11<あの日と、春への準備>
「ふ、ふ、ふ」
にやけが止まらない。目に映る全てが薔薇色に見える。
踊り出したい気持ちを抑えながら、私は学校から家路を急いでいた。
真冬の風が容赦なく頬に吹きつけて寒いはずなのに、そんなのちっとも感じない。なぜなら心は超ホットだから!
──『自分ばっかり俺のこと好きで、ドキドキしてるって、思ってるだろ』
あの日の七緒の台詞を思い出すだけで、今にもハートが燃え上がりそうだから!
「うふ、ふ、ふ」
あの「ドキドキが止まらねぇよ事件」(もちろん私が命名)から約3週間が経った。
そしてそれだけの日数を経た今でも、あの日の出来事は私の中で絶大な存在感を示し続けている。
七緒は、私のことをちゃんと彼女として見てくれていた。平常心でいられないのは、私だけじゃなかった。あの見せかけクールボーイは、彼女である私の何気ない可憐な仕草にときめいて胸が苦しくてもうどうしていいかわかんないくらいドキドキしてしまうらしい。ふーん。へーぇ。……うへへへ。
七緒はあれ以来私に対して急に甘い態度を取るようになりましたなんてことは決してなく、一見するとそれまでとなんら変わらない。
だけど私はもう知っている。七緒が今までの七緒じゃないってことを! 余裕ぶったって無駄だ!(先週テンション上がって一度「おいドキドキしてんだろ?隠すなよ」的なこと言ったら頭ぶん殴られました)
その事実を胸で再確認するだけでもう嬉しくて嬉しくて、天にも昇る気持ち。
うへ、やばい、にやけがMaxレベル。
「あぁ、変な奴がいると思ったら、やっぱり杉崎だ」
ふいに背後からかけられた声に振り向くと、そこには制服姿の山上がいた。
2月だというのにコートもマフラーもつけず、相変わらず学ランとワイシャツを第2ボタンまで開けている。
「山上……!」
「久しぶりだな。年末以来か」
ニカッと笑って右手を上げる山上。
「杉崎さー、いくら気分良くても街中でスキップはやめといた方がいいぜ」
「えっ? 私スキップしてた?」
「あぁ、そりゃもうハッキリと。他人のふりしようか一瞬迷っちまったよ」
恥ずかしさで死にそうになる。確かにそんな衝動に駆られてはいたけど、抑えられているつもりだったのにな。無意識って怖い。
羞恥心に唇を噛む私をにやにやと可笑しそうに見つめる山上。その肩に柔道着のセットが担がれていることに、今になって気付いた。
山上は確か、志望校である西有坂高校の柔道部の活動に去年から参加していたはず。将来有望な選手である彼は、1月の推薦入試が終わる前からそういう特例が認められていたのだ。
そして、2月に入った今もこうして参加し続けているということは、つまり……。
「山上」
「ん?」
「あの……もしかして、西有坂高に合格したってこと……だよね?」
私の問いに、山上は爽やかに答えた。
「あぁ、おかげさまで」
「すごい! 良かったね! おめでとう!」
「サンキュ」
力いっぱい拍手を贈った。まるで自分のことのように嬉しい。だって山上は、努力と圧倒的な実力でこの合格を手にしたんだもの。焦燥感ややっかみの気持ちなんて起きない。ただただ、尊敬と祝福だ。
それに加えて彼は、受験を間近に控えた私を前にしても自分の合格を特に隠したり申し訳なさそうにすることなく、からりと笑顔で報告してくれた。そういうところがすごく山上らしいし、さっぱりしていて良いなと思った。
「杉崎は来週か」
「うん。ちょうどあと1週間後」
「そっか、頑張れよ」
「ありがとう。まぁやれるだけやるよ」
「しかし、この時期の中3生とは思えないほどの幸せヅラだな。無理もねぇか」
「え……」
いくらかの含みを持ったようなその口調に、思わず固まる。
山上は、にぃっと笑って私を見据えた。
「東から聞いてるから知ってる。お前ら、ついにくっついたらしいな」
自分の頬が、ぽっと上気するのを感じた。街中でにやにや笑ってスキップまでしておいて何を今更、と言われそうだけど、なんだか急に恥じらいの気持ちが芽生えてきたのだ。なんだろう。山上に言われると、すんごく照れる。胸にくるものがある。
というか七緒、山上に報告なんてしていたんだ。本来あんまりそういうことするタイプじゃないと思うけど、一体どんなふうに伝えたんだろう……。
「良かったじゃん。おめでとって言っといてやるよ」
と、からかうように山上。
「あ、ありがとう……」
「つーかあのタイミングで上手くいったのってほぼ俺のおかげみてぇなもんじゃね?」
私はむむむと黙り込んだ。
た、確かに……。イブの日に七緒と気持ちが通じ合ったのは、山上が私をあの場に呼びだしてくれたという一因が大きい。
だって、その瞬間の数秒前まで、私も七緒もとんでもない誤解──お互いに違う好きな人がいるというアホな思い違い──をしていた。もし山上の作ってくれたようなきっかけがなかったら、いまだにその状況が続いていたかも。「ねぇ。恋を諦めるのって、こんなにツライんだね……。まるで目には見えない涙の雫が私の胸のひび割れたガラスのハートを云々」とか、痛ポエムを延々と美里に垂れ流していたかもしれないのだ。
私は深々と頭を下げた。
「今日の私の幸せはあなたのおかげです。たくさん面倒を見ていただき、まことにありがとうございます山上様……」
「おうおう、苦しうない、顔を上げい」
山上が満足気にそう言って、私の姿勢を直させた。
西有坂高校へ向かう山上と、自宅へ帰る私の道のりは、途中まで同じだ。
私たちは冬の街路樹を並んで歩いた。
「部活はどう? 放課後も休日も参加してるんだよね。もうすっかり慣れて西有坂高校の柔道部員って感じ?」
「はは、そんなわけねーよ。やっぱ高校の先輩たちはすげぇんだ。まだその中に中坊1人混ぜてもらってるって感じだな」
「えー、山上レベルでもそうなの?」
「あぁ、俺はまだまだだ。でも、毎回色々学ばせてもらってるよ。すっげぇ楽しい」
そう語る山上は本当に楽しそうで、私までうきうきしてきた。
七緒もよく見せる、こういう表情。自分の好きなことを語る時の──、高い壁を乗り越える自信に満ちた、男の子特有の顔だ。
「いいなぁ」
思わず呟いた私を、山上が豪快に笑い飛ばした。
「杉崎こそ休日はどうなんだ。デートとかしてんのか」
「いやいや、受験生だもん。そんなの1回もないよ」
「ま、そりゃそうか。でもそれが終わればどこへでも出かけ放題だろ」
「……」
私は思い出した。この間、七緒が言ってくれた言葉──『試験終わったら、どっか行きたい所とかあるか』。
そういえばまだ全然決められていないけど、どうしよう。デートの定番っぽく、遊園地とか? でも去年美里と田辺と4人で行っているし、せっかくだから初めての場所の方がいいかなぁ。でもそうなると少し遠出しなきゃいけなくなるし、うーん。あとは映画とか水族館もデートっぽいなぁ。
すかさず山上に「おい、にやけてんぞ」と小突かれた。
というか今更だけど、こういうのろけ話を山上相手に繰り広げるのって、どうなんだろう……。仮にも、一応、その……一度告白をお断りしているわけだし。これって相当無神経っぽいというか……。
「杉崎、今すげー良い女気取りなこと考えてんだろ」
「え……」
固まった私を、山上が鼻で笑う。
え、えぇ……?
「一応言っておくけどそういうの考えるだけ無駄だからな。別に俺、杉崎の言動に心痛めたり想いを募らせたり一切しねーから。俺に気ぃ使ったらその瞬間大外刈りってことで、よろしく」
細かな言い回しにかなり気になる部分があったけど、山上の目はまっすぐで、嘘をついているようには見えなかった。
……なんだよ、恥ずかしいじゃん私。こうなったら思う存分にやけさせてもらおう。
「うへへ」
「東の入試も来週か?」
「そうだよ。来週の頭」
「そうか」
「……」
長く苦しかった受験生ライフが来週には終わる。
それはなんだか不思議で、現実味のないことだった。
「杉崎、今すっげー幸せだろ」
「うん。自分でも思うけど、正直かなり浮かれてるね」
「そりゃあ、何よりだ」
と、山上が言う。
彼にしてはめずらしく、少しの間をおいてのレスポンスだった。だから私は──なんとなくわかってしまった。山上が言いたいこと。
「……あのさ、山上」
「なんだ」
「私、ずっとこのままいたいとは思ってないよ。ちゃんと春が来てほしいって思ってる。……そしたら、七緒は遠くに行っちゃうわけだけどね」
「……あぁ」
「でも多分……大丈夫だと思う」
とても漠然とした感情だった。あまりにふわっとしすぎて、山上に呆れられるんじゃないかと思ったくらい。だけど彼は、別にバカにすることもなく、黙って頷いてくれた。
4月になったら、七緒は自分の夢を掴みに、遠く離れた場所へ行く──。
幼い頃から七緒が側にいた私にとって、それは今までに経験したことのない日々だ。
何が起きるかわからない。
どんな気持ちで、何を思って過ごすのか。そんなの、その時の本人にしかわからない。
でも、なんだかすごく、「大丈夫」だと思えるの。
「俺も、お前らは大丈夫だと思うよ」
「ふふ、ありがとう」
山上の言葉が心強い。
だから私も、心からの笑顔で頷くことができた。
「っていうか正直それよりも自分が第一志望に受かるかどうかの方が現段階では不安だよ……」
先月あった最後の模試でも私はB判定に踏みとどまっていた。まだ安全圏ではない。
それを説明すると、山上が今日一番の(いや、もしかしたら出会ってから今までの中で一番の)ぎょっとした顔を見せた。
「おいおい、直前にB判定って……お前、なかなかの博打だな」
「でしょ? いやー、昔からそういうとこあるんだよねぇ私って」
褒めてねぇぞ、と山上が腹を抱えて笑った。