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白川理髪店の寅さん  作者: 海狼ゆうき
【第一部:影の訪れ】

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9/20

◆第9話 職人と休日

1. 鏡の中の闖入者


午後二時。

西宮の街は、昼食どきの喧騒が引き、気だるい午後の静寂に包まれていた。


白川寅三は、客の途絶えた店内で一本のハサミを丁寧に研いでいた。

白い作業服の袖を少しだけ捲り、砥石と刃が奏でる規則正しい音に耳を澄ませる。


カラン……コロン。


真鍮のベルが、どこか遠慮がちに鳴った。


入り口に立っていたのは、隣の美容室で働くひかりだった。


いつもなら派手な原色ワンピースに完璧なメイク、高く結い上げた髪が彼女のトレードマーク。

だが今日の彼女は違う。


色を落としたシンプルなシャツ、使い古されたジーンズ。

髪は無造作に束ねられ、何よりその表情から「武装」が消えていた。


「……寅さん。今、いいかな」


「ひかりさん。どうしました、店の方は」


「今日は定休日。……ねえ、お願いがあるの。私の髪、切ってくれない?」


寅三は、研いでいたハサミを止めた。


「うちは理髪店ですよ。女性のカットは、専門外だ」


「知ってるわよ。でも、今日は美容師の『デザイン』なんていらないの。……床屋さんの、あの迷いのないハサミが欲しいのよ」


そう言うと、ひかりは自分から真ん中の椅子に腰を下ろした。


寅三は少し困ったように眉を寄せたが、彼女の瞳の奥に溜まった言葉にできない「疲弊」を見て、静かにハサミを置いた。


---


2. 美容師の孤独


「……分かりました。上着を預かります」


ひかりは首元のスカーフを外し、寅三に預けた。


寅三は手際よく、彼女の細い首に ネックペーパーを巻く。

白い紙が肌に触れ、続いて清潔なカットクロスが肩に落ちる。


鏡越しに映るひかりの髪は、プロの手による手入れが行き届いている。

しかし、一房掬い上げた瞬間、指先に伝わったのは今にも折れそうなほどの「硬さ」だった。


「ひかりさん。随分と、無理をしてますね」


「……分かる? 美容室ってね、お客様に夢を売る場所なのよ。常に新しく、華やかで、完璧でいなきゃいけない。毎日誰かの『なりたい自分』を作ってるうちに、自分がどんな髪でいたかったのか、忘れちゃったみたい」


彼女は自嘲気味に笑う。


「鏡を見るのが商売なのに、自分の顔を見るのが一番嫌いになるなんて、皮肉よね」


寅三は何も言わず、椅子をゆっくり倒した。

理容店特有の、首をしっかり支えるバックシャンプーの体勢。


蛇口を捻り、シャワーのお湯を直接、彼女の地肌へと届ける。


「熱くないですか」


「……ううん。ちょうどいい。……気持ちいいわね。誰かに髪を洗ってもらうのって、こんなに安心するものだったんだ」


寅三の掌は、ひかりの華奢な頭をしっかり支えた。

指の腹で一定のリズムを刻み、頭皮を解していく。


美容室の優雅なマッサージとは違う。

骨のキワまで届く、理髪師独特の力強く正確な指使い。


シャワーの音が店内に響き、ひかりを縛っていた「華やかさ」という名の重圧を、少しずつ洗い流していった。


---


3. 正直なハサミ


椅子を起こし、寅三はひかりの髪を丁寧に梳かした。

濡れて本来の重みを取り戻した髪は、まだ何の色にも染まっていない、素直な表情をしている。


「どう切りますか」


「お任せするわ。……ただ、鏡を見て、明日もハサミを持とうって思えるくらいに、軽くして」


「承知いたしました」


寅三は、最も信頼している一本のハサミを手に取った。


チッ、チッ。

鋼が噛み合う音が、静かな店内にリズムを刻む。


彼はひかりの髪の痛んだ毛先を、一気に切り落とした。

迷いはない。

流行も、小細工もいらない。


ただ、そこにある髪の重なりを整え、最も自然な位置に落ちるように、一太刀一太刀、魂を込めていく。


シャキ、シャキ、シャキ……。


「……寅さんのハサミ、不思議な音がする」


ひかりが目を閉じたまま呟く。


「私の店のハサミは、もっと『魅せる』音がするの。シャキーン、ってね。でも寅さんのは……削ぎ落としていく音。自分の中の余計なものを、全部捨てさせてくれるような音ね」


床には、ひかりが背負ってきた「美容師としての虚勢」が、黒い髪の束となって落ちていく。


寅三は、彼女の首筋のラインに合わせて毛先を潔く整えた。

美容室のような複雑なレイヤーはない。

しかしその潔いカットラインは、ひかりという女性が本来持つ芯の強さを際立たせていた。


---


4. 職人同士の無言


仕上げに、寅三はドライヤーの温風を当てながら手ぐしだけで髪を整えた。

ワックスもスプレーも使わない。

ただ、髪が持つ自然なツヤを、ブラシ一本で引き出す。


「……終わりました」


クロスを外すと、ひかりはゆっくり目を開けた。


鏡の中にいたのは、カリスマ美容師としての「ひかり」ではない。

西宮の街で懸命に生きる、一人の「女」だった。


髪型は驚くほどシンプル。

だがそのシンプルさが、彼女の瞳の輝きを何倍にも強く見せていた。


「……ああ」


ひかりは自分の髪にそっと触れた。


「軽い。……こんなに、自分の頭が軽かったなんて」


彼女は立ち上がり、大きく伸びをする。

その動作一つに、先ほどまでの淀んだ空気はもうなかった。


「ありがとう、寅さん。……私、明日からまた、お客様の夢を作れそうよ。この『正直な髪』の私なら、もっと良い仕事ができる気がする」


「お役に立てたなら、何よりです」


ひかりは代金を置こうとしたが、寅三は手で制した。


「……これは、隣人としてのサービスだ。その代わり、今度俺の店のタオルが足りなくなったら、少し貸してくれ」


ひかりは一瞬驚いたが、やがて悪戯っぽく笑った。


「……いいわ。最高級の柔軟剤で洗ったやつ、貸してあげる。……じゃあね、寅さん」


スカーフを首に巻かず、そのまま手に持って店を飛び出していった。


カラン、コロン。

ベルの音が、彼女の軽やかな足取りを祝うように鳴り響く。


---


5. 理髪師の午睡


寅三は、床に散った髪を掃き集めた。


美容師と理容師。

同じ髪を扱う仕事でも、その向き合い方は違う。


しかし、誰かの明日を作るためにハサミを研ぐという一点において、彼らは紛れもない「同志」だった。


彼は店内の鏡をもう一度ネル生地で磨き上げた。

そこには、少しだけ満足そうな自分の姿が写っていた。


「……さて」


入り口の「営業中」の札を裏返し、休憩の時間を取る。


奥の部屋でコーヒーを淹れる。

立ち上る湯気の中に、ひかりが置いていった「明日への活力」が微かに混じっているような気がした。


西宮の午後は、穏やかに過ぎていく。


サインポールの回転を一時的に止め、寅三は静かな眠りについた。

明日、また誰かの物語を切るために。


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