第6話 灯りを残した理由
トマスから返事が来たのは、最初の聞き取りから十日後だった。
俺宛てではなかった。本人へ伝えることを、記録担当に託したものだという。
ミレナが読むことになり、俺はその場へ同席しないつもりだった。
だが、妻から求められた。
「あなたにも、聞いていてほしい。でも、私が言い返しそうになったら止めて、という意味ではないの。ただ、一人で、知っていることにしたくない」
俺は返事をするまで一晩かかった。
翌朝、サビナの天幕へ行った。
手紙はミレナ自身が読んだ。
声は小さかったが、最後まで読んだ。
襲撃の日は、兵だけでなく、荷役の者もいたこと。負傷者はトマス一人ではなかったこと。今、店へ行く時、戸の取っ手と荷物を同時には持てず、雨の日に困ること。
俺はそこを聞いて、膝へ手を置いた。
知っているつもりだった。
見舞いに行き、同じ卓で飯も食った。
でも雨の日に困ることは、聞いたことがなかった。
最後に、ミレナが少し詰まった。
「あなたが、自分から話したことは聞きました。でも、それで、私の身体のことが済んだとは思わないでください。私のために死ぬとも、言わないでください。それを望んだことにされたくありません」
ミレナは紙を下ろした。
誰も、何も言わなかった。
やがて彼女が、返事を書きたいと言った。
サビナは白い紙を一枚出した。
俺は外へ出た。
返事に何を書くか、見守る役は俺ではないと思った。
その日の午後、ミレナは記録担当へ、思い出したことをもう一つ話した。
報告の中に、馬車に医薬品があると添えたことがあったという。
俺はあとで、その追加を知らされた。
よく覚えていてくれた、と言うことはできなかった。
忘れていたなら、なおさら記録へ残さなくてはならないことだった。
*
それから十日ほど、俺は妻の治療へ通った。
外の結びを弱める時間は、一分へ延びた。手の冷えが強くなる日は元に戻し、食べられた量と、熱と、脈をサビナが書いた。
俺は彼女と二人きりにはならなかった。
聞かれたことへ答え、必要な作業をし、終われば自分の班へ戻った。
ある日、ミレナの枕元に、小さな袋があるのに気づいた。
指輪の形が、布の上から分かった。
彼女は俺の視線に気づき、袋を引き寄せた。
「見えない所へ、置く」
「いや」
俺は言いかけ、その先を探した。
「捨てろとは、言ってない」
ミレナは動かなかった。
俺は自分の左手を見た。指輪は外し、荷袋へ入れていた。
「俺も、持ってる」
それだけ言った。
妻は頷き、袋を枕の下へ入れた。
その日は帰るまで、他の私的な話はしなかった。
*
夫婦のことを話したのは、進撃まであと十日ほどになった夜だった。
ミレナが尋ねた。
「私の話、聞いてもらえる?」
俺は椅子を寄せなかったが、座り直した。
見張りは入口にいる。サビナは天幕の反対側で薬を分けていた。
「聞く」
妻は少し考えた。
「何から話せばいいか、ずっと考えていたの。あなたを好きになった日を決めれば、そこから先は本当だって言える気がして」
俺は妻を見た。
「決まったのか」
「決まらなかった」
ミレナの右手が、膝の上で動いた。
「最初から、あなたといると、楽しい時はあった。任務で近づいていても。だから、どこからなら許してもらえる、なんて分けられない」
「俺にも、分けられない」
「うん」
彼女は左腕へ触れかけ、やめた。傷は塞がっていたが、強く握るとまだ痛むらしい。
「初めて報告を変えたのは、あなたが宿へ迎えに来た夜。次の日、北へ出ると言った時」
俺は覚えていた。
彼女は宿で針仕事をし、俺は町を出る前に、夕飯へ誘いに行った。
「一日、遅らせて伝えた。待っていて、帰ってきたあなたを見たら、ほっとした」
「その日だけ、助かればよかったのか」
「初めは。次の日のことまで考えず、あなたが戻ったことだけで、もう大丈夫だと思いたかった」
俺はしばらく黙った。
ミレナは続きを待っているわけではなさそうだった。自分の話すことを、自分で探していた。
「結婚するより前に、報告をやめた。あの時、あなたは冬の間、町の護衛に回ることになったでしょう。遠くへ行かないと分かって、しばらく送らなくても、城から連絡がないと思ったの」
「死んだと思われても、構わなかった?」
「そう。遠くでは、私が生きているかまでは、細かく確かめられない。力は繋がったまま届くけれど、声も位置も、私が開かなければ向こうへは届かない。そうやって城へ戻らなくなった人間の密偵もいると、聞いていた」
俺は手のひらを擦った。
「初めは、どうして報告した」
俺は聞いた。
ミレナは自分の膝へ目を落とした。
「人間は敵だと、教わった。道を開けば、人間が城へ来る。私はそれを止める役目だと」
「外へ出て、町へ来ても?」
「私に食事をくれた人がいた。仕事も教えてくれた。それなのに、隊へ入る人は別だと思った。あなたは術者で、城を壊しに行く人だから」
俺は顔を上げた。
妻は、その目を避けなかった。
「あなたを好きになったからといって、その考えが全部なくなったわけじゃなかった。あなた以外の人が道を通ると聞いた時、ほっとしたこともある」
彼女はそこで、一度言葉を切った。
俺は口を開かなかった。
「トマスさんの怪我を知って、あなたが見舞いに通って、それでも、まだ自分のしたことを言わなかった。あなたに嫌われたくないことを、先にした」
「それを、今、俺に言うのか」
「良いことだけ思い出せば、私が最初から逃げたかったように話せる。でも、違うから」
俺は寝台の脚を見た。
そこには、軍の備品を示す印があった。
彼女が俺を敵として調べていた頃、俺は何も知らず、その隣で飯を食っていた。
「聞いて、嫌になった」
俺が言うと、彼女は頷いた。
「そうだと思う」
「でも、聞かなければよかったとは、今は言わない」
妻の指が、布の上で止まった。
俺は水を飲んだ。
これから何度、こういう話を聞くのだろう。
そのたびに何を思うか、今の自分には決められなかった。
ただ、聞かせてもらえなかった結婚前へ、戻りたいわけではなかった。
「それでも、結婚する前に、言えた」
「うん」
「俺は、言われたらどうしたか、もう分からない」
妻が顔を上げた。
「お前が思ったとおり、離れたかもしれない。でも、お前は、俺がどうするかを怖がって、先に決めたんだ」
「そう」
俺は天幕の入口を見た。
誰かが、外で水を運んでいた。
その足音が遠ざかるまで、俺たちは黙っていた。
「夜、灯りを残してただろ」
俺が言うと、彼女が目を上げた。
「俺が帰るのが遅い日。窓に、一つだけ」
「うん」
「あれも、帰った時刻を見るためか」
声にするのが、思っていたより難しかった。
妻は首を振った。
「一緒に住み始めた頃は、そうだった。もう報告は偽っていたのに、帰宅の時刻を記録する癖は、やめていなかった」
俺の膝の上で、指が止まった。
「同じことを続けていたのね。あなたが帰る時間が、窓から分かるように。でも、あとになって、灯りを消すと、あなたが道に迷うような気がした」
「道くらい、分かる」
「知ってる」
ミレナは笑わなかった。
「それでも、消せなくなった。あなたが上を見て、家が分かるように。帰ってきて、暗い部屋だと思わないように」
俺は目を閉じた。
あの窓を見上げ、階段を二段ずつ上がったことがあった。
明かりの中で妻が顔を上げ、汁物を温め直す。その隣へ座ることが、帰るということだった。
その記憶が全部、別のものになったと思っていた。
けれど、灯りをつけた理由は、途中で変わっていたのかもしれない。
今の妻の言葉を、そのまま信じきることはできなかった。
それでも、聞きたかったことを一つ、聞けた。
「俺の人参を、戻すのもか」
ミレナが瞬きをした。
「それは、残すから」
俺は少しだけ笑った。
笑ってから、腹の奥が痛くなった。トマスの顔が浮かび、笑ってよかったのかと考えた。
妻もそれに気づいたのか、続きを言わなかった。
俺は椅子へ背を預けた。
「家で、左手を押さえてた夜があった。出発する前の夜だ。まだ、連絡をしてたのか」
ミレナは首を振った。
「痕が光ると、自分へ流れてくる力が分かるの。城へ近づけば、それを隠せなくなると思った。押さえても、消えるわけじゃないのに」
「糸が引っかかったって、言った」
「嘘をついた」
俺は頷いた。
「他にもあるな」
「ある。生まれた村も、年齢も。あなたが、昔のことを訊くたびに、私はその先を作ってしまった」
妻が唇を噛みかけ、やめた。
「でも、針仕事は、人から教わった。城にいた時には、服を直せなかった。こちらへ来て、宿の女将さんに、縫い目を全部ほどかれた」
俺は顔を上げた。
覚えていた。初めて同じ宿へ泊まった翌朝、彼女は小さな布を何度も縫い直していた。
あの時は、古い仕事を仕上げているのだと思った。
「お前、ずいぶん腹を立ててたな」
「ほどくほうが、時間がかかるもの。早く覚えれば、町で働けると思ったのに」
「親方に褒められた日に、俺を待ち伏せしてた」
「待ち伏せじゃない」
ミレナが言い、少し黙った。
「……あの時は、待ってた。何度見ても、あなたが帰ってくる時間じゃないのに」
俺はその顔を見た。
帰宅するなり、小さな巾着を見せられた日だった。縫い目を見てもよく分からず、丈夫そうだと答えたら、妻はひどく不満そうだった。
俺には知らない過去がある。
作られた話も、本人が歩いてきた時間も、同じ袋へ押し込んでいた。
分けるには、一つずつ訊くしかなかった。
「お前のしたことを、俺が許せば終わるわけじゃない」
「うん」
「でも、俺が今どう思うかまで、全部やめなくてもいいのかもしれない」
ミレナは答えなかった。
ただ、俺が立ち上がるまで、その顔を見ていた。
*
天幕を出る前に、俺はルーカスから呼び止められた。
明日の確認に使う記録ができたという。
俺はそれを開いた。
妻の外の結びは、俺が今まで切ってきた術より、ずっと太かった。本体に近づけば、さらに強くなる。
「根を切って、自立する分が立ち上がるまで、補う力が要る」
ルーカスが言った。
「普通に流せば、俺では足りないな」
「途中で尽きる。同じ境を読める術者が二人いれば、分けられるかもしれない。だが、根を切り分けながら、その接点で補う力を加減できるのは、ここではお前だけだ」
ルーカスは、自分が確認する範囲も示した。
「俺は流れる量と、体へ戻る反応を追う。どの境へ刃を入れるかまでは、君と同じようには見えない。だから切るのは君が決め、止めるべき状態は俺たちも見る」
俺は先を読んだ。
術者の器を焼く。
溜めた魔力を、通り道ごと使い潰して流す方法だった。戦場で味方の守りを支え、そのあと術を使えなくなった者の記録が添えてあった。
俺はそれを、最後まで読んだ。
「死ぬのか」
「魔力を生む働きと、命を保つ働きは別だ。正しい所で止めれば、命は保てる。でも術を使う力は、戻らない。治療の疲れが取れたら戻る、というものじゃない」
「彼女は、これを」
「明日、本人にも説明する。まだ、お前がやると決まってはいない」
俺は頷いた。
ずっと、切れば終わる仕事だと思っていた。
俺の前には、切ったあとも生きるための記録が置かれていた。




