ふらふら⑩
夜はやはり、いつもの夜だった。どれだけ覚悟しようが変わらない。一人になると嫌な考えばかりが浮かび上がる。それから逃れるために今日も部屋を出た。
窓から差し込む月明かりを頼りに外へと進む。音のない廊下は、靴音を冷たく跳ね返していた。
圧迫感と焦燥感は日を追うごとに増していく。この夜に引きずられ、日中にも影響が出ている気がした。理由は多分、戦争の舞台となったメーラディア地方に滞在しているから。戦争時の感覚が蘇り、罪悪感ばかりが増していく。
周りから見たらそこそこ上手く取り繕えているんだろう。俺も頭では大丈夫だと思っていた。しかし体はそうとは言ってくれなかった。
胸の奥底に眠る強い拒絶からか、日に日に食欲が減退していく。少し食べたところで胃が押し上がり手が止まる。無理矢理食べるが不快感が増すだけだった。
それと、睡眠。昨晩は魔法を自分にかけ寝てしまったが、今日は避けたい。それが当たり前になってしまえば、いよいよ駄目になる。
ごちゃごちゃ考えている内に辿り着き、外へと続く扉を押した。少し開いた隙間から冷えた夜風が滑り込み、一瞬だけ息が詰まる。そのまま押し広げ、外へ踏み出した。
夜のコンカーレは一昨日と変わりない。薄い街頭の光に照らされ、辺りは淡く沈んでいる。周囲の森からは虫の声が細かく重なり、葉の擦れ合う音が夜の静けさを際立たせた。
重くのしかかっていた閉塞感は消えたはずなのに、代わりに生まれたのは胸の余白だった。そこに安らぎが満ちるわけではなく、孤独だけが輪郭を増していく。穏やかな夜だからこそ、一人取り残された感覚を色濃く浮かび上がらせた。
一体、いつまで苦しまなければならないのだろうか。夜が来るたびに孤独に苛まれ、記憶に追い立てられる。夜を越え、ようやく迎えた朝はいつも日々を全うしなければならないという義務感から始まっていた。いくら疲弊していても、生活を、仕事を止めることは出来ない。
幸いなことに取り繕うのは得意だった。笑いながら軽口を叩けば誰もが笑みを返してくれる。ただの会話。皆、そこに深い意味なんて考えない。その曖昧さでようやく呼吸することが出来ていた。
吐き出した溜息が夜に解ける。結局友人も、班員も、女性も、ただ凌ぐために利用しているだけ。そこに余計な好意が混ざれば、突き放すことで互いの安寧を取る。何をやってるんだ、俺は。つくづく自分に嫌気が差した。
ふと、静けさの奥から足音が聞こえた。小さな音だが隠している様子はない、住民だろう。夜気の中を踏みしめる乾いた音が少しずつ近付いてきた。孤独に沈みかけていた意識は、自然と人の気配の方へと向かう。
朧げな輪郭が徐々に形を成し、やがて女性だと分かる。目を凝らすと、知っている人物だと気が付いた。チェリアだ。俺の足は思考より先に彼女の元へ向かっていた。
「チェリア?」
名前を呼んだ瞬間、彼女は反射的に肩を揺らす。驚きに見開かれた目が俺を捉え、数秒遅れてゆっくりと緩んだ。
「スヴェンさん? どうしてこんな時間に?」
安堵が広がる顔に別の色が混ざる。心配が空回りしたような気分に、思わず息が零れる。
「それはこっちの台詞だよ。危ないだろ、夜中に一人で歩いて」
「大丈夫ですよ、仕事をしてたらよくこの時間になってしまいますし」
そう言うことではないが、彼女の中でそう言うものになっているのだから俺が何を言おうが無駄だろう。実際、チェリアの声色に不安は一切ない。
普通ならこんな深夜に護身用の魔具も持たない女性が一人で歩くなど避けるはず。
深くこの町の住民を信頼している証、と言えば聞こえは良いか。けれども、どれだけ彼女が信じていようがここで関わってしまった以上見過ごせない。向かい合う形から歩み寄り、チェリアの隣へ並んだ。
「近くまで送ってくよ。慣れた町でもこっちが安心できない」
「考えすぎですよ」
そう言ってチェリアは笑う。だが、隣を歩くことに拒絶はしなかった。
「それで、スヴェンさんがこんな時間に出歩いていた理由は?」
「……眠れないだけ。これこそよくあることだよ」
正直に返すとチェリアは少しだけ目を伏せた。「そうなんですね」と呟いた後、続く言葉はなかった。昨日の朝のことを考えると、もっと質問攻めにされると思ったが。互いに何も言わないまま歩いた。地面を踏む音が交互に重なり、無言の間を静かに埋めていく。
「仕事、薬師って言ってたな。大変なんだな、こんな遅くまでかかるなんて」
顔を上げたチェリアに、分かりやすく笑顔が差した。俺の悪い癖で、沈黙が重なるとつい何か言いたくなってしまう。口角を上げたまま彼女は答える。
「ちょっと仕事が重なってしまっただけでいつもはもっと早いですよ。今日のは、患者さんをあまり待たせたくないだけで」
その言葉に一切不満の色は含まれていなかった。チェリアが持つ優しさから成る行為であると、その一言、その表情だけで伝わってくる。住民達の彼女への評価も頷ける。何故あんなにも心配されていたのか、それは彼女が皆を愛し、愛されているからだ。
「大変なのに変わりないだろ。立派だな」
その言葉は自然と出た。誰かのためにと、能動的に動くというのは誰もが出来ることではない。称賛に値する行動だと思う。
「別に凄いとか、偉いとか、そういうのじゃないんです。あたしはこの町のためにやりたくてやっているので」
少しだけ上ずった声でチェリアは返す。照れを誤魔化すように腹部の前で手を組み、落ち着かない指先が何度も形を変えた。しかしどこかで聞いたような台詞。考え、すぐ思い出す。
「確かハンネスもそんなこと言ってたっけ。この町は本当に良い奴が多いな」
恩を返すためだと彼は言っていた。チェリアの目元が嬉しそうに和らぐ。穏やかな静寂のまま少し歩くと、彼女はふと町を見る。星明りに照らされた横顔には、淡い笑みが宿っていた。
「スヴェンさんはこの町、どう思います?」
「どうって、皆親切だし良い所だと思うよ。色んな国を回ってきたけどこれ程人の良い町はなかなか見ない」
答えると「でしょ?」と笑い声を落とした。俺の回答は嘘でも、世辞でもない。ユーゴにハンネス、そしてチェリア。コンカーレで特に関わった三人が皆、他人のために奔走する人物であった。飲食等で関わった店員達も余所者の俺達に嫌な顔一つしない。夜風に遊んだ薄金色の髪を耳にかけながら、チェリアは頭上に広がる星の天幕を仰いだ。
「この町、少し前の戦争でぼろぼろになっちゃったんです」
言葉は、夜気の中へ溶けていく。
「ここ、戦場から近いじゃないですか。だから皆避難していたんです。それで、やっと戦争が終わって戻って来たときは酷い有様で」
彼女が語るのはこの町の歩みだった。その声に一切悲壮感はないのに、俺の胸は軋みを訴える。
「それがここまで持ち直したのか」
鈍痛を訴える体を無視して、無理矢理声を上げた。対してチェリアは笑顔で俺を見る。
「そうなんです! 皆で協力して、やっと持ち直したんです」
向けられる笑みはあまりにも真っ直ぐで、俺は自然とそこから視線を外していた。代わりに淡い街灯に照らされた町並みを目で追うことで、小さな揺らぎを誤魔化していく。
そこにはもう、戦争の面影など感じない。ここまで復興するには相当の努力を要したのだろう。だからこそ、皆コンカーレに愛着を示し、人の結びつきを強くした。町をより良くしようと他人のために働き、その愛情の循環で成り立っている。俺には、暖かすぎる町だった。
「スヴェンさん」
名を呼ばれチェリアの方を向く。灰色の大きな瞳と視線が混ざり合った。
「あたしはあなたにすごく感謝しています。あの時助けて貰えなかったらこうして薬を作ることは出来ませんでした」
発せられた声は暖かく、ひどく優しかった。
「あの時採った薬草は心臓の動きに作用する効能があります。服薬できなければいずれ命に関わるものです。あなたはあたし一人助けたと思っているのでしょうが、実際にはもっと多くの人を救っているんですよ」
「そう言っても、やっぱり俺にとって大したことじゃない。だから礼なんていらないんだよ」
俺はその温度を突き放す。胸の奥が更に痛むが、受け取ってはならないものだから。コンカーレを愛するチェリアからは、特に。彼女は少しだけ表情を曇らせた。
「軽いように見えて、頑なに好意から逃げるんですね」
図星を突かれ、言葉は胸の中で重量を増していく。愛情の中で育ち、生活をしているチェリアはこの行為を理解できない。それで良いのに、放っておいてくれればいいのに、彼女は俺を見捨ててくれない。
「だって、必要ないから」
理由を告げる声は、呻くように絞り出された。
「どうして?」
チェリアは真っ直ぐな瞳のまま問う。思わず、吐息が落ちた。
「俺はもうすぐこの町を離れる。そしたらもう次はない、一生会うことはないだろ」
「分かってますよ」
「全然分かってない」
はっきりと否定する。俺とチェリア、元々持ち合わせる感情は根幹から違う。だから噛み合う訳がないんだ。
「俺は確かにあの時、魔物から君を庇った。その行為を受け、もし、仮に、何らかの感情を抱いたとする。それは全部、気のせいなんだ」
言い聞かせるようにあえて声を落とし、温度を削いでいく。
「命の危機に瀕した直後は何でも特別な感情に見えやすい。心拍数が上がって、その高揚を感情によるものと錯覚する。あの状況なら勘違いしたっておかしくない」
「違います!」
「違わない」
真っ向から全て跳ね除ける。俺には受け入れる気がないといい加減分かってくれ。これで嫌われても構わない。むしろその方が都合が良い。いずれ消える俺に想いを向けるなんて時間の無駄なのだから。
瞳だけ動かしチェリアを見ると、丁度俯いていた顔を上げる所だった。目が合わないよう急いで正面を向く。彼女が再び俺を見る気配だけがあった。
「そんなこと言って、スヴェンさんだって愛情を向けてるくせに」
予想外の言葉が耳に触れ、頭の中が一瞬空になる。反射的に彼女の顔を確かめると、その表情には冗談の欠片もない。気を引くために勢いで口にした訳ではないと、その眼差しが告げていた。
「どういう意味だ?」
「あの時、なんであたしを庇ったんですか?」
何を言い出すかと思えば、そんなことか。先程の会話となんの関係があるのか、俺には当たり前のこと過ぎて思いつかない。とりあえず、質問には回答する。
「それは俺がああいう状況に慣れてて、怪我もいつものことだからだよ。どこで受ければ致命傷にならないかも熟知してる」
チェリアは表情を変えない。
「それは分かりました。あたしが聞きたいのは、なんで他人のためにそんな行動ができるんですか」
「なんでって......」
俺はそれが仕事だ。魔法を用い、誰かを傷付け、時に傷付けられることが日常で、それが当たり前となった世界にいる。だったら、誰かが傷を負いそうになった場面に遭遇した時、俺が代わりに受ける方が良いに決まっている。その後の行動も、あえて軽く見せるのはただ恐怖を紛らわせてやりたかったから。なぜなら、
「誰だって、誰かが傷付くのなんて、見たくない……だろ」
言葉は勢いを失い、途中から形を保てなくなった。喉に絡んだ感情が声を塞ぎ、吐息が滲む。最後に零れた声は消え入るように溶けていった。
その理由をチェリアは気が付いている。違う、俺に気が付かせるために引き出したんだ。緊張が解かれた薄紅色の唇が、ゆっくりと上がる。
「それなのに、自分は受け取りたくないだなんて、矛盾してますよ」
最初に与えたのは俺だと、彼女はそう指摘していた。認めたくないが、認めるしかなかった。身勝手に振りまいていた献身は、視点を変えれば他人へ向ける無意識の愛から成るものなのだから。
愛はどこまでも不対等だ。自由と言えば聞こえは良い。けれども、俺にとっては時に理不尽で、暴力的だった。
再認識させられた事実に殴られ、思考が詰まる。反論が出てこない。いつも余計な軽口は嫌と言う程流れ出るのに。こういう時に限って胸の奥でつかえたままになっていた。だが俺は、このまま受け取ることを選んではならない。
「それでもやっぱり駄目だ、チェリア。この町が好きな、君からは特に」
穏やかに告げたつもりだった。しかしそれは拒絶に変わりない。
「何でですか……! 今はあたしとこの町、関係ないじゃないですか!」
「関係ある」
隣で息を呑む音がやけに大きく聞こえた。会話が途切れるのはもう何度目かも分からない。同じ沈黙なのに、急に重さが増したように感じられる。
俺達の間を冷たい夜風が通り抜けていく。戦争の時も、この冷たい風に友人達と文句を言い合っていたことを覚えている。何か、適当なことを言い続けていなければおかしくなってしまいそうだったから。しかし、吐き出した吐息は、あの頃のように白くはない。
「戦争のあと、軍人の一人が一級術師に昇格したってニュース、覚えてる?」
「ええっと、それは覚えてます。何度も報道されましたから……」
チェリアの声は僅かに濁っていた。当たり前だ、その時期の昇級など戦争との結びつきがあるに決まっている。二国の衝突に巻き込まれ、自分が住む町を壊された彼女が喜ばしく思うはずがない。込み上げる可笑しさに、俺の口は自虐的に歪む。そのままチェリアへ顔を向けると、彼女の口元が浅く引き攣った。
「もしかして、」
「そう。あれ、俺だよ」
発言の後に続くのは、乾いた笑い声だった。チェリアの足は止まらない。だが、半歩だけ遅れていた。距離を取られるのは当然だ。その理由を述べていく。
「あの戦争で一番生き残って、一番人を殺した。そんで、この町を壊した作戦の主力でもあった」
アウルム軍の進軍を止めるため、メーラディア一帯の補給路と通信網を潰す作戦があった。軍事的には成功で、敵の足は止まったし、味方も大勢助かった。しかし、巻き込んだのはアウルム軍だけじゃない。街道も、町も、一緒に壊れた。その後の状態は先程チェリアが述べた通り。
一級への昇格は戦争の功績と言えば聞こえは良い。だが、所詮人殺しの証。この称号は多くの死体を積み上げたことで得た醜悪なものだった。
本当にくだらないと思う。馬鹿馬鹿しいと思う。けれども、辞退することは許されなかった。戒めとして、刻み込まなければならないと思ったから。
こんなこと、チェリアに言う必要はない。それなのに言葉は自然と流れ出る。真実を言って突き放したかった。わざとらしく笑って、軽薄な態度を取って、とにかく嫌われたかった。
「そんな俺がのうのうと生きてるなんておかしいだろ? だからいつ死んでもおかしくない仕事してんだよ」
「そんな……」
チェリアから声は続かない。必死に言葉を選び、そして無言を選んだ。俺の意思に少しでも寄添おうとした結果だろう。優しすぎる彼女には残酷だったかもしれないが発言をしたことは後悔していない。
俺は間違いなく死ぬべき人間だ。それが国を守るためだったとは言え、数えきれない程多くの人間を殺したんだ。許される訳がない。
勿論死ぬことも考えた。けれども、それは違う。死んで楽になるのは奪った命に対してあまりにも不誠実だ。
だから、俺は上司に勧められるがまま推薦を受け、グラウスに来た。どこか戦いの中で、仕方のない死を迎えるために。
「そんで、そのうち消える俺に構うのなんて時間の無駄だろ」
未来の約束も出来ないのに、そんな状態で特定の関係を作るのは、相手にとってよろしくない。不格好な笑みを形成する唇は、結論を告げる。
「だから俺は、愛情を受ける資格がない」
一夜だけの関係で孤独を埋め、恋愛感情は徹底的に潰してきた。それがお互いのためになるのだから。
夜の静寂が辺りを包んでいた。無言のまま歩く中、規則的な足音が重なっていく。その響きは近いはずなのに、距離だけは遠く離れて感じた。
「スヴェンさん、あなたは」
静かな声が沈黙に亀裂を入れた。
「あなたは、生きることまで罰にしているんですね」
空白に割り込んできた言葉に足が縺れ、そのまま足を止める。受け取ろうとして、意味を理解しようとして、結局また拒む。生じたのは酷い胸の痛みだった。チェリアは数歩進んだ先で振り返る。
「話してくれてありがとうございます。でもあたし、そんなんで引く女じゃないんです」
浮かぶ笑みは穏やかで、深い慈愛を湛えていた。責めることも拒むこともなく、何を告げても受け止めてしまいそうな表情に思考が強く揺れる。その気高さは眩しく、見つめることさえ苦しい。なのに、目を逸らすことが出来なかった。
「家近いのでここまでで大丈夫です」
「……ああ、分かった」
笑みを返そうとして、口角が引き攣るのを感じる。俺は今、きっと酷い顔をしているのだろう。だが、取り繕う余裕なんてなかった。目の前の優しさに呑まれ、ただ立ち尽くす。
「おやすみなさい、スヴェンさん」
何もかも抱き留めるようなチェリアの愛情は残酷だった。俺にとってそれは救いのようで、断罪のようで。拒絶したくて、縋りたくて。手を伸ばしそうになるのを耐え、手を振った。
「気をつけて帰れよ」
彼女も手を振り返し、夜の帳の中に消えていく。姿が暗闇に溶けるまで見送る俺が、ただただ嫌になった。




