ふらふら⑭
通知音が鼓膜を叩く。うるさい、こっちは寝てるというのに。無視して掛け物を耳までかけ直すが、規則的な音は止まる様子がない。音はしつこく、ひたすら存在を主張してくる。手で周囲を探るが音を止めるものは見つからない。
仕方ないので目を開ける。霞む視界の中、カーテンの向こうは朝日が差し始めたばかりでまだ薄暗い。少なくとも起きる時間ではないだろう。壁の時計へ目を向ける。だが、そこにあるはずのものは掛かっていない。
そこでようやく気が付いた。そうだ、ここは俺の部屋じゃない。久しぶりに熟睡したせいか、まだ頭の中には靄がかかっているようだった。
この間にも音は続いている。発生源は部屋の隅、俺の荷物から。何の音かはすぐに理解した。
これは通信魔具の呼び出し音。コンカーレに来て数日、ずっと待ちわびていたものだった。通信が届くということは不調が治ったのだろう。
この高く、細かい音は短距離通信の通知。連絡をよこしたのは班員の誰か、ということになる。なんでわざわざこんな時間にかけてくるんだ。復旧したことを知らせたかったら今でなくても、集合時に報告すればいいのに。苛立ちながら起き上がる。
昨晩脱ぎ捨てた俺の上着を拾い、着ながら荷物へ向かった。数歩進むと、後ろから布の擦れる音が聞こえる。振り返った先に見えるのは乱れた黒髪。薄らと開いた目は焦点が合わないまま。それでも、顔だけは俺を追っていた。
音が気になったのか、彼女も体を起こそうとする。寝ぼけているため、掛け物の間から白く柔らかな肌が覗くがお構いなし。まあ、昨晩一緒に過ごした仲だ。今更隠す気もないのだろう。
名前を呼ぼうとしたところで声が詰まる。結局聞いていないことを思い出すが、まあいい。特に不便はなかった。とりあえず片手を上げ、起こしたことを詫びる。彼女は軽く頷くと、再び枕に顔を沈めた。
いつものように髪を一つにまとめながら魔具を見る。画面に表示された名前はリーナだった。朝には戻ると言っていたはず。なんで今更通信なんか。括り終え、ようやく目が冴えてくる。同時に、嫌な予感が頭を過った。
そう、直ったのなら集合時に言えばいい。なら要件は別。早急に伝えなければならない、何か。それが、この魔具の向こうに、
『スヴェン! 貴方今どこにいるの!?』
通話を開始した途端、魔具が振動する程の声量が放たれた。それだけで異常事態が起こっていることが分かる。リーナがここまで取り乱すなら、ただ事であるはずがない。強く脈打つ心臓が気道の奥に返事を押し返す。それでも、リーナの声は続いた。
『広場で、チェリアが……!』
最後まで聞かなかった。その名を聞いた瞬間、部屋を飛び出し走り出していた。
朝日が昇り始め、東の空へ橙色の光が滲んでいく。夜の名残を帯びた空気は冷たく、服の隙間から肌を刺した。だが、そんなことどうでも良い。
こんな早朝だと言うのに人通りが多い。皆が皆、同じ方向へと進んでいる。一心不乱に走り続ける身体は、十分な空気を取り込む余裕さえなかった。肺は焼けるように痛み、開いた口からは引き攣った呼吸が途切れ途切れに漏れていく。それでも走った。立ち止まることなど、考え付かなかった。
広場は大勢の人で埋め尽くされていた。野次馬達は時計台の足元へと集まり、何かを確かめるように身を乗り出している。不安、恐怖、狼狽、驚愕、悲嘆、混乱、嫌悪。その一つ一つの横顔を見る度に、焦燥感が胸を殴りつける。
中央に近付くにつれ、嫌な臭いが濃くなっていった。覚えのある錆鉄を思わせる臭い。俺達にとっては身近で、間違えようのない血液の気配。
何一つ頭に入らなかった。ただ進むことに夢中で、立ち塞がる背中が邪魔で。肩と肩の隙間に腕をねじ込み、掻き分け、身体を押し退けていく。浴びせられる悪態も、引き留めようとする手も、どうでも良かった。
最後の一人を肘で押し返し、ようやく最前面に辿り着く。最初に目に映ったのは青ざめたリーナの顔。次に怒りに表情を歪ませ肩を震わせるネル。そして、冷静に状況を確認しているシモンの姿。
シモンが何を見ているのか。その先に目を向けようとして、視線が逸れた。見たくない。見たら、予感で留まっていたものが確証へと変わってしまう。
「スヴェン」
シモンが俺の名を呼んだ。
「お前も確認しろ」
感情を殺した低い声が逃げ道を塞いでいく。そんなこと分かってる、俺だって。そのために来た。だから、見ないと。見なければ。
悲鳴と慟哭、この喧騒の中心。そこにチェリアはいた。
何か言おうとしたのだと思う。言葉になる前に崩れ、掠れた声が絞り出された。今の彼女の姿を見たら、当然の反応だった。
切り離された四肢が関節ごとに分断され、積み重ねるようにして祭壇の形へと組み上げられている。その上に胴体が立ち、中央に頭部が据えられていた。
半ば開いた瞼の奥には、虚ろな灰色の瞳が覗いている。白かった肌は土気色に変わり、可愛らしかった頬の朱色はどこにも見当たらない。残ったものは、命が失われたという現実。ただそれだけだった。
「嘘、だ」
認めたくなかった。信じたくなかった。チェリアが、死んでいるなんて。
「嘘じゃない」
他の誰もが口を閉ざす中、シモンだけが冷たく現場を見ていた。
「殺されてからしばらく経っている。少なくとも今朝ではない」
推測の区切りでリーナの身体から力が抜ける。膝から地面に沈み、震える両手で口元を抑えていた。
「私が……私が、あの時ついて行ってれば……」
言葉が途切れた直後、瞳から涙が溢れ出す。嗚咽に混じり、息を吐き出す音が指の隙間から細く漏れていた。
「どういう、ことだ?」
疑問を口にした声は酷く潰れていた。昨日の晩、リーナはチェリアと会う機会があったということ。接点はあるが、分からない。思考は完全に空転していた。
「チェリアが、私達の元を、訪ねてきたの」
涙で揺らぐ眼差しが、俺を射る。
「……スヴェンはいないか、って」
耳に届いた内容を理解した瞬間、喉が引き攣るように閉じた。反射的に呑んだ息は通らず、吐き出そうとしたところで固まった。チェリアの行動の意味が、鈍い衝撃となって頭に広がっていく。
彼女は多分、贈り物をするために夜を待ち、わざわざ訪ねてきたんだ。以前、日中はずっと動き回っていると言ったから。
警察署へ向かう彼女の姿は、容易に想像出来た。弾むような足取りで門を潜り、俺がいないと聞けば少しだけ肩を落とす。それでもすぐに笑って、また来ると笑うところまで。姿が、声が、表情が。全部、鮮明に。
「見ろ、お前宛だ」
シモンはいつの間にか俺の横に立っていた。差し出された手には紙が握られている。奪うように取り上げ内容を覗く。千切られたメモ用紙にはなにかが書かれていた。
文章だということは分かる。しかし線は震え、形も崩れていた。高さも大きさも揃わず線の向きも安定しない酷く稚拙な字体。動揺で目が滑る中、三回読んだところでようやく理解する。
「ふざけんな……!」
反射的に用紙を丸め、地面に叩きつけた。現場に残されたものをこのように扱うべきではないと、頭では分かっている。けれども、冷静ではいられなかった。
「ふざけんなよ!」
ようやく空気を通した喉から怒声が上がる。紙にはこう書かれていた。『スヴェン、次はお前が来い』と。紙の端に書かれたニギギという名前を見て、更に息が乱れる。
「それと、」
最後まで言わないまま、シモンは視線を移す。瞳が向かうのは、チェリアの近くに置かれた黄色の小包だった。
乱雑に散らばった鞄と雑貨の中、なぜかそれだけは丁寧に彼女の傍らに置かれている。
縺れそうになる足をどうにか交互に運び、彼女の前まで進んだ。そこにあるのは、沈黙した抜け殻のような姿。
柔らかかった薄金色の髪は乾き、あれ程煌めいていた灰色の瞳は何一つ映していない。愛を語った口も、端から血を零したまま固まっていた。優しく、それでいて強かだったチェリア。俺と向き合っても、もう笑みを返してくれることはない。
彼女に手が伸びそうになり、すんでのところで止めた。これ以上現場を荒らすわけにはいかないし、何より、拒絶した俺が彼女に触れる資格はない。屈み、地面に視線を落とす。
小包には小さな札がかけられていた。丸みを帯びた文字で『スヴェンさんへ』と書かれている。
震える指先で拾い、包みを開く。中には茶葉とメッセージカードが入っていた。
『安眠効果のあるお茶です。ゆっくり休めますように』
ただ一言、そう書かれていた。
「あ……」
無意識に声が零れ落ちる。チェリアは覚えていたんだ。何気なく、言い訳のように使った言葉を。眠れないと言った俺のために、この贈り物を選択した。
急速に胸が冷え、心臓が重く脈打った。チェリアはこれを渡すためにわざわざ出向き、そして襲われた。
にもかかわらず、俺は他の女と過ごしていた。彼女が苦痛の中にいる間、自分の傷から逃れたいがために。
報復。その単語が頭の中で何度も反響した。疑う余地などない。彼女はそのために巻き込まれたのだ。自覚した途端、視界が傾く。
気が付けば、俺の喉は言葉にならない怒号を上げていた。
三節 ふらふら 了




