪の混じり具合なんて、一朝一夕で手に入るものじゃありませんから」
寅三の言葉に、松崎の指先が、膝の上で微かに震えた。
4. 嘘とポマード
散髪が終わり、次は顔剃りだ。
寅三はブラシで丁寧に石鹸を泡立てた。
きめ細やかな泡が、松崎の顎から頬を覆っていく。
剃刀の刃が、産毛とともに、松崎が塗り固めてきた「虚勢」を薄く削ぎ落としていくような感覚。
ジョリ、ジョリという独特の振動が、骨を通じて松崎の脳に届く。
その間、松崎は一言も発さなかった。
ただ、天井をじっと見つめ、流れる時間に身を任せている。
仕上げに、寅三は例の古いポマードの瓶を手に取った。
「松崎さん。これ、父が愛用していた古いポマードです。……少しだけ、つけてもいいですか?」
松崎は目を開け、その瓶を見ると、懐かしそうに目を細めた。
「……ああ。柳屋か。……いい匂いだ。あの頃の、街の匂いがする」
寅三は手のひらでポマードを練り、松崎の髪を整えた。
指先で毛流れを作り、クラシックなサイドパートに仕上げる。
テカリすぎず、しかし確かな重厚感を持つそのスタイルは、松崎という男が本来持っていたであろう、静かな品格を呼び戻した。
「……完成です」
寅三が合わせ鏡を見せると、松崎は絶句した。
そこには、大企業の社長でも、落ちぶれた老人でもない。
清潔で、背筋が伸びた、一人の「凛とした男」が写っていた。
たとえスーツが古くても、その髪型一つで、彼は誰からも敬意を払われるべき存在に見えた。
「……これが、私か」
「はい。今日の、松崎さんです」
松崎はゆっくりと椅子から立ち上がった。
彼は鞄から、古びた財布を取り出した。
中には数枚の千円札しか入っていないのが見えたが、彼はその中から最も綺麗な一枚を選び、カウンターに置いた。
「……お釣りは取っておいてくれ。善さんの息子さんに、手間をかけさせた代金だ」
それは、彼の最後のプライドだった。
寅三は、その「嘘」を真っ向から受け止めることにした。
「ありがとうございます。……また、髪が伸びたら来てください。商談の結果、聞かせてくださいね」
松崎は一瞬、足を止め、振り返った。
その顔には、先ほどまでの虚ろな表情はなかった。
「……ああ。……次は、もう少し景気のいい話を、持ってくるよ」
彼は帽子を被り、ステッキをひと突きして、西宮の街へと消えていった。
5. 理髪師の矜持
松崎が去った後の店内には、あのポマードの香りが微かに残っていた。
寅三は、床に落ちた白髪を丁寧に掃き集めた。
松崎がついた嘘。
それは誰かを傷つけるためのものではなく、自分自身が崩れ落ちないための、細い杖のようなものだったのだろう。
その杖を叩き折るのが、真実を語ることではない。
その杖を持ったままでも、胸を張って歩けるように整えてやる。
それが、理髪師という仕事の「粋」というものだと、父の背中が教えてくれているような気がした。
「ふぅ……」
寅三は、自分の手を洗面台で洗った。
冷たい水が、指先に残ったポマードの油分を洗い流していく。
その時、ふと窓の外を見ると、歩道の向こう側に、一人の男が立っているのが見えた。
昨日から何度もこの店の前を通り過ぎ、一度も中に入ってこない男。
中村透だった。
彼は、松崎が去っていった方向を、じっと見つめていた。
まるで、自分には手に入らない「何か」を、松崎が持っていたことに驚いているかのように。
中村と目が合う。
彼は一瞬、逃げるように視線を逸らしたが、今日はそのまま立ち去ることはしなかった。
彼は、店の入り口にあるサインポールを、食い入るように見つめていた。
赤、青、白。
回り続ける螺旋の光が、中村の無表情な顔を、一瞬ごとに違う色に染め上げていく。
寅三は、何も言わずにドアを開け、入り口に掲げられた「営業中」の札を整えた。
呼びかけることはしない。
この敷居を跨ぐのは、客自身の意志でなければならない。
やがて、中村は小さく溜息をつくと、意を決したように店の方へ一歩を踏み出した。
真鍮のベルが、今日一番の澄んだ音を立てて鳴った。
「カラン……コロン……」
寅三は、一番新しい白いタオルを手に取り、静かに微笑んだ。
「いらっしゃいませ。……お待ちしておりました」
鏡の前で、新しい物語が、今まさに始まろうとしていた。




