四節 ぐらぐら
鉛のような空気が部屋の隅々まで満ちていた。呼吸をするだけで肺が軋み、喉は固く閉ざされる。誰も口を開けず、何も言えないまま沈黙だけがこの場を押し潰していた。
チェリアが殺された。それも、ニギギによって。後悔の中、脳内ではあいつが残した言葉が幾度となく反復されていた。
『スヴェン、次はお前が来い』
思考が回らない状態でも、その意味、その意図だけははっきりと分かる。わざわざチェリアの私物を漁り、言葉なんて残しやがって。執拗に切り刻まれた身体も、見せつけるような冒涜も、全てが悪意に満ちていた。許せるわけがない。ふざけるな。噛みしめた歯の間から、熱い息が漏れる。
だが、怒りはすぐに別の感情に塗り潰された。なぜチェリアが死んだのか。それは、俺のせいだ。
あの時、俺がニギギを取り逃がしたから。あいつは報復に来る。そう予測していたにも関わらず、それに対して何もしていなかったから。
そして、この町で俺がチェリアと出会ってしまったから。
ニギギは適当に相手を選んだわけではない。あいつは異常者だが、どうすれば対象が深く傷付くか熟知している。この数日間、何もしなかったのはきっと、殺す相手を吟味していたんだ。
そして一昨日の晩、ニギギは俺とチェリアを見た。夜中、二人で歩いているのを目撃し、対象を決めたのだろう。
この憎悪の矛先はニギギだけではない。俺自身にも向いていた。
俺はチェリアを避けた。いつもと同じように、自分への好意を拒絶し、断ち切った。それが、お互いのためだと信じて。
それなのに俺はチェリアが殺された時間、名前も知らない女と過ごしていた。しかも何も知らずに眠り続け、遺体が発見された朝も、通信を煩わしいと思いながら起きた。俺のせいで彼女が惨たらしく死んだのに。
俺とニギギ、双方へ向いた怒りが循環する。握り締めた拳が机に叩き付けられた。
「クソッ!」
乾いた音を立てながら机が揺れる。小指から手全体へ、鈍い痛みが広がっていく。こんな痛みでは足りない。チェリアが受けた苦痛には全く届かない。一瞬だけリーナが俺を見るが、何かを言い出そうとはしなかった。
チェリアが殺された時の状況、ニギギの居る場所の予測、今後の俺達の行動、町への対応。考えなければならないことは山積みとなっている。なのに、頭は全く動かない。思考は空転し続ける。話すべき内容は激しい感情に塗り潰され、何一つ出てこなかった。
動けないまま過ぎていく時間を、時計が淡々と刻んでいた。その音に耐えきれなくなったのか、ネルは弾かれたように勢いよく立ち上がった。
「ニギギを探しに行きましょうよ! ただ座ってるだけじゃないですか!」
何も決まらない状況に痺れを切らしたのだろう。ネルは行動を促すように声をかけた。
「駄目よ。まだ話すべきことがあるわ」
俺ではなく、リーナが彼女を止める。先程まで泣いていた彼女の目元は未だに赤い。何度も擦った痕がそこに残っていた。一方ネルは、望む行動が許されず、目付きが鋭くなっていく。
「それが今優先することなんですか!? スヴェンだって何も言おうとしないじゃないですか!」
「それは……」
二人の視線が俺に向かった。言いたいことは分かる。この場をまとめ、やるべきことを確定させる。それが班長である俺の役割だ。しかし、
「うるせぇな。考えてんだよ、今」
感情を取り繕う余裕などなく、湧き上がる苛立ちをそのまま乗せてしまう。考えてるなんて嘘。思考は全くまとまらず、どうするべきだったのか、後悔ばかりが浮かんでは消えていく。ネルの怒りは、身近な俺に向かった。
「本当に考えてますか? その言葉、全然スヴェンらしくないですよ」
「ネル!」
リーナがネルの左腕を引っ張り言葉を止めようとする。けれども、既に耳に届いた後。言葉を受け、俺の中でも激情が再沸騰する。
「俺らしいって何だよ。この状況でへらへら笑って話を進めろって言いたいのか?」
「そんなこと言ってません!」
「同じだろ!」
怒鳴り声と同時に椅子を蹴るように立ち上がった。身を返そうとした直後、鋭い風切り音が耳を打つ。目の前に落ちてきたのは刃。切っ先は鼻先で止まり、一瞬で動きを奪う。
「座れ」
シモンは俺に剣を向けながら冷たく言い放つ。こんな状況で、こいつだけが冷静だった。確かに俺は感情のまま行動しようとした。迂闊で、後先考えない軽率な行為。けれども、怒りの矛先は諫めたシモンへと移り替わる。
「お前、」
言いかけた言葉が、喉元で止まった。そこから次の言葉は出てこなかった。目の前の剣が僅かに震えている。それを辿った先ではシモンの手が強く柄を握り締め、指の先から血の気が失われていた。そこでようやく気が付く。
シモンだって何も思っていないわけではない。何らかの感情を抱えながら、動けなくなった俺達三人の代わりに現場を確認し、その上で平静に振舞っていたんだ。あのシモンが、気を使って。
それでも、俺の怒りは収まらない。だからと言って拳を振り上げる程の激情は、既に遠のいていった。舌打ちと共に椅子に座る。
言葉が途切れると、再び沈黙が部屋を覆った。怒りも悲しみも行き場を失い、胸の内に沈んでいく。無言の時間は、先程より重く感じられた。
突如、机に投げ出されていた大型通信魔具が通知音を鳴らす。
「カティーナから」
リーナが表示される人名を読み上げる。返事を返す前に彼女は通話に応じた。
『皆さん、ご無事ですか!?』
数日ぶりに聞く声。一言目は俺達の身を案じる言葉だった。
「ええ、大丈夫。事件に巻き込まれて通信が使えなくなっていたの」
『事件、ですか……?』
カティーナはどこか不審がる。俺達の行動を訝しむ色が隠しきれないまま落ちた。
『そう言えばスヴェンさんはどうしました? いつもなら彼が出ますよね?』
指摘を受け、リーナの瞳が俺に向かった。出るしかない。深く息を吐き、少しだけ身を起こす。
「いるよ」
『あ、良かったです』
短く答えると、カティーナのいつもの声が返ってくる。普段なら安心感を抱く声色も、今は神経を逆撫でされそうで、それ以上言わないまま口を噤んだ。
『あの……事件て、何があったんですか?』
通話の向こうで、声が僅かに硬くなった。それまでの自然な明るさは消え、俺達の反応を測るような慎重さが滲む。こちらの空気を察したのだろう。
リーナが口を開こうとしたため、手で静止する。それは俺の役割だ。そこまで放棄してしまったら、さらに後悔が重なってしまう。
潰れた声帯から声を絞り出し、順を追って話していく。
『皆さんの状況は大体分かりました』
カティーナは静かに告げ、沈黙した。通話の向こう側で何か考えている様子だった。正体不明の大型魔具にニギギ、二つ目の魔具とそこで遭遇した二人組。そしてチェリアの殺人事件。これがたった数日の間に出会った人物と事件だ。
カティーナの無言は続く。考えるも何も、方向は決まっている。
「俺は、この事件の調査を続行する」
言ったところでまた言葉のない時間が落ちた。誰も喋らず、頷きもしない。ただ、リーナとネルが俺を見る気配があった。
悩む必要などない。俺がこの事件に最後まで携わるべきだ。最初にニギギを取り逃がし、チェリアまで巻き込んでしまったこの事件を。何としても、俺が終わらせなければならない。
『それですが……』
ようやくカティーナは話し出すも、その先を言い淀む。
『皆さん、一度引き上げませんか?』
「なっ……!」
待っていたのは思いもよらない言葉だった。反射的に返そうとした声が喉に詰まる。
「なんでだよ!」
一度空気を呑み込み、ようやく出た返事は想定以上に強く放たれた。通話の向こうでは小さな息が零れる。
『それです』
カティーナははっきりと言い切る。
『スヴェンさん、あなた今、まともに思考ができていますか?』
「……できてるよ」
『その間が証拠ですね』
彼女は断言する。反論する時間も与えられないまま通話先の声は続く。
『先程の話も上手くまとめられていません。あまりにも普段のあなたからかけ離れていて、私にはとてもじゃないですが、正常な状態であるとは思えません。それに、何より感情的になりすぎている。その状態で続けられますか?』
考えようとしたところで四散する思考も、指摘を受け募る苛立ちもカティーナの言う通りだった。この昂った感情のまま何か返せば、俺の置かれる状況は更に悪くなる。机を殴りつけたい気持ちを抑え、代わりに手を握りしめた。
カティーナは朗らかな印象を与えるが、術師協会直属の諜報部員であり、優秀な通信士だ。こういう時に状況を見極め、冷静な判断を下すことが出来る。分かっている、分かっているが。
『魔具については技術部を派遣します。ニギギについても早急に対処が必要でしょう。なので……』
そこで言葉が止まる。代わりに端末を操作する音が聞こえた。
『……二班が派遣できますね。昨日、研修より帰還しています』
「必要ないって言ってんだろ。ニギギは俺達で対処する」
現実的な配置を告げられ焦燥感が湧き上がる。何としてもこの事件を他の班に回すわけにはいかない。意地もあるかもしれない。それ以上に責任と使命感に突き動かされていた。俺のせいでチェリアが死んだんだ。それを、二班に託すなんて絶対に許されない。通信の向こうから、再び吐息が聞こえた。
『スヴェンさん、あなたは一度退くべきです』
その一言で、募っていた感情が爆発する。
「うるせぇよ! 俺がやるって言ってんだろ!」
叩き付けるように通信を切る。即座に術式を組み立てて、通信魔具へ作用させた。術師協会からの通信は完全に遮断。これで、彼らはこの魔具に干渉できない。見ていたリーナが青い顔で立ち上がる。
「スヴェン、貴方……!」
「分かってる!」
自分でも何をしたかなんて理解している。諜報部員の判断を拒絶し通信を断絶した。明らかな規律違反として扱われるだろう。頭に血が上って、突発的にやってしまったのも十分承知している。けれども、決して周りを見ていないわけではない。
「リーナ、お前だって俺を止めなかっただろ!」
途中で会話に割り込むことは可能だった。いつもなら、反対意見があればすぐ口を挟んでくるのに。けれども、リーナは、皆は静観していた。
一度、息を深く吸い込んだ。身体に酸素が取り込まれ、ようやく頭が回り始めた感覚を覚える。
「お前も、このまま帰還できるわけがないって思ってたんじゃねぇのか?」
「それは……」
リーナの唇がかすかに震え、その奥で歯が噛み締められた。
「当たり前じゃない……!」
俺を見る。強く強張った顔に滲むのは怒りとも後悔ともとれる表情。短い言葉の間、その感情は痛いほど伝わってきた。
ネルも両手を握りしめ、シモンも一点を見つめている。誰も反論しない。思っていることは同じだと、そう判断した。
俺は両手を上げ、躊躇いなく自分の頬を打った。乾いた音が静寂を裂き、リーナが目を見開いてこちらを見る。両頬には遅れて鈍い痛みと熱が広がっていく。その刺激のお陰で、頭はようやく冴え始めた。霞んでいた思考が一気に引き戻されていく。指示に背き、通信を遮断したことで、もう戻れないという思いが無理矢理前を向かせてくれる。
「これは、俺の我儘だ」
今度は静かな声量で話すことができた。
「俺は、このまま捜査を続けたい。このまま何もしないなんて絶対に嫌だ」
自分の意思を確認するように、一つ一つ言葉を紡いでいく。ただ覚悟がなかっただけ。今朝から、もう俺の意向は固まっていたんだ。席から離れ、皆を見る。
「責任なら俺が取る。だから、協力してくれないか」
悔しいが、俺だけでニギギに立ち向かうことは出来ない。あいつを討つには皆との連携が必要不可欠。これからしようとしていることが、命令違反に当たるのは明白だった。それでも同行する意思があるのか。感情のまま連れて行くのではなく、自分で選んだ返答を聞く必要があった。
「当たり前です! このまま撤退なんてできません!」
最初に口を開いたのは、ネルだった。強い意思と、怒りを滲ませた目を俺に向ける。
「術師協会の意向などどうでも良い。俺は敵を斬る」
シモンは冷静で、それでいて曇りのない真っ直ぐな表情をしていた。
「貴方一人で責任を取れると思ってるなら、それは思い上がりよ」
最後にリーナが諭すような声で言う。顔に浮かぶのは悔恨だけではない。だが、
「それでも、私も残る」
瞳に湛えた決意だけは確かなものだった。
「ニギギをぶちのめしましょう」
揺れを帯びたまま、リーナは強かな笑みを浮かべる。皆、決意は同じだった。口元が緩みそうになり、硬く引き結ぶ。小さく零した言葉はきっと、誰にも届いていないだろう。
チェリア、ごめんな。こんな形で君と向き合うことになって。愛から逃げることが、お互いを傷付けない選択だと思っていた。それなのに、そのせいで最悪の結果を招いてしまった。
だからこの事件だけは、逃げるわけにはいかないんだ。




