ざらざら⑬
刃が拘束着に触れ、そのまま両断。するはずだった。
目を離したつもりはない。なのに、ニギギの体が消えていた。文字通り、消えたのだ。
「あー、危なかった……」
声はシモンの後ろから聞こえた。聞こえた瞬間には、ニギギの動作が終わっていた。足が振られ、蹴撃をまともに食らったシモンの体が真横に吹き飛ぶ。
誰もが理解を拒む状況だった。一体何が起こったのか。分からないが足を止めてはいられない。ネルが駆けだした瞬間、目の前で再びニギギの姿が消える。そして、ネルの背後に現れた。
浮かべるのは悦楽の笑み。気味の悪い表情を作る口が開かれ、前傾姿勢になったかと思えばそのまま突進。ネルの横を過ぎる際に顔の横で飛沫が散る。
「……っ!」
苦痛に顔を歪めながらネルが剣を振った。が、再びニギギの姿が消える。五歩先で彼女に向かい合うように現れた。口には何かが咥えられている。肌色で赤い液体が滴る、何かが。
ネルの顔の出血でそれが何か理解する。耳だ。
見せつけるような笑みをニギギは浮かべ、その後すぐに顔を上げる。口の中にネルの耳を含んだのは分かった。だが、異常行動に俺達の思考が止まる。何をやってるんだ、こいつは。
口腔内で軟骨の砕ける鈍い音が広がる。元の形が失われるまでゆっくり咀嚼し、最後に喉が動いた。理解できない。今、飲み込んだのか?
口を開くと、頬の容量を超えた血液が唇の端から零れ落ちた。
「ひ、ひひっ。おいし」
ネルの足がニギギから逃げるように引かれた。恐怖に歪む表情も当たり前の拒絶反応だ。更なる動揺と困惑が彼女の行動を止めていた。俺も不快感で思考が埋め尽くされ、新たな術式を紡ぐ手が止まっている。
「な、なんですか、あなた! 私の、耳を……!」
瞳は目の前の存在を捉えているのに、頭が現実として認めることを拒んでいた。受け入れられるわけがない、人体を食らう行為など。あまりにも悍ましい行動に視線が震える。
俺達の表情を受け、ニギギは一瞬だけ動きを止めた。次いで唇を噛みしめ、怒りを目元に滲ませる。
「何だよ、その目」
低く、腹の底から絞り出されたような怨嗟の声。そこに先程の口籠るような響きはない。口調自体が変わっていた。
ネルの顔を流れる血液が地面に染みを作るとき、彼女も表情を戻す。そうだ、いつまでも止まっていられない。異常思考を理解しようとするなんて時間の無駄だ。ネルが疾駆を再開し、その途中で『軽重操法』を発動。攻撃の衝撃が風となって落ち葉を揺らす。
「気持ち悪い! 気持ち悪いです! 人を食べるなんてっ!」
繰り出す剣戟と共に叫ぶ。ニギギは更に顔を歪ませた。
「お前らだって人を斬ってるだろうが!」
それとこれとは全く違う。違うのにその二つが結び付いてしまうのは彼の異常性故だろう。
それよりも、先程のニギギの動きだ。速いのではない。回り込んだわけでもない。ただ、彼の位置が変わっていた。該当する術式はある。あり得ないが、存在はする。記憶を辿り、名称を呼び起こす。
「『虚路跳越瞬遷移法』か……!」
使っていると思われる魔法の名を上げると、ニギギの口の端が歪むのが見えた。そして、正面に捉えていたはずの彼の体が消える。
「正解」
今度は俺の真後ろから声がした。血で生臭い息が首元を撫でるような気配。吐き気にも似た嫌悪感が体を貫き、一呼吸だけ動きが止まる。まずいと思いつつ振り返る間に、風が通り抜けた。シモンが横から衝突し、俺達の間に割って入る。律儀に礼を言う間などなく、すかさず距離を取った。
クソ、厄介すぎる。『虚路跳越瞬遷移法』、転移を可能とする超高位魔法だ。
転移通路に応用される術式だが、個人での魔法の再現は現実的ではない。教本の隅に書かれるような幻の魔法だ。多分、アーティファクトに内包されているか、その力を借りて発動を可能としているのだろう。先程から続く、不可解な位置から放たれる狙撃魔法も転移魔法を被せ応用していると考えて良い。
シモンが腕を払い、ニギギの体が浮く。『槍弩』を三本放つと、ニギギは空中で体勢を整えながら同じ術式を同じだけ展開。槍同士を衝突させて直撃を阻止、かと思ったが、後から発動したニギギの術式の内一本が不発。無事の一本が肩に突き立った。ニギギの表情が呆気に囚われたのを見た直後、再び視界が揺れた。
鋭い頭痛と、瞬時に湧き上がる吐き気。後ろで治療を受けるネルが呻き声が聞こえた。間違いない、マナ中毒だ。
着地したニギギが突進。同時にシモンが進み、斬り上げ、衝突地点で靴の底が刃を受け止めた。
「てめえら! 何しやがった!」
怒りに歪む顔が怒鳴り声を上げる。先程の魔法の不発を俺達のせいだと思っているらしい。俺達はたまに不発になるこの状況は経験済。この場でニギギだけが理解していない。
いつの間にかニギギの肩の傷は塞がっている様子だった。こいつ、治癒魔法まで使えんのか、被虐趣味のくせに。
シモンとニギギ、一緒に弾かれ、再び衝突。剣と足が絡み合う。数多の衝突音。幾多の火花。俺の目では捉えられない程の攻撃が重なっていく。
シモンの腕が僅かに下がったその一瞬、ニギギの脚が胴体へと向かった。左手で受けようとするも、脚は顔面への軌道へ変化。身体を逸らせることで避けるも、ニギギの動きは止まらない。
もう片方の足を軸に急速旋回。防御姿勢を崩したシモンへ、回し蹴りの二撃目を放つ。咄嗟に腕を掲げるが、大剣を受け止める脚力と拮抗出来るわけがない。シモンの体躯が浮き、横に振られる。
二人の間に距離ができた瞬間、『電聚灼雷砲』を放つが一呼吸遅い。白光の帯はニギギのフードの端を焦がす程度で撤退される。
ニギギは下がりながら更に追撃。『鋼鉄穿呀砲』が急速展開され、破裂するような射出音と共にシモンに放たれた。打ち出された砲弾はシモンの右上腕にめり込み、そのまま抜ける。握られたままの大剣と共に右腕が飛んで行った。
援護のための術式を紡ごうとするが、再び殴られたような頭痛に見舞われる。激痛に式が乱れ、一部の展開をやめる。正しく書けた術式は『爆炸』二つのみ。それでも、ニギギの前進を防ぐには十分だ!
利き手を吹き飛ばされたシモンも空中で術式を紡いだ。爆炎の中、彼の得意術式が組み上がり、魔法となって顕現する。
失った右腕に四重の輪が広がるのと同時に切断面から急速に繊維が伸びていく。骨となり、筋肉が付き、肉が乗った瞬間、膨張。一回り大きい腕の表面に獣毛が覆い、手の先には鋭い爪が伸びていく。局所的獣化術式『転獣被法』だ。
飛ばされたままのシモンが木の幹を掴み、腕力だけで体を前方に引き上げる。そのまま別の幹へ突進。途中で体を回転させ、垂直のまま着地。更に蹴り上げ、幹から幹へ、空中を縦横無尽に駆ける。
終着点は勿論ニギギ。突撃と共に振り下ろされる五指の刃を足で受け、一度弾かれると再び直進。
「なんだそれ!」
部分的に獣化という、珍しい魔法を前にニギギが笑う。対するシモンも口角を吊り上げた。
「貴様を引き裂く術式だ」
シモンの回答にニギギの表情が固まり、直後、歪む。開かれた口から哄笑が上がり、鈍音の間を縫ってこの場に広がった。対するシモンも声を上げて笑っていた。駄目だ、理解できない。異常者と戦闘狂のことなど、理解しなくて良い。
足と腕、単純な力のぶつかり合いが続く。シモンの五指が頬を裂き肩を削る。ニギギの足先が骨を打ち脇腹を抉る。飛び交う鮮血と鈍い打音の間に、戦いに身を投じる者達の声が聞こえた。
ニギギはシモンの腕を半身で避け、直後の動作で潜り込もうとする。狙うのは背後か。シモンも迷わず進み、すれ違った後互いに急速旋回。
「シモン!」
動作中にネルが叫んだ。遠心力を付け、シモンに向かって何かを投擲。投げられたのは先程吹き飛ばされた大剣だった。
シモンが柄を掴み、回転の勢いと共に振る。ニギギは一瞬の判断で後方転回。剣がフードの先頭を削る中、シモンの正面へと砲弾を発射。獣の腕と大剣、更に強化された筋力の中、一瞬で迫る弾頭に迷わず切り返した刃を振るう。
鉄塊と刃が衝突し、シモンの腕が僅かに押された。衝撃の圧と痛みに顔を歪めるながら、左手も柄に沿え更に足を踏み出した。そして、腕を振り切る!
砲弾は二つに分かれ崩壊。左右に流れ轟音を立てながら地面に突き刺さった後粒子となって散っていく。一部始終を見ていたニギギは着地後、声を上げて笑っていた。どちらかというと称賛に近い。あの超至近距離で砲弾を見極め叩き切ったのだ。笑いたくもなる。
シモンも笑みで返すが、眉間には苦痛の皺が刻まれたまま。右腕の代わりに生やした獣の腕も限界に近い。
魔法を解除しつつ後退。リーナがシモンの治療に移る間、代わりにネルが前に出た。
『軽重操法』を発動。今回は重量増加ではなく軽量化、引かれた腕から放たれるのは神速の刺突だった。目にも止まらぬ高速の連撃をニギギは屈み、逸らし、躱していく。避けきれなかった刃が胸部を掠め、拘束着を引き裂いた。
肌には届いていないにも関わらず、ニギギからは歓喜の声が上がる。耳に粘りつくような高音にネルは顔を歪め、それを見てさらに高揚した。
「良いなその顔! ちゃんと俺を見てる!」
「そうだけど! そうじゃありません!」
ネルが叫ぶ。言動が、思考が全く理解できないのだ。俺だってこの化物のことを理解したくない。だが、なんとなく分かってしまう。
ニギギは戦いを通して他者と触れ合い、それを関わりとして喜んでいるんだ。最悪も最悪。無視するのが正解であるのだが、不快にも関わらず返してしまうのがネルの律儀さ。反応すればする程、ニギギが喜ぶのにも関わらず。
剣戟の間、ニギギの大腿が浮いた。ネルは蹴りに移行される前に肘で受け止める。直後に軽量化を解除。剣が衣服の端を捉え、そのまま斬り上げる。が、ニギギは瞬間移動で回避。
移動場所はネルの背後、だが、半歩程ずれた位置に出現。ニギギの回転と共に振られる足を屈んで避け、横に跳躍。彼女の予想通り『鋼鉄穿呀砲』が髪を掠めていった。
砲弾の爆音に紛れ、軋んだ音が中央から響く。九重の術式が揺れたかと思えば、周囲の空間が僅かに歪む。マナの照射が再び来る。
これまでの蓄積か、これまでより強いのか。視界が左右に振られ、これまでにない痛みに頭を締め付けられる。意識が頭痛に引っ張られそうだ。
鈍い物音に目を向けると、ネルが着地できないまま倒れていた。起き上がる様子は、ない。
まずいと思った瞬間、無意識に魔法を発動していた。目眩ましの『爆炸』二連発に牽制の『槍弩』三本。狙いは精密でなくてもいい。とにかく、彼女から遠ざけらればいいのだから。
治療を終えたシモンが走り、ネルの襟を掴むと俺に投げた。小柄と言えども、一六〇cm以上ある身体を受け、後ろに転倒。ネルに余計な怪我はない、無事緩衝材となれたようだ。
ネルを寝かせ、状態を見る。呼びかけ、肩を叩くも意識が戻る様子はない。顔はとてつもなく青白いが呼吸はある。間違いない、マナ中毒だ。
「スヴェン、これ」
歩み寄ったリーナが治療を施そうとして止めた。俺と同じ結論に至ったらしい。これは、治癒魔法でなんとかできる状態じゃない。応急処置として彼女の剣を胸の上に乗せる。とりあえず今は、魔具のマナ中和機能に任せるしかない。
前回の魔物の討伐時と違い、今回は魔法を使えている。けれども、今起こっている現象は前回の方がマシだと思える程だった。あの魔具から一定間隔でマナが照射されているのだろうか。いや、思い返しても等間隔ではない。
だが何かあるはずだ。必ず何らかの魔法を使った後に照射がきている。その前に減退が重なることも。つまり、攻撃で使用したマナをあの魔具が吸い込み、放っている?
しばらく目を離していた戦場に目を向けると、シモンが剣を振り下ろすところだった。ニギギが『虚路跳越瞬遷移法』で転移。シモンが振り返り足を止める。やはりニギギは自分が有利を取れる位置に移動している。
でも、やっぱりそうだ。先程の違和感は間違いではない。やはり半歩ずれている。彼の脚のリーチから考えて、どう見ても距離が遠い。最初はもっと嫌な位置に移動できていたのにも関わらず。あのニギギがそんなミスをするのか?
一つの戦闘に複数の疑問が積み上がっていく。頭を過るのは撤退の二文字。いや、しかし、ニギギの転移魔法は面倒だが、対応出来ない程ではない。
考えている間にシモンの恒常発動魔法である強化術式の出力が上がっていく。ニギギの脚が弾かれ、一気に体制が崩れた。手首を返した振り下ろしが行われる、今だ。
予測した地点に打ち込んだのは二本の『槍弩』。一本は外れ、もう一本は左肩に突き刺さる。両方当てるつもりだったが十分だ。転移のタイミングと場所は簡単に予測できる。前衛達に転移を誘発させ、転移後の無防備になった瞬間に照準を合わせればやれば良い。そうすれば攻撃魔法を当てられる。
両口角を釣り上げたニギギが俺を見た。歪な表情に寒気が背中を這い上がる。異常者の笑みはやっぱり不快でしかない。
俺に視線を向けたその一瞬で再びシモンの有利。そして、ニギギの転移が見える。俺は振り返りながら展開していた『鋼鉄穿呀砲』を射出。ニギギが舌打ちと共に屈み回避。次は俺の所に来ることくらい予測済だ馬鹿野郎!
詰められる前に『雷牙』を打ちつつ後退。三発目の雷撃を打った瞬間、中央の魔具が激しい軋声を上げた。
放たれるマナに霞む視界の中、一瞬だけニギギの動きが鈍った。今まで何ともないような動きをしていたが、この環境下で少なからず影響は受けているらしい。頭痛は最悪だがそれが分かっただけ十分だ。
けれども正面から向かってくるニギギはまだまだ元気。何度か攻撃を受けていたはずだが全て治癒済だった。ただ拘束衣の肩、胸部、裾の布が破れているだけ。裾?
頭痛に頭を圧迫される中、再び放った『雷牙』は想定以上の威力で放たれた。頭が痛すぎて理由を考えている余裕なんてない。
シモンが間に入った所で膝を付く。目眩が酷い。強烈な吐き気に口元を手で覆った。深い呼吸を繰り返し、ようやく治まった。徐々に中毒症状が増していく。長期戦は危険だと、そう考えた瞬間、横で重い音が跳ねた。嫌な予感。見たくないが確認しなければならない。
治療に徹していたリーナが倒れていた。




