花果山の時間スケール(西遊記第28回から)
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悟空が二郎真君に破れた西暦1世紀前半、花果山は大噴火を起こして完全に焼けてしまった。その約550年後(八卦炉に入れられた49年と、両界山に押さえつけられて観音菩薩が来るまでの500年と、それから、玄奘に入門して一回目の破門をされるまで等のロスタイムを加えるとこのようになる)、悟空は花果山に里帰りを果たし、再び緑の山に修復する。西遊記第28回の記述によると桃まで復活したとある。
これは即ち、花果山で、火山爆発後の生態系の復活に約500年かかった事、果樹の再生に500年しかかからなった事を示す。しかも悟空が戻るまで550年間、裸に近い山だったということだ。これらは、一見、不合理に見える。
温暖な土地で溶岩の上に土壌が形成されるタイムスケールは数百年であり、それを見るのに一番良い例として桜島や口永良部島を始めとする西南諸島の火山島、鳥島をはじめとする伊豆諸島の火山島、ハワイ諸島のハワイ島、カナリー諸島のランサローテ島がある。いずれも緑が少しづつ増えており、森が形成される時間スケールは50年でも1000年でもない。
ただし550年は少し長い。というのも、爆発性の噴火に伴う山火事で山が焼けた場合、残った土壌を拠点として植生が溶岩域を素早く浸食し、更に風や鳥による種子の拡散が島内で済むので速くなるので、草原の復活が50-100年のスケール、森の復活が100-200年になるからだ。北極圏の鉱山の露天掘りの後の岩盤ですら、50年で灌木林が出来ているそうだ。何処かに少しでも土壌が残っていたら、500年後に丸裸というのは花果山の緯度ではあり得ない。
とはいえ、西ノ島のように、花果山も新たな溶岩が島全体を覆ったとすると、桃の復活に500年は短すぎる。種子が大き過ぎて、鳥が種ごと果実を食べる訳でなく、綿毛で種を運ぶわけでも無いからだ。更に、松やヤシのように塩分の多い水の上を漂流して、種が生き延びるわけでもない。
これらの条件を考えると、花果山で島全体が焼けたとはいえ、溶岩が襲わなかったところもある筈だ。
そういう場所の一つに水簾洞があり、第28回の記述によれば、以前と同じ形だったようだ。水の流れる低地である事を考慮すれば、水簾洞の近くだけ溶岩流が来なかったことを示している。
そのかわり、溶岩の埋め残しである水簾洞の近くですら、火山弾や火砕流が完全に地表を覆ったと考えるのが自然だろう。
事情は、火山灰による急激な土壌の酸化でも同様だ。植生を変えはするが、花果山のあると思しき緯度では、緑の復活まで100年、灌木林・森の復活にも200年かからないだろう。1000mを超える高山でなく、海面から顔を出す低山であって、気候が温暖だからだ。
もちろん噴火活動は大爆発の後も阿蘇や桜島のようにくすぶり続ける。しかし、全島レベルで島の温度が高いのはせいぜい100年で、全島レベルで山が焼けるような大噴火が100年ごとに起こらない限り無理だろう。そういう大噴火が何度も起こっていれば、それは記録に残る筈だが、それはどこにもないのである。
したがって、他の火山と同じく、溶岩の上をじわじわと緑が復活したと考えるのが自然だ。そして、種子の大きい果樹類は、水簾洞の近くの埋め残しのみで生き残ったのだろう。
さて、第28回の記述によれば、大噴火後550年も裸山だったのに、悟空が戻ったあとに急速に緑が復活している。これらを理解するには、緑の復活過程を時間を追って考える必要がある。
まず火山活動が収まって島の温度が適温になるのに100年ほどかかりうる。その後、岩肌にひびがはいり、次第に元素が溶け出して、地衣類が覆うのに100年単位かかる。そこから高さ10-20cm程度の灌木や草(ツツジや高山植物)が点々に広がるのに100年単位かかり、次第に植生の基礎ができた所に、松等が生え始めたら、その後は急速に植生が広がるのである。この境目の時期に悟空が戻ってきたと考えられよう。
大噴火から550年後あたりを境に急速に森が復活したというのはあり得ることなのである。
もっとも、通常の植生復活の流れ以外にも「ある時期を境に急速に森が復活する」というシナリオはある。それは気候変動だ。
中央アジアやモンゴルの草原地帯の遊牧民は、草が生える(しかし生えすぎない)所に移動するが、その平均的な緯度はユーラシア大陸の気候変動と連動する。寒冷化や砂漠化、イシク湖(さまよえる湖)の移動などで草原地帯の消失が起こると、草原を必要とする遊牧民族は、立て替え地を求めて、南に南東に南西に向かわざるをえない。これが「異民族の侵入」という歴史的事件の真相で、天孫降臨もその一つだ。
逆に温暖化も民族移動(拡散)を促す。北欧バイキングがグリーンランドに向かったのも中世の温暖化(10~14世紀)が原因だそうだ。
欧州とアジアでは温暖化の時期も寒冷化の時期も異なるので、欧州の気温の記録は当てならない。それでも、異民族侵入や北方開拓、南方開拓などを東アジアの気候変動の結果とみなすことで、逆に昔の地域別の気候変動を推定することも可能だ。
それに従うなら、随から唐の時代は温暖化が進んだと思われ、それ故に大和朝廷も温暖で作物が簡単に実る熊襲に対して優位に立てたと考えられる。つまり東アジア全体で気候変動があったと想定できるのである。
そういう気候変動は太平洋高気圧の中心位置にも影響を与え、小笠原諸島・西南諸島(花果山の候補地、第1回参照)の降雨の年間分布にも影響を与えただろう。
つまり、6世紀後半になって花果山の森の復活が加速した背景には、気候変動があった可能性もある。時期的に随代や大和朝廷の成立と同時期であり、温暖化は確かにあったはずだ。
500年は人間の寿命より余りにも長く、それ故に検証はかなり大変だと思われる。しかも全島レベルのリセットというのは例が少ない。その意味で、西ノ島は貴重だ。記録を向こう500年に渡って取り続けることは非常に重要だと思われる。
written 2009-2-22 (revised 2020-9-14)
恐らく、次回(第30回、明日更新)の後は当面中断となります。英気を養わないとアイデアが陳腐(だれでも思いつく)になってしまうので。




