第4話 最初の日から
「私は、魔王から分けられた身体なの」
ミレナは包帯を巻いていない右手で、左の手首を押さえた。
「城で、二年前に。人間の町へ入るための姿で、生まれた」
俺は彼女の顔を見た。
何度も目を合わせた顔だった。
眠い朝には片方だけ細くなる目も、糸を噛んで切ろうとして俺に止められた口も、そのままだった。
「それで」
俺の声は、思ったより平らだった。
「俺のところへ?」
ミレナが頷いた。
「あなたは、結びを切る術者として、もう名前が知られていた。城の守りを壊す者の一人だって。私は動きを調べるように言われた」
俺は椅子の背を掴んだ。
一年半前、川を渡る荷馬車の前で彼女を見つけた。
荷を落とした女が、濡れた包みを拾っていた。通り過ぎるわけにもいかず、俺は馬を降りた。
布を乾かす場所を探すうちに、同じ宿へ泊まった。
翌日、彼女は針を買わなくてはと町へ行った。俺も、仕事の精算で同じ方角へ向かった。
「川で、会ったのも」
「あなたが通ると、調べていた」
俺は鼻から息を吐いた。
笑いそうになった。
何がおかしいのか、自分でも分からない。
「落とした荷も?」
「私が、落とした」
ダニエルが記録係へ何か伝えた。
俺は妻から目を離せなかった。
「何を、知らせた」
「最初の四か月は、あなたが町を離れる日と、同行する馬車の数を」
「どこへ」
「左手の痕を使って。こちらから開くと、声を届けられた。近くに伝令がいれば、そちらへも」
「魔王は、いつでもお前の居場所を知れるのか」
ミレナは首を振った。
「遠くでは、私が開かない限り、居場所も考えも読めない。届くのは身体を保つ力だけ。近くまで行くと、向こうから掴まれる」
ルーカスが顔を上げた。
「伝令の声は、自分で開かなくても聞こえる?」
「はい。同じ者に向けて広く送る声だから。今日の獣は、川側から集会所を囲むように呼び掛けていた」
「それで、人を動かしたのか」
ダニエルの問いに、彼女は頷いた。
「集会所へいたら、後ろを塞がれる。粉挽き小屋へ向かえば、西の道に出られるから」
指揮官は続きを促さなかった。
彼女が何をしたかと、何を知っているかを、分けて書かせていた。
俺は机の木目を見た。
四か月。
彼女と出会い、同じ宿を使い、食事へ誘っていた頃。
俺はあの時、どこへ行った。
どの道を、誰と。
答えを口にする前に、妻が言った。
「北の、崖の道も」
俺は顔を上げた。
「トマスが?」
彼女は頷いた。
「襲われたと、あとで知った。その時はまだ、誰が怪我をしたか知らなかった。でも、使われたと思った」
「それを、俺に」
喉に何かが詰まった。
「俺が見舞いに行った日も、知ってたのか」
「知ってた」
俺は立ち上がった。
椅子が倒れそうになり、隣のルーカスが押さえた。
「バルト」
ダニエルが呼んだ。
「一度、外へ出ろ。お前から聞くこともある。今ここで続けなくていい」
俺は妻を見た。
右手の指輪が光っていた。
俺が買った、細い銀の輪だった。
「それ、外せよ」
言葉が出た。
ミレナが自分の手を見た。
俺は返事を待たず、天幕を出ようとした。
入口で、ルーカスに止められた。
「本人の説明として、あと一つ聞いておきたい。人の形の分身体は、他にもいるのか」
ミレナは首を振った。
「私以外は、知りません。城で見たのは、捕らえた獣や、人間に術を入れたものです。私には、人の姿まで作れたのは初めてだと」
「生まれた時から、言葉は分かった?」
「はい。考えることも、話すことも。こちらへ行け、これをしろと聞いて、それが何をさせる命令か分かりました」
彼女は一度、息を整えた。
「知らなかったから、報告したのではありません。人を待ち伏せするために、動きを知りたいのだと、分かっていました」
ルーカスが頷き、その言葉を記した。
俺は足を止めたまま、妻の横顔を見た。
俺に言い訳をしてほしかったのかもしれない。
命じられただけだと言ってくれれば、俺の知っている妻へ戻せる気がして。
だが、彼女は言わなかった。
自分が何をしていたかを、他人の説明で曖昧にさせない顔をしていた。
俺はそれを見て、もう一度、腹の底が冷たくなった。
それから、天幕を出た。
*
外には、日が残っていた。
誰かが夕飯の鍋を運んでいた。鍋の蓋が少しずれ、湯気が細く出ている。
俺はその前に立ち止まり、何をしようとしたのか思い出せなかった。
「邪魔だぞ」
言われて横へ退いた。
後ろからサビナが来た。
「今夜の寝る場所は、別にする。彼女には、見張りをつける。治療は続ける」
俺は頷いた。
「本人が、話すと言ったのよ。検査で違う流れが見つかって、隠しきれないと考えたのかもしれない。でも、そこは本人が選んだ」
「それで、何が変わる」
サビナは答えなかった。
俺は自分の口を押さえた。
「……あんたに言うことじゃないな」
「今は、私に腹を立てても構わない。ただ、彼女の命をどう扱うかは、別の話よ」
俺は顔を上げた。
「命?」
「分身体が、本体の魔力で身体を保っているなら。本体が死ねば供給元を失う。結びの壊れ方によっては、彼女の命を保つ側も巻き込まれる」
俺はサビナを見ていた。
彼女は、言い切る前に一度息を置いた。
「詳しい結びを確かめる必要はある。でも、今のままなら、彼女も死ぬ」
夕飯の列が、向こうで動いていた。
俺はその音を聞いていた。
ついさっき、指輪を外せと言った。
もう妻ではないと思えば、この痛みを、自分の外へ追いやれる気がした。
その人が死ぬと聞いて、少しも楽にはならなかった。
*
その夜、俺は別の天幕で寝た。
身体を横にしても、いつもの場所へ足を寄せてしまう。冷たい足が、腹へ当たると思って。
何もなかった。
俺は起き上がり、膝を抱えた。
翌日から、聞き取りが始まった。
ダニエルは俺を捜査の担当から外した。夫だからというだけでなく、情報を流された当事者でもあるからだと言った。
俺が話したのは、一緒に暮らし始めた時期、俺が家で仕事の予定をどこまで話したか、それから、気づかなかったことだった。
左手の痕。夜中に起きたこと。出発の知らせを受け取らなかった朝。
話しているうちに、全てが別の意味へ変わっていく。
冷えた指も、夜に灯していた明かりも、全部、任務のためだったのか。
ダニエルは答えなかった。
「それは、お前と彼女が話すことだ。俺は、実際に伝わった情報を確かめる」
机の上には、去年の行軍記録があった。
北の崖の道。出発日。荷馬車の数。
ミレナの話した内容と、一致していた。
「これだけで、全部を決めない。別の経路も調べる。だが、本人の認めた部分は記録に残す」
俺は頷いた。
彼女を殺せと、誰かが言うのではないかと思った。
同時に、彼女は俺を助けたと言い出したくなる自分にも、腹が立った。
トマスの腕は、戻らない。
俺は自分の手を机の下へ隠した。
*
三日間、俺は妻へ会わなかった。
面会を断られたのではない。話せるようになったら申し出るよう、ダニエルには言われていた。
俺は申し出なかった。
彼女の衣類は、修繕班の女が届けてくれた。俺は荷物を預けた時、黄色い布のことを思い出した。
まだ、家にある。
家へ帰ったら、あれをどうする。
考えて、荷袋を閉じた。
三日目の夕方、ルーカスが俺を呼んだ。
「術のことだけ、聞いてほしい」
彼は紙を出した。
使い魔の犬が、自分で歩いた日の記録だった。
「奥さんに、同じことができるかは分からない。でも、分からないまま殺す理由には、ならないと思う」
俺はその紙を受け取った。
犬が食べた肉の量。自分で歩いた距離。主から離れていた時間。
数字は短く、字は荒かった。
俺は紙の端を指で押さえた。
「俺が、手伝うことになるのか」
「術の確認は。ただし、夫として引き受けなくてもいい。彼女にも、お前にも、別々に説明する」
俺はすぐには答えなかった。
ルーカスも、返事を急がせなかった。
その晩、俺は初めて、自分の分の夕飯を最後まで食った。




