第8話 待たない約束
進撃の日は、最初に聞いた予定から二日早まった。
南の高所を押さえた部隊が、外壁を守っていた魔物を退けた。東の道も通るようになり、主力が先へ入れるという。
ダニエルは、俺たちを地図の前へ集めた。
ミレナもいた。
正式に同行を許可する判断が出たのは、その朝だった。
前日の確認では、彼女は外の供給なしで三分を越えていた。完全に自立したと断言できる長さではない。だが、その間、熱も脈も下がらず、自分で起きて話せた。
腕の傷も、内部の腫れが引いていた。
最後の処置を試すだけの状態にはある、とサビナは記した。
俺たちは、その説明を一緒に受けた。
「命令を送る側は、城の中にいる」
ルーカスが地図へ指を置く。
「近づけば、彼女の外の結びが強くなる。自分の身体を動かす前に、向こうの命令が入るかもしれない」
「その場合は」
俺が尋ねると、ダニエルが答えた。
「彼女を前へ出さない。監視の二人が止める。お前も従え」
俺は頷いた。
ミレナは膝へ手を置いていた。
「私が、自分の声で話せなくなったら、手を二回握ります。それもできなければ、サビナさんが止めてください」
サビナが頷いた。
薬で身動きを鈍らせ、帯で固定する。その反応は、前もって弱い量で確かめていた。命令そのものを消す薬ではない。ただ、その状態では、自分の呼吸に合わせて命の結びを保つ手順を、本人が担えない。
一度合図が出たら、その場で処置を止める。薬を使ったあとには再開しない。薬を使う前に本人の意思が戻った場合だけ、サビナが状態を確かめ、もう一度試すかを判断する。
妻自身の返事が確かめられなければ、救命の試みは中止になる。
切り離せないまま魔王が倒れれば、残った根の崩壊へ、妻自身の結びも巻き込まれる。
誰も、その先に別の術があるとは言わなかった。
「俺たちのために、討伐を止めることはない」
俺は自分から言った。
「それを、先に約束する」
ダニエルが俺を見た。
「お前が言ったことは、覚えておく」
俺は頷いた。
ミレナも、同じように頷いた。
*
城へ近づくまで、二日かかった。
俺たちの前には主力が進み、横の道は別の隊が押さえていた。
妻は馬車で運ばれた。治療と監視を兼ねた車両で、寝台の横に固定する帯がついていた。揺れで落ちないためでもあったが、必要なら動きを止めるためにも使うと説明されていた。
彼女は自分で、その帯へ手を通した。
俺は外を歩いた。
ここでは、護衛の仕事だった。
道に残った足止めの術を見つけ、荷が通れるように切る。妻の所へ戻っている間に、他の馬車が止まることがないようにした。
夜になり、見張りの交代の合間に、少しだけ顔を見た。
ミレナは硬いパンを、小さくちぎって食べていた。
「汁に浸せばいいだろ」
「それだと、何を食べたか分からなくなる」
「何でだ」
「噛まなくなるの。早く食べようとして」
サビナに、量だけでなく、急がず食べるように言われていたのだという。
俺は横の箱へ座り、自分の分を出した。
パンは硬かった。
黙って汁へ浸すと、ミレナがこちらを見た。
「俺は、噛む」
「何も言ってない」
俺はパンを噛んだ。
少し笑い、二人とも、すぐに黙った。
明日の話をすれば、怖くなる。
だからといって、明日がないふりもできなかった。
「黄色い布、家の机にある」
俺が言うと、妻は頷いた。
「分かってる」
「パン屋の奥さんに、家の鍵を預けてある。二人とも戻れなくても、家の中は見てもらえる」
「うん」
「戻れたら、先に礼を言いに行こう」
ミレナはパンを持つ手を下げた。
「二人で?」
「ああ。あの人、お前の分まで俺へ聞くだろうから」
妻が少し笑った。
「私が、一人で行っても」
「俺の悪口を言うだろ」
「布を畳んでおかないことくらいしか、言わない」
俺はそれを聞いて、また少し笑った。
食事が終わり、俺は立ち上がった。
ミレナが袖を掴んだ。
俺は座り直した。
「何だ」
「あと少しだけ」
妻は、それ以上言わなかった。
俺も、何が怖いのかと聞かなかった。
彼女の手が離れるまで、隣にいた。
見張りが交代の時刻を告げ、俺は立ち上がった。
ミレナが小さな包みを差し出した。
「上着の、袖の内側。明日、引っかからないようにした。見てもらってから、受け取って」
見張りが先に確認し、俺へ渡した。
左の袖口にあった、古い留め糸を縫い直している。俺が剣を持ち替えるたびに、指へ触れていた箇所だった。
戦いの前には、刃や鎧を確かめる。
その隣に、こういう支度があってもよいのだと思った。
「ありがとう」
俺は言った。
妻は、困ったように笑った。
「それくらいしか、手を出せる所がないから」
「それくらいって、言うな。帰ってからも、頼むことになる」
ミレナは俺の袖を見て、頷いた。
俺は上着を着た。
手を伸ばしても、指に引っかかるものがなかった。
*
城門へ入る前、俺は術の最後の確認をした。
魔力を生む働きは、胸の下から腕へ流れていた。俺が長年、使ってきた通り道だった。
ルーカスが、その一箇所を示した。
「ここを、自分で開く。普段なら止める所を越えて、力を出す。そのあとで、ここの流れを断つ」
「痛くなったら、止める合図か」
「痛みは先に来る。合図とは別だ。俺が流れを見て言う。サビナが彼女の脈を見て言う。先に止めるべきだと判断した者に従え」
俺は頷いた。
指を曲げ、伸ばす。
剣を握れなくなる可能性もあると、サビナには聞いていた。魔力だけを失って済むようにするが、身体の傷まで避けられる保証はない。
俺は同意書へ、自分の名前を書いた。
ミレナも、別の紙へ名を書いた。
俺たちは相手の代わりに、署名しなかった。
そのあとで、役割も確認した。
妻の声を守る布は、前へ入るまではルーカスが受け持ち、処置に入ると予備の術師へ引き継ぐ。ルーカスは俺の側へ来て、補う力の流れを見る。
サビナは妻の息と脈だけを確かめる。俺を引き戻すのは、監視を兼ねて同行する二人のうちの一人。残る一人は、妻を運ぶ。
俺は自分の後ろへつく兵の顔を見た。
「何があっても、離れたがらないかもしれない」
「合図が出たら、襟を掴む。首が痛くても文句は言うな」
彼が答えた。
俺は頷いた。
命を懸けると言えば、聞こえはよい。だが、倒れた人間を運ぶのは、別の誰かだ。
俺たちは、運び出す方向と、剣を手放す合図まで確認した。
ダニエルが来て、主力の準備ができたと告げた。
「魔王を動けなくするのは俺たちの仕事だ。バルト、お前は根を捉えろ。切るべき所を失ったら、無理に刃を入れるな」
「分かった」
「他の者にも言ってある。本体を倒せる時に倒す。処置のために、味方の命を引き延ばすことはしない」
俺は頷いた。
誰か一人が頷くだけでは足りない約束を、何人もの前で交わした。
だから、その場へ立てた。
ミレナが、馬車から下りた。
左手の布は、まだ外していない。
俺は手を差し出さず、彼女が足を地面へ置くのを見た。
それから、こちらへ向けられた手を取った。
指は、冷えていなかった。




