ふらふら⑬*
開かれた扉の先、最初に目に入ったのは桃色の頭髪だった。
「あら、チェリア。どうしたの?」
呼び鈴に応じたのはスヴェンではなくリーナだった。いつもスヴェンに鋭い視線を送る深緑の瞳は、今は丸く見開かれている。こんな夜遅く、突然訪れれば誰でも驚くに決まっていだろう。
申し訳ないと思うと同時に、チェリアは少しだけ気落ちする。スヴェンが出てくることを期待してしまっていた。ここにいるのが彼だけではないことは分かっていた。当たり前のことだが、胸の内には落胆が残る。切り替え、笑みを作った。
「ここに皆さんがいるって聞いてきたんですけど。本当に警察署に泊まっているんですね」
最初にここだと聞いた時は耳を疑った。警察関係者なのか、尋ねるもそうではないらしい。では彼らは何者なのか。疑問を口にできずにいると、リーナは朗らかに微笑んだ。
「ええ。屋根があって、ベッドがあって、これほど快適な場所はないわ」
四人の中で誰よりも上品な彼女から出るとは思えない台詞。場を和ませる冗談と捉え、チェリアは軽く流す。
ただ話に来たわけではない。要件のためリーナの後ろに目を向ける。けれども、そこには空間があるだけ。奥から物音はせず、他に誰かが出てくる気配はなかった。
「えっと、スヴェンさんはいますか……?」
言葉を投げかけた瞬間、リーナの眉間に亀裂が生じる。穏やかだった顔が一瞬で険しくなり、チェリアは思わず姿勢を正した。目元を細めたまま、リーナは溜息をつく。
「あいつなら多分朝まで帰って来ないわよ」
隠す気もないのか、言葉には刺々しい感情がそのまま滲んでいた。チェリアはその意味を何となく理解する。全てが分かってしまう前に視線を足元に落とすが、胸に落ちる鉛のような感情は消えてはくれない。
「……そうですか、じゃあ、また明日伺いますね」
絞るように声を返す。居ないのなら仕方がない。明日の朝、出勤前に出直せば良い。そう考えつつ頭を下げる。踵を返した瞬間、背中に間の抜けた一音が落とされた。
「ちょっと待って。貴女、こんな時間に一人で帰るの?」
「ええ、そうですけど……?」
呼び止められ、チェリアはリーナに向き直る。振り向いた先に居た彼女は、驚愕に目を瞬かせていた。その表情の意味が分からず、チェリアは首を傾ける。一体何に驚いているのだろうか。考えている内に、次はリーナが後ろを向いた。
「家まで送っていくわ。ちょっと待ってて、魔具を取ってくるから」
「いえ! そんなご迷惑をおかけするわけにはいきません!」
彼女が動き出した瞬間、慌てて制止の声をかける。けれどもリーナの背中は遠ざかっていく。これだけでは足りないと、チェリアは更に言葉を足した。
「いつも帰りは一人です。時間だっていつもより早いくらいですし」
リーナはようやく足を止め、ゆっくりと振り返る。表情は不安げに揺れ、納得はしていなかった。
「でも……」
「大丈夫ですよ」
最後まで聞いてしまえば更に気を使わせてしまうような気がして、チェリアは反射的に言葉を重ねた。この町のことは熟知している。それは、目の前で自分の身を案じる彼女よりも、ずっと。だから、本当に大丈夫なのだ。
リーナは短く息を吐き出し、チェリアの顔を見た。向けられる瞳は曇り一つない。町への揺るぎない信頼には、懸念を差し挟む余地さえない。その真っ直ぐさが、かえって不安を落とすが今は信じるしかなかった。
「分かったわ。でも、気を付けてね」
「はい、ありがとうございます」
軽く頭を下げ、チェリアは扉を閉めた。最後に見えたのは眉を寄せる表情。話が終わっても、リーナの顔から心配の色は消えなかった。
皆、考えすぎた。この町にそんな危険な人物は居ないのに。
チェリアは考えながら夜道を歩き始める。ふと、歩幅に合わせ揺れる鞄へ目を向けた。中から覗く淡い黄色の袋を見ると、僅かに口の端が緩んだ。
思い浮かぶのは一つだけ。これを差し出した時の彼の表情。あの時、物なら受け取ると言った。だから、少し困ったような笑みを浮かべながら手を差し出すのだろう。
足取りは自然と軽くなっていった。そのまま建物と建物の間、細い道へと入っていく。街灯のない路地を進むと、すぐに大通りを抜けた。舗装されていない砂利だらけの小道。道の左右には様々な作物が実る畑が連なっていた。
自然の息遣いだけが、静かな夜道に満ちる。他に歩く者の気配はない。頼りになる明かりは月と星の輝きのみ。それでも、この暗さを恐ろしいとは思わなかった。
この町は戦争の被害から立ち直り、ようやく平和を手に入れた。あれ程怯えた警報も、町を包んでいた砂埃も、今はどこにもない。戦争が終わり、積まれた瓦礫の山々を見た時は唖然とした。これからどうやって生きていけば良いのか、途方に暮れ、絶望さえした。
それでも、コンカーレの人々は手を取り合うことを選んだ。再びこの地で生活していくために、団結し、そして取り戻した。だから、チェリアはこの町を愛していた。
思いが胸を暖かく満たしていくのと同時に、町に関してもう一人の顔が浮かんだ。
「あの戦争で一番生き残って、一番人を殺した。そんで、この町を壊した作戦の主力でもあった」
脳裏を彼の言葉が過る。軽薄な表情、少なくとも本人はそういう顔を作れていると思っていたのだろう。実際に現れていたのは痛みを無理矢理押し込めた歪な笑みだった。
彼の吐露を聞いて抱いた感情は怒りではない。ただ、強烈な寂しさを感じたと記憶している。
戦争に参加したから。大勢の人を殺したから。この町を破壊する作戦の一端を担ったから。だから彼は自分の思いを受け取れないと言った。
自分からしたら、それが何だというのか。過去は過去であり、今抱いているこの思いとは関係ない。軍の命令で行ったことなのに、一生罪に苛まれて生きていく理由にはならない。
だから、そんな必要ないと言ってしまいたかった。けれども、声となる前に喉の奥で解けていった。それは彼自身を否定する行為。彼の苦悩を、そんな言葉で散らしたくなかった。
それに、知ってしまったからこそ、そんな弱さを理解したかった。分かろうと思えば思う程、彼が愛しく思えたから。この感情は絶対に勘違いなどではない。誰が何と言おうと、確かなものだった。
鞄の中では変わらず小さな包みが揺れている。もうすぐこの町を去る彼のために選んだプレゼント。これを受け取ってくれるだけでいい。この想いがあったことを覚えていてくれればそれでよかった。
「喜んでくれると良いな」
柔らかな言葉が零れていく。明日の朝のことを考えると、足取りは自然と軽くなっていった。
ふと、チェリアは気が付く。弾むような足音にもう一つの音が混じっていた。少しだけ遅れて付いてくる響きが、同じ方向へと続いている。人の足音だというのはすぐに分かった。
歩く速度を落とせば後ろの足音も緩慢になり、止まってみれば一緒になって途絶える。歩き出した瞬間、再び重なった。
気持ち悪い。走ってもわざとらしい足音が同時に響くだけ。再び立ち止まり、意を決して振り返った。
拓けた砂利の小道にはただ暗闇が広がっている。遮蔽物のない空間には誰の姿も見当たらなかった。
チェリアは安堵の息を吐きながら正面に向き直る。ただ自分の足音が反響して二人分に聞こえただけか。そう考え、足を出す。
「こ、こんばんは」
突然、耳元に声が落ちた。
「きゃ、」
叫ぼうとした瞬間、背中に衝撃が加わる。突き飛ばされたと分かった時には、激しく地面に打ち付けられていた。
一体何が起こったのか。何のために、誰がこんなことをするのか。相手の姿を視界に収めようと上体を起こしたところで、腹部につま先が沈んだ。身体が蹴り上げられ、僅かに地面を離れた後、道へ投げ出される。勢いを殺せないまま、硬い石を巻き込みながら地面を転がっていく。
鈍い痛みが体の芯から響いていた。息が詰まり、上手く吐き出せない。引き攣った呼吸が繰り返される中、少年の澱んだ笑い声が投げかけられる。
「こ、こんな時間に一人なんて不用心だね」
呼吸苦に顔を歪めながら見上げた先、その人物の姿を見てチェリアは喉の奥で悲鳴を上げる。
自分を蹴り飛ばした相手は、拘束着を身にまとっていた。顔はフードで隠され確認することは出来ない。そのはずなのに、前髪の切れ目から覗く瞳だけは、暗闇の中でも爛々とした輝きを放っていた。一瞬で自分が関わってはならない人物であると理解する。
「だ、れか……」
助けを呼ぼうと声を上げるが、喉が震え、小さく掠れたまま解けていく。遠くに見える民間の明かりにどうにか動く右手を伸ばす。が、指先を伸ばした瞬間、そこに踵が落ちた。皮膚が裂ける鋭利な痛みに、骨の砕ける鈍痛。声にならない叫びが喉から零れる。
「痛い? 痛い? 痛い?」
腹部と腕、二つの激痛に悶える中、恍惚に染まった声が顔の横で聞こえた。荒々しい息遣いと湿った呼吸が耳を掠めていく。
「大丈夫だよ、これからもっと痛くなる」
早く逃げなければ。なのに動くことが出来ない。思考を巡らせようとしても、形になる前に崩れていく。恐怖が全身を呑み込み、ただ目の前の存在に怯えることしかできなかった。
震えるチェリアに、少年の哄笑が降る。
「お姉さんには役に立ってもらうんだから」




