第9話 八つ数える間
城の中は、思っていたより暗かった。
窓の高い所に穴があり、そこから入る日が床の一部だけを照らしていた。旗も、絵もない。廊下の壁には、魔物の爪で擦られたような跡が残っていた。
俺たちは、前の隊が開けた通路を進んだ。
ミレナはサビナの横にいた。両脇には見張りがついている。
歩いているうちに、妻の左手が少しずつ曲がった。
俺はその手を見た。
「聞こえるか」
ミレナが頷いた。
「戻れって」
「自分で、歩けるか」
「まだ、歩ける」
彼女は足を止めず、数歩進んでから、サビナへ自分の手を見せた。
指を開き、閉じる。
自分でできていると、確かめていた。
前から、衝撃が伝わってきた。
石の欠片が天井から落ち、俺は妻の前へ出かけた。
見張りの一人が先に盾を上げた。俺はその後ろで、道に残る術を見た。
役割を替えるな。
自分へ言い、足を捕らえる輪を切った。
廊下の先の扉は、半分だけ開いていた。
ルーカスが中を見て、手を上げた。
「本体を、押さえている。入れる」
俺は息を吸った。
ミレナが、俺の袖を一度だけ掴んだ。
振り向くと、彼女はもう離していた。
その手で、自分の胸を押さえた。
俺たちは中へ入った。
*
魔王は、人の形をしていた。
妻と同じ髪の色だった。
それに気づいた瞬間、俺は足を止めかけた。
肌の色も、目の奥の薄い光も似ている。だが、顔は違った。こちらを見た目には、俺の見知った表情がなかった。
両腕を、壁際の柱へ押さえられていた。
ダニエルと数人の兵が前に立ち、床から伸ばした拘束の術を魔術師たちが保っている。腕を動かせなければ、魔物への新しい命令や、結びの作り替えを行いにくい。外壁の戦いで分かったことを、隊はここでも使っていた。
胸には、黒い殻のような守りがあった。兵の槍が突くと表面が砕け、その下にまた薄い層が現れた。攻撃を重ね、戻るより先に削り切ろうとしている。
俺たちが入っても、その手は止まらなかった。
完全に、動けないわけではなかった。
魔王が肩を引くたび、床の輪が軋む。支えている術者の一人が、膝をついていた。
「根は」
ダニエルが俺へ聞いた。
俺は剣を上げた。
目を凝らす。
部屋の中には、幾つもの結びが見えた。外の魔物へ続くもの。身体を守るもの。魔王自身が保っているもの。
その中に、妻へ向かう一本があった。
こちらが切断を試してきた痕が、途中に幾つも残っている。
俺は、それを辿った。
「見える。左手の、外側だ」
「道を空ける。ルーカス、支えられるか」
「短い間なら」
俺は前へ出た。
サビナたちも、妻を連れて近づいた。身体を横にできるよう、床へ敷布を置く。
魔王が口を開いた。
俺には、低く息を吐く音しか聞こえなかった。
ミレナの膝が折れた。
見張りが支え、サビナがすぐに脈を取った。
「ミレナ。今、誰が話しているか、分かる?」
妻は頷きかけ、止まった。
右手が、二度動いた。
中止の合図だ。
俺は剣を下げた。
サビナが薬を取る。
その時、ルーカスが一歩前へ出て、ミレナの左手の布へ魔力を流した。伝令の声を鈍らせていた術を、すぐ傍で支え直す。
ミレナが息を吸った。
「待って」
掠れた、自分の声だった。
俺は動かなかった。
待つと決めるのは、俺ではない。
サビナが彼女の顔を見た。
「指を開いて。私の言った数だけ、握って」
一度。三度。一度。
ミレナは、そのとおりに動かした。
ルーカスは膝をついたまま、布へ力を流していた。
「これで長くは、持たない。声を遠ざけているだけだ」
俺は妻へ近づいた。
「続けたいか」
ミレナが頷いた。
「生きたい」
サビナが目で俺へ合図した。
俺は剣を持ち直した。
*
ルーカスはミレナの布を支える術を、後ろに控えていた術師へ引き継いだ。相手が流れを受け取ったと頷くまで、手を離さなかった。
それを確かめてから、俺の横へ来た。
根を捉えるために、俺は魔王の左手の近くへ出た。
その腕を押さえている兵の一人が、俺を見る。
「いけるか」
「やる」
俺は返事をし、外の結びへ刃を当てた。
切る場所は、ミレナの身体の中ではなかった。
魔王から流れ出る力が一度折り返し、相手の命を保つ形へ変わる、その箇所だった。ここなら、供給元の根と、妻へ繋がる側の境を見分けられる。根を残せば、また結ばれる。深く入りすぎれば、残すべき妻の結びまで裂いてしまう。
俺は刃の位置を決めた。
ミレナは床の敷布へ横になっていた。
サビナの手を右手で握り、息を吸う。
ゆっくり吐く。
確認の間に、何度もやってきた呼吸だった。
「入れるぞ」
俺が言うと、ルーカスが頷いた。
刃へ魔力を流した。
根が、裂け始めた。
魔王が腕を引いた。押さえていた兵が歯を食いしばる。
俺はそれ以上、力で押さえ込もうとしなかった。
根の中にある、結びの境を探した。
外の力と、ミレナの中で育ったものは、まだ繋がっていた。彼女の小さな結びを残し、外だけを外す。
剣の先で、わずかに角度を変えた。
妻の息が止まった。
「補って」
サビナが言った。
俺は、自分の胸の下にある通り道を開いた。
普段は、一息で腕へ力を出し、次に使う分を残す。
その残す分を、止めずに流した。
胸が焼けた。
腕が、内側から裂けるようだった。
俺は奥歯を噛み、妻の結びを見た。
小さな輪が、一度縮んだ。
戻った。
外からの供給ではなく、自分の働きで、もう一度動こうとしている。
「一つ」
サビナが数えた。
呼吸が戻った。
俺は目を離さなかった。
「二つ」
膝が床についた。
魔王の左腕が大きく動き、俺の肩へ石が落ちた。
誰かが盾を被せた。
横で、槍の穂が殻を削る音がした。ダニエルが次の攻撃を指示していた。俺の終わりを待つ声ではなかった。
暗くなった視界の中で、妻の結びだけを見続けた。
「三つ。四つ」
俺の力は、もう普段の流れ方ではなかった。
通り道を保つもの自体が崩れている。
ここを使い切れば、二度と、あの輪を切る仕事はできない。
そう考えた瞬間、怖くなった。
明日から、どうする。
握った剣が、重かった。
俺は自分の名前を、頭の中で一度言った。
バルト。
術を使う前から、そう呼ばれていた。
俺は妻の結びへ目を戻した。
彼女の指は、サビナの袖を握っていた。
家にいた時、眠りの浅い夜には、俺の寝間着の端を掴んだ。起きているか尋ねると、眠っていると答えた。
それで俺も、返事をしないふりをして、少し近くへ寄った。
今、触れている相手は俺ではない。
それでよかった。
俺が倒れても、この人の隣に残って、呼び続けてくれる人がいる。
サビナが、自分で息を吐くようにと、短く声を掛けた。
ミレナの指が、一度緩んだ。
次の息で、また握った。
俺は、刃を動かさなかった。
ここで待つべきなのは、妻の身体が次を選ぶまでの、ほんの短い時間だった。
「五つ」
ミレナの口が動いた。
サビナの呼吸に合わせ、もう一度、自分で息を吐いた。
魔王の根が、俺の刃から外れた。
切れたのだと、分かった。
だが、妻の結びはまだ揺れていた。
「六つ」
ルーカスが俺の肩へ触れた。
補う流れの残りを、見ている。
俺は彼を見なかった。
「七つ」
妻の輪が、縮んだ。
もう一度、戻った。
今度は、俺の力が入らない側でも、同じ形を保った。
「八つ。止めて」
声が二つ重なった。
俺は、流れを断った。
切るべき場所は、教えられていた。
胸の下から腕へ出ていた、俺自身の通り道。
そこを、閉じた。
剣が手から落ちた。
*
音が、遠くなった。
誰かが俺を引いた。
床を擦る感覚があり、肩へ腕が回る。
俺は妻を見ようとした。
目がうまく動かなかった。
「生きてる」
サビナの声がした。
俺に言ったのか、妻のことなのか分からなかった。
魔王が叫んだ。
そのあとで、石の砕ける音がした。
俺の見えない所で、戦いは続いていた。
根を切ったからといって、魔王自身が死ぬわけではない。
ダニエルたちは、重ねた攻撃で胸の守りを割り、押さえていた腕の下から、刃を届かせたという。
そこから先のことは、あとで聞いた。
俺はその時、床に落ちた妻の右手を見つけていた。
指に、銀の輪があった。
手を伸ばした。
届かなかった。
「今は、動くな」
ルーカスに止められた。
俺は、ミレナの指が動くのを見た。
握る。
開く。
一度だけ。
俺は、それを見たまま目を閉じた。




