第7話 帰りたいと言ってくれ
ミレナが倒れたのは、外の供給を止める確認の途中だった。
短い時間なら、完全に止めても自分の力で保てるようになっていた。前の日には一分を越え、俺は彼女の胸の奥の結びが、少し太くなったように見えた。
それで、先を急いだわけではなかった。
その朝も、サビナは食事と眠りを確かめた。熱も、いつもと変わらない。本人も進めてよいと答えた。
始めて半分ほどの時間で、ミレナの息が乱れた。
「戻して」
サビナが言った。
ルーカスが外の結びを緩めた術を外す。俺は近くに残る輪を見て、元の流れが戻ったことを確かめた。
それでも、彼女の息は戻らなかった。
俺は剣を床へ置いた。
「ミレナ」
返事がなかった。
胸へ手を伸ばしかけると、サビナに肩を押された。
「そこを空けて。水じゃない、右の箱」
俺は指示された箱を取った。
サビナは箱から厚い布を取り、妻の身体を包んだ。胸元へ掌を当て、息を助けるための短い術をかける。ルーカスは脇へ座り、胸へ戻る魔力の流れを追っていた。
「まだ、流れてるな」
俺が聞くと、彼は頷いた。
供給が戻れば、それで助かるわけではない。
止めた間に崩れた身体の働きが、すぐに元へ戻るとは限らないのだ。
俺は膝をつき、邪魔にならない所へ箱を置いた。
しばらくして、ミレナが咳をした。
俺は、その一度で力が抜けた。
「外へ」
サビナが俺を見ずに言った。
「息ができる所へ行って。あなたまで倒れたら、手が足りない」
俺は立ち上がり、天幕の外へ出た。
膝の裏が震えていた。
*
その日は、もう確認をしなかった。
昼過ぎに目を覚ましたと聞き、俺は天幕へ戻った。
妻は枕を高くして横になっていた。
俺が椅子へ座ると、右手が布の上で動いた。
「もう、やめてもいい?」
俺は顔を上げた。
今朝のことが怖くなったのかと思った。
「今日の確認は、もうしない」
「今日だけじゃなくて」
ミレナが俺を見た。
「今朝、あなたが使えなくなる力のことを聞いた。前に、他の人もそうなったって」
俺は頷いた。
器を焼く方法は、彼女にも説明されていた。俺が決める前に、隠さず知らせるよう、ルーカスへ頼んでいた。
「あなたは、それで暮らしてきたでしょう。私のために、なくさなくていい」
俺は膝の上の手をほどいた。
「お前は、自分が怖いからやめたいのか」
ミレナは答えなかった。
「そうなら、聞く。無理に続けろとは言わない。でも、俺のことだけなら、俺に決めさせてくれ」
「私が、決めると。あなたの力が」
「俺が、決める」
少し声が強くなった。
俺は一度口を閉じ、呼吸を整えた。
「今朝、お前が倒れて、俺は何もできなかった。触ったら邪魔になる。水も飲ませられない。箱を取れと言われて、それだけできた」
妻が俺を見ていた。
「俺の力は、何でもできるものじゃない。だから、できることを、どこで使うかは考えたい」
「でも、二度と」
「戻らないことも聞いた。失敗して、お前を助けられなくても、戻らない」
俺は自分の指先を見た。
「その場合、どう暮らすかも考えてる。剣を握る腕は残る。荷物の積み方も、道の読み方も、なくなるわけじゃない。隊の前へ出る仕事は無理でも、町でできることを探す」
ミレナが、目を伏せた。
「私と、暮らすの?」
俺はすぐに答えられなかった。
ずっと、その問いを避けていた。
治療をする。話を聞く。事実を認める。
その先の家へ、どんな顔で帰るのか。
俺は椅子を少し近づけた。
「俺は、あの家へ帰りたい」
ミレナが顔を上げる。
「お前と」
妻の口が少し開いた。何かを言おうとして、言えないようだった。
「なかったことには、できない。帰っても、腹が立つ日はあると思う。お前の言ったことを、また疑うかもしれない」
「うん」
「それでも、俺は一緒に暮らしたい。今、思っているのは、それだ」
ミレナは布を握った。
俺はその手に、自分の手を重ねなかった。
「お前は?」
彼女が息を吸った。
「私も、帰りたい」
途中で声が詰まり、彼女は言い直した。
「生きたい。あなたの帰る家に、いたい」
ミレナは涙を拭わず、続きを言った。
「親方にも、返したいものがある。出発前に借りた鋏。戻ったら持ってきてって、言われた」
俺は、妻の荷物に入っていた包みを思い出した。
「あれか。布を巻いてある」
「うん。手当から買い取ると言ったら、いらないから、磨いて返してって」
ミレナが自分の左手を見た。
「それをまだ、していない」
俺は頷いた。
俺だけが、この人の帰る理由ではない。
借りたものを返す相手も、途中の仕事もある。俺が知っているより多くの所へ、彼女は自分の手を伸ばしていた。
「帰って、返せばいい」
言ってから、俺は言い直した。
「返しに行けるように、やろう」
俺は頷いた。
「なら、それを聞いたうえで、俺も決める」
ミレナの目から涙が落ちた。
俺は布を取ろうとして、妻の指が伸びたのを見た。
「手、いい?」
俺は寝台の端へ手を置いた。
彼女が、上から握った。
まだ少し冷たかった。
*
次の日、サビナとルーカス、それからダニエルを交えて話した。
昨日の失敗は、それまでの疲れが残っていたことと、傷を治す働きへ力を取られた可能性があるという。
腕の表面が閉じても、中が治りきったわけではない。
確認を一日おきにし、外の供給を止める時間を、一度短く戻すことになった。
「日数に合わせて、体を急がせない」
サビナが言った。
「今ある時間で、確かめられた所までを使う。できたことにして前へ連れていくつもりはない」
俺は頷いた。
最終の処置についても、説明を受け直した。
俺が見るべきものは三つだった。
ミレナの中で育った結び。本体側に残る根。そして、その間に流れる力。
練習では根を残したまま、外からの流れだけを減らしてきた。最後には、その根を、妻自身の結びから外す。
繋がった形から独りで保つ形へ移る時に、短い空白ができる。切り離す接点でその形を守りながら、俺の力を補う。魔王の死で根ごと引き裂かれてからでは、同じ補い方はできない。
普段の出し方では、流せる量に限りがある。器を焼けば、その先まで出せる。ただし、限界を超えて流れ続けるから、必要な時間で止めなくてはならない。
俺一人の我慢で調整するのではなく、ルーカスが残りの流れを見て、サビナが彼女の息と脈を確かめる。
止める合図は、先に決める。
「君が痛みに耐えれば、何とかなる話にはしない」
ルーカスが俺に言った。
「合図が出たら、止めろ。体を壊すほど長く流しても、成功には近づかない」
「分かった」
ダニエルがミレナへ向き直った。
「城へ行くかは、体の状態と、作戦の状況を見て決める。お前が行きたいと言っただけで、連れていくわけではない」
「はい」
「同行が認められても、それで処遇を軽くすると約束はできん。記録には残す。ただ、裁く者へ渡す材料の一つだ」
ミレナは頷いた。
それでも、生きたいという言葉を取り消さなかった。
*
三日後、俺は妻と、少し外を歩いた。
見張りが離れずについていた。左手の布も、そのままだった。
俺たちは診療天幕の裏へ行き、積んだ薪の横へ座った。
あの白い犬が、通信係と一緒に歩いていた。
足取りは、まだ頼りない。
それでも、主人の手から餌をもらわずに、自分で地面の匂いを嗅いでいた。
「あの子、元気になったのね」
「ああ。結びは、もう切った。命令のための分だけ、後で結び直すらしい」
「自分の命は、自分で持ったまま?」
「そうだ」
ミレナは犬を見ていた。
俺は彼女の手元へ目をやった。
何かを持っている。
「それは」
小さな布袋だった。
妻が開くと、二つの指輪があった。
一つは彼女が外したもの。もう一つは、俺が朝、サビナを通して渡したものだった。
「返せって、言われるかと思った」
俺が言うと、彼女は首を振った。
「縫っておこうと思って。二つ、同じ所へ入れられる袋」
口の部分に、新しい糸が通してある。
俺は受け取ろうとして、止めた。
「今、つけてもいいか」
ミレナが俺を見た。
彼女は頷き、俺の分を取り出した。
俺は左手を差し出した。
妻の指が震えて、輪が途中で止まった。
俺は自分で押し込まず、彼女がもう一度持ち直すのを待った。
いつもの位置へ戻った銀の輪は、少し冷たかった。
彼女の分は俺が右手へつけた。左には、まだ布を巻いている。
ミレナが指を曲げ、また伸ばした。
俺はその手に触れ、少しだけ引き寄せた。
「今、平気か」
彼女は頷いた。
口づけは、短かった。
離れたあと、妻が俺の肩へ額を寄せた。
入口に立つ見張りが、咳を一つした。
俺たちは少し離れた。
ミレナが、目元を拭いながら笑った。




