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妻の正体は、魔王の分身でした。それでも俺は、二人で帰りたい。  作者: 黒咲かぐら


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第10話 カーテンを掛ける日

 最初に目を覚ました時、俺は自分の手がなくなったのかと思った。


 動かそうとしても、指先が少し震えるだけだった。


 顔を横へ向けると、両腕はちゃんとあった。布で包まれ、寝台の上へ置かれている。


 向かいの寝台には、誰もいなかった。


 俺は起きようとした。


「まだ」


 サビナの声がした。


「彼女なら、隣よ。生きてる。今、ルーカスが診ている」


 俺は身体を戻した。


 喉が乾いていた。


 水を飲ませてもらい、もう一度、隣にいるのかと尋ねた。


「いるわ。あなたも、ここにいる」


 俺は目を閉じた。


 次に起きた時、隣から妻の咳が聞こえた。


 俺は、その音で泣いた。


 泣いたあとで、恥ずかしくなった。


 横を見ると、ルーカスが水差しを持って立っていた。彼は何も言わず、俺の枕元に水を置いた。


「腕は?」


 俺が聞くと、彼は自分の腕を見た。


「俺のは、何ともない。お前が聞きたいのは、そっちじゃないだろ」


 俺は小さく頷いた。


「ミレナの声を守っていた人は」


「休んでる。力を使い切った。怪我は軽い」


 俺はもう一度頷いた。


 自分が見ていなかった所に、何人もいた。


 ルーカスは椅子へ座った。


「お前が最後に手を伸ばしたから、運ぶ役が怒ってたぞ。今そこで動いたら、二人とも落ちるって」


「悪かったと、言っておいてくれ」


「自分で言え。歩けるようになったら」


 俺は、歩けるようになったら言うと答えた。


 次にすることを、一つもらった気がした。


     *


 魔王が倒れたのは、あの処置のすぐあとだった。


 外の魔物へ届く命令が止まり、押さえていた街道から、敵の群れが退いた。逃げたものも、戦い続けたものもいた。全てが一度に消えたわけではなかった。


 主力の兵に死者が出たことも、あとで聞いた。


 俺たちは助かったが、誰もが家へ帰れたわけではない。


 ダニエルが病床へ来た時、俺は妻が生きていると、改めて伝えた。


 彼は頷いた。


「お前の隊で、二人。後ろの隊で、一人が戻らない。名簿は、後日渡す」


 俺は頷いた。


「俺たちの処置で、遅れたからか」


「別の場所での負傷だ。ただし、その違いで気を楽にしろという話ではない。お前も、誰がいたかを覚えておいてくれ」


 俺は返事をした。


 彼が帰ってから、俺はサビナに、自分の状態を聞いた。


 魔力を生む働きは、戻らないという。


 腕の傷は治る見込みだが、しばらく剣を握ってはいけない。握力を戻すには、日をかける必要がある。


「切るべき所で、止められたのか」


「ええ。だから今、話してる」


 俺は自分の指を見た。


 細かく震えていた。


 その日の夕方、剣を持ってきてもらった。


 鞘から抜くことは、まだできなかった。柄へ指を置き、いつものように、内側の流れを探した。


 何も、見えなかった。


 ただ、目を閉じれば、手の中にあるものの重さが分かる。革の巻かれた柄が、掌へ触れている。


 俺はもう一度、力を探した。


 サビナが、黙って俺を見ていた。


 三度目を試す前に、俺は手を離した。


「なくなったんだな」


「ええ」


 彼女は、慰める言葉を続けなかった。


 俺は寝台へ戻り、天井を見た。


 後悔しているのかと尋ねられたら、その時は答えられなかったと思う。


 妻が生きていて、嬉しい。


 自分の力がなくなったのは、怖い。


 それを両方、抱えたまま、しばらく天井を見ていた。


 その指でも、妻の手を握ることはできた。


     *


 ミレナの状態が落ち着くまで、三週間かかった。


 目を覚まし、返事をしたからといって、そのまま独りで暮らせるわけではなかった。


 眠ったあとも息と熱が下がらないこと。食べたものを吐かないこと。起きて歩けること。


 サビナは昼も夜も、魔力で熱や呼吸を無理に保たなくても、状態が崩れないかを確かめ続けた。


 俺は彼女の横で、匙を持つ練習をしていた。


 落とすたびに拾ってもらうのが嫌で、皿の下へ布を敷いた。


 ミレナはそれを見て、俺の分のパンを、小さくちぎった。


「自分で、できる」


「今、両手を使ってるでしょう」


 俺は匙と皿を持った自分の手を見た。


 反論できなかった。


 妻の左の手首には、白い痕が残っていた。


 もう、光らなかった。


 俺はそこへ触れてよいか尋ねた。


 ミレナは頷いた。


 皮膚の温かさが、指先へ伝わった。


「寒くないか」


 俺が聞くと、彼女は少し考えた。


「寒い時は、寒い」


「そうじゃなくて」


「前より、分かるの。冷たい時と、温かい時が」


 ミレナは自分の左手を右手で包んだ。


「お腹も、前より空く」


 俺は笑い、すぐに胸が痛くなった。


 まだ、身体を揺らして笑うには早かった。


     *


 後方へ戻ったあと、ミレナは審理を受けた。


 俺は夫として、生活の記録を提出した。ただし本人の代わりに、情報を渡した理由を説明しようとはしなかった。


 彼女が自分で話すことだった。


 トマスも申述を送った。本人がこちらへ出向かなくてよいように、窓口を通して確認したという。


 結論が出たのは、魔王の死から二か月ほど経った頃だった。


 情報を渡し、その情報が襲撃に使われたこと。任務を離れたあとも、身分と過去を隠して暮らしていたこと。その責任が認められた。


 一方、自分から申述し、照合に協力したことや、村の避難を助けたことも、記録の中で扱われた。


 城へ行ったから、全てを免れたわけではなかった。


 三年間、俺たちが部屋を借りていた町で監督を受け、定期的に出頭する。仕事の一部は、負傷者を支えるための奉仕に充てる。生活に必要な分を除いた収入から、定められた額を補償へ回す。町を出るには許可が要り、軍の情報を知った場合には申告する。


 刑の内容を読み上げられたあと、ミレナは、自分で確認の署名をした。


 俺も、監督に協力する家族として、別の欄へ名を書いた。


 彼女が嘘をついて町を出たら、俺が黙っていれば済む、という話ではなかった。


 帰り道、ミレナは長く黙っていた。


 俺たちは、先に暮らしの届けを出した。


 同じ家へ戻ること。勤務先へ今回の処遇を説明すること。決められた出頭日には、護衛の仕事を理由に俺が代わりへ行くことはできないこと。


 窓口の者は、一つずつ読み上げた。


 ミレナは分からない所を聞き返し、俺は家までの道順だけを補った。


 帰る場所があるという事実を、俺たちの間だけの話にしないための届けだった。


 家賃には、契約どおりに支給された俺の療養手当と、それまでの蓄えを充てた。療養手当が終われば、働いて払わなくてはならない。


 俺は、数字を書いた紙を出した。


 ミレナは最初、俺の稼ぎの欄だけを見ていた。


「自分の分も、書いてくれ」


 俺が言うと、彼女は顔を上げた。


「全部、補償へ出せるとは、約束できない。生活に必要な分を残すのも、決まりに入っている」


「うん」


「食わずに金を出して、倒れたら、仕事も続かない」


 彼女は紙の上へ、自分で数字を書いた。


 出発前の夜と同じように、字は少し傾いていた。


「これから、何をする」


 俺が尋ねると、彼女は握っていた紙を見た。


「明日、仕立屋さんへ行く。仕事を、まだ頼めるか聞きたい」


 俺は頷いた。


 自分が生き延びたあとの予定を、彼女が一つずつ考え始めていた。


     *


 魔王が倒れてから半年後、俺たちは同じ家にいた。


 家賃の払い込みを頼んだパン屋には、何度も礼を言った。留守の間に窓を開け、湿気がこもらないようにしてくれていた。


 俺が上の部屋へ入った時、黄色い布は机の上にあった。


 少し埃を被っていた。


 ミレナは初めて戻った日に洗い、乾かし、畳んでおいた。


 切るまでに、またしばらくかかった。


 昼は、町の仕立屋で働いた。軍へ戻る衣服の修繕と、負傷した者が片手でも留めやすい上着の仕立てを手伝っていた。


 トマスへ、直接何かを渡すことはしなかった。本人の望まない面会も申し出なかった。


 彼の家に届く補償については、決められた窓口へ払い、記録を受け取った。


 俺は近くの町までの荷馬車を護衛する仕事へ戻った。


 魔法の罠を切る役は、もうできない。


 依頼を受ける時には、先にそう伝えた。そのうえで一緒に来てほしいと言う御者と、道を選び、日程を組んだ。


 仕事へ戻る前に、俺はトマスに会った。


 妻は連れていかなかった。


 受付へ行くと、彼は前と同じ机にいた。花瓶の花は、秋の小さな実へ替わっていた。


「戻ったか」


「ああ」


「腕は」


「剣は持てる。長く握ると、指が痺れることはある」


 彼は頷いた。


 俺は自分の状態を伝え、退いた術者の登録を確かめた。それから、町の近くで護衛を雇う者を知っているか、尋ねた。


「魔法の罠へ対処できないことは、先に言う」


「当然だ。お前ができると思って、山側の道へ出されたら困る」


 彼は紙を引き寄せ、右手で名前を書いた。


 俺は受け取り、礼を言った。


 帰りかけたところで、彼が呼び止めた。


「奥さんと暮らすんだな」


「ああ」


 俺は振り向いた。


 トマスは机の上へ、筆を置いた。


「俺は、今も会いたいとは思わん」


「分かってる」


「手紙に書かれたことは読んだ。あとで思い出した分まで、また出てきたのも聞いた。それは必要だったと思う。だからといって、今、顔を見たいわけじゃない」


 俺は頷いた。


 少し黙ってから、彼が言った。


「お前まで、見舞いに来た日の話を、なかったことにするなよ。あの時、お前は俺の横で、まずい汁を食ってた。それは覚えてる」


 俺は、机の角を見た。


「覚えてる」


「なら、いい。仕事の手続きは、忘れずに出せ」


 彼は次の書類を引き寄せた。


 俺はもう一度礼を言い、受付を出た。


 妻へ何と伝えるかは、家へ帰るまで考えた。


 彼が許したとは、言わなかった。会いたくないという言葉も、そのまま伝えた。


 ミレナは頷き、仕事の紹介を受けたことには、窓口を通して礼を伝えてよいか尋ねた。


 俺は、俺の仕事への紹介だから、礼は俺が言うと答えた。


 彼女は少し考え、それにも頷いた。


 俺たちは、そのまま翌月の家計を見た。


 前より稼ぎは減った。


 食卓に載る肉も、少し減った。


 それでも、妻の皿から俺の皿へ戻る人参は、同じだった。


「今日は、食べた」


 俺が言うと、ミレナは皿を見た。


「一つ、残ってる」


「それは、最後に」


「じゃあ、見てる」


 俺は食った。


 妻はそれを確かめてから、自分の汁を飲んだ。


     *


 カーテンを掛けたのは、秋の晴れた日だった。


 俺が休みで、ミレナの仕事も午前中に終わった。


 食卓を片づけ、大きく布を広げる。


 妻が鋏を置き、寸法を書いた紙を見た。


「本当に切るぞ」


 俺が言うと、彼女は顔を上げた。


「あなたは切らないで。押さえてて」


「それくらい、俺にも」


「知ってる。でも、私が縫うものだから」


 俺は黙って端を押さえた。


 ミレナは布を切り、針を取り、端を折った。


 俺の手は、もう大きく震えなかった。


 ただ、糸の端を摘まむのは今も少し苦手で、妻が俺の指から引き取った。


 窓へ掛ける時、俺は踏み台へ乗った。


 ミレナが下から裾を揃える。


「右が、少し上がってる」


「こっちか」


「反対。あなたから見て、左」


 言われたとおり直すと、彼女が頷いた。


 踏み台を下り、二人で少し離れて見た。


 薄い黄色の布を通り、午後の日が食卓へ落ちていた。


 ミレナは何も言わなかった。


 俺が横を見ると、彼女は目を拭っていた。


「糸くずか」


「そういうことにして」


 俺は頷いた。


 隣へ立ち、肩が触れる距離まで近づいた。


 妻が俺の手を取った。


 俺は握り返した。


     *


 夜、俺は翌日の仕事の支度をした。


 近くの町まで、羊毛を運ぶ。早ければ日が傾く前に帰れるが、雨なら宿駅に泊まることになる。


 ミレナへそれを話した。


 話してから、一度だけ言葉が止まった。


 妻も、こちらを見た。


 出発日と、荷の中身。


 何もなかったようには、まだ話せない時があった。


 ミレナは目を逸らさなかった。


「聞いたことを、窓口へ記す必要はある?」


 監督の決まりでは、軍の情報へ触れたら申告することになっていた。


「今回は、普通の荷物だ。俺も、隊の予定を持って帰ってるわけじゃない」


「分かった」


 彼女は頷いた。


 俺は水筒の栓を締めた。


「明日の晩、何を食う」


 ミレナは少し考えた。


「戻るなら、お芋を焼く。戻らなかったら、私が二日分食べる」


「俺の分も?」


「冷めたら、美味しくないでしょう」


「残しておけよ」


「じゃあ、戻ってきて」


 妻が言った。


 俺は上着を椅子へ掛けた。


「帰るつもりだ」


 窓には、新しいカーテンがあった。


 その内側へ、ミレナが灯りを一つ置いた。


 俺は、それを消さなかった。


~完~

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