第3話 妻の知っていた道
東へ出る予定の朝、後ろの宿駅が襲われた。
修繕班がいた、小さな村だった。
先頭の荷馬が銃声のように嘶き、俺たちは馬車を道の脇へ寄せた。伝令が息を切らして走ってくる。
近くの林から魔物が入った。住民と後方の班は、村の集会所へ集められている。
俺は伝令へ、妻のことを聞きかけた。
喉の途中で止め、ダニエルを見た。
「後ろへ戻すのは二班。バルト、お前は行け。村の入口に、結びの術があるそうだ」
俺は頷き、馬へ乗った。
道には、荷車を引いて逃げる人がいた。軍から逃げる方向を聞いたのだろう。子供を抱えた男に、俺の向かう先を尋ねられた。
「村の中へ戻るのか」
「ああ。西の宿駅なら、もう受け入れを始めている。途中で止まらずに進んでくれ」
人を避けながら馬を走らせた。
村へ近づくと、木々の間に黒いものが見えた。人の背より高い魔物が、四つ脚で道を塞いでいる。口元から白い霧が漏れていた。
俺は馬を降りた。
近くへ寄る前に、二人が盾を持って前へ出る。
霧が地面を這ったところへ、俺は剣を当てた。低く結ばれた術の輪が見えた。
「踏むな」
後ろへ声を掛け、切った。
霧が散った。
俺は息を吐き、次の結びへ手を伸ばした。
生き物そのものではなく、道に掛けられた足止めだった。先へ入る者を捕らえ、声を出せなくする術。これがあると、逃げる住民も止まってしまう。
左の盾が魔物を押し、右から槍が入った。
倒れたものの奥で、誰かが叫んだ。
「集会所じゃない。粉挽き小屋へ!」
俺は、その声を知っていた。
ミレナが村の広場に立っていた。
修繕班の腕章をつけ、子供の肩を押している。集会所に人は残っていなかった。後ろの道へ、女たちが走っていく。
「ミレナ」
俺が呼ぶと、彼女はこちらを見た。
ほっとした顔を、しなかった。
「橋の下!」
俺は剣を上げた。
石橋の影から、もう一頭が跳んだ。見張りは川の上流を見ていた。下を通ってくるものを、捉えられていなかった。
俺は剣の腹で受け、身体ごと横へ流した。
獣の肩から、細いものが伸びる。
骨ではなかった。硬く固めた魔力が、槍の穂のように出ていた。
俺の剣は、身体の外へ離れていた。
喉へ届くと思った。
次の瞬間、ミレナの手が間へ入った。
肩を押され、俺は横へ倒れた。彼女の左腕に、穂が刺さった。
薄い血が飛んだ。
槍を持った仲間が魔物の胴を貫き、俺は喉元の結びを切った。硬い穂が崩れ、妻の腕から抜け落ちた。
ミレナが膝をつく。
俺は、その身体を支えた。
「馬鹿、何で前に出た」
「橋の、下に」
「もういい。喋るな」
傷を押さえた布が、すぐに濡れた。
俺が手を伸ばすと、ミレナは一度だけ引いた。左の手首を、自分の身体へ隠そうとした。
「見せろ」
言ってから、俺は布の下を見た。
古い火傷だと聞いていた痕が、白く光っていた。
倒れた魔物の肩にも、同じような光が残っていた。
*
村から退くまでに、四人が傷を負った。
住民の一人は避難の途中で転び、もう一人は足止めの術に捕まっていた。二人とも、こちらの兵が運び出した。
死者はいないと、戻ってきた班長から聞いた。
俺はその報告を聞いてから、初めて座った。
サビナの天幕の外だった。
妻は中にいる。俺は手についた血を洗ったが、爪の端に残っていた。
水で擦りながら、あの光を思い出した。
同じ術を受けたのかもしれない。
傷を負わせたものに、何かを植えつけられたのかもしれない。
俺は幾つも理由を考えた。
どれも、眠れない夜に手首を握っていた姿を、説明してくれなかった。
サビナが出てきた。
「命には、今のところ問題ない。傷を閉じたら、出血は止まった」
「腕は」
「指は動いている。深い傷だから、しばらく使わせない」
俺は立ち上がった。
「会ってもいいか」
サビナは少し黙った。
「あなたに話す前に、本人へ確かめたいことがあるの。外で待っていて」
「何を」
「傷とは別に、魔力の流れが普通と違う。ルーカスにも来てもらう」
俺は天幕の入口を見た。
布の向こうから、妻の声は聞こえなかった。
そこへダニエルが来た。
村の防衛について、聞き取りをするという。俺は椅子へ座り直した。
「集会所から、人を動かしたのは奥さんか」
「ああ。俺が戻った時には、もう動いていた」
「橋の下から来ると、言った?」
俺は頷いた。
「ミレナは、何て」
「まだ、聞いていない。他の班の者から確認している」
俺は手を拭いた布を握り込んだ。
ダニエルは目を逸らさなかった。
「奥さんの話も、本人から聞く。お前にも、それは分かっていてほしい」
「ああ」
返事をしたら、少し声が掠れた。
妻が俺を守ってくれた。
その事実は、動かない。
だが、どうして妻だけが分かったのか。
その問いを、俺も天幕の外へ追い出せなかった。
*
聞き取りが終わり、俺は集会所の裏へ回った。
修繕班の女が二人、使えなくなった布を分けていた。その一人に呼ばれ、裂けた軍服を持たされた。
「腕が動くなら、これ、あちらへ」
俺は指された場所へ運んだ。
妻がいた場所へ、立っていた。
「ミレナは、どうして人を動かしたんだ」
思わず聞くと、女は顔を上げた。
「危ないから、裏へ出てって。初めは誰も動かなかったわ。ここなら石の壁があるって、村の人は言っていたもの」
「それで?」
「水車小屋の横へ出れば、軍の馬車が見えるって説明してた。子供を先に連れていくから、大人はあとから来てって」
女は布を広げ、裂け目を見た。
「自分だけ走ったら、私たちもついて行かなかったかもしれない。残ってた荷物を、先に出してくれたのよ。あの子は」
俺は軍服を積み直した。
妻が俺を見つける前に、そこで仕事をしていた。
そのことに、ほっとした。
ただ、ほっとしたことと、説明のつかない知識があることは、同じ場所へは置けなかった。
「腕を怪我したって、聞いたわ。落ち着いたら、私たちも行っていいか訊いておいて」
俺は頷いた。
その言葉をサビナへ伝えたが、妻には会えなかった。
村の入口へ戻ると、荷車が一台、まだ道を塞いでいた。
石に車輪を取られていた。御者と兵が押し、別の兵が荷を下ろしている。
俺は後ろへ回り、肩を入れた。
一度では動かなかった。
息を合わせ、もう一度押した。車輪が石を越え、荷車が少し前へ出る。
俺は手を離し、膝へ両手をついた。
御者が礼を言った。俺は頷き、荷の一つを元へ戻した。
妻が傷ついた。
それだけを考え続けていたかった。あの光も、橋の下を知っていた理由も、今は置いておきたかった。
だが、車輪が動かなければ、後ろの荷も通れない。
目の前の重い箱を運んでいる間だけは、考えることが一つになった。
終わって手を洗うと、指の付け根に小さな擦り傷があった。
昨日、妻に抜いてもらった棘の隣だった。
俺は水を止め、布で押さえた。
夕方、ミレナから伝言があった。
サビナとルーカス、それから指揮官の前で、自分から話す。俺にも同席してほしいという。
俺は頷いた。
天幕へ入ると、彼女は寝台の上で背を起こしていた。
腕には厚い包帯が巻かれ、左手につけていた指輪は、右手へ移されていた。
左手が腫れるから外したのだろう。
彼女の前へ椅子を置かれたが、俺は座るまでに少し時間がかかった。
「バルト」
妻が呼んだ。
俺は顔を上げた。
「集会所を、川側から囲めって、声が聞こえたの」
「誰の声だ」
「魔物の伝令。倒れたあの獣が、運んできた命令」
ルーカスが、横で黙って記録を取っていた。
妻は俺を見ていた。
「私には、聞こえる」
俺は膝の上の手を開いた。
握っていた布が落ちた。
「どうして」
ミレナの唇が動いた。
一度、音にならずに閉じた。
もう一度、開いた。
「同じ所で、作られたから」




